十八 暁鐘
「電話をスピーカーにしてくれ?分かったわ」
全員が居間に座ったところで、シェリルに電話をかけるとそのような指示が出た。
『みなさん、お忙しいところ申しわけありません。恐らくサツキちゃんとの会話で、大体分かったかと思うんですが……』
「ねえ、シェリル。何でまたこんな持って回ったことするの?勝山さんとことここって数百メートルしか離れてないんだし、対面でやればいいじゃない」
真っ先に疑問をぶつけたのは、清香である。
それにシェリルは少しためらったようだったが、ややあって、
『……出来ないんです。私が離れるのも、みなさんに来てもらうのも。実を言いますと、この通信も隠密裡に行ってます』
妙なことを言い出した。
「隠密裡って……どこか別の部屋で話してんのか?」
『いえ、勝山さんと同じ部屋です』
「他のとこ行かなきゃ隠密も糞もないだろ。そもそもこっそり話してるくせに、何でそんなに声大きいんだよ。普通に話してるのと変わらんぞ」
『それはそうですよ。私の内蔵通信機を脳内通信モードにして、そっちにかけてるんですから』
「へッ!?」
突然出て来た聞き慣れぬ言葉に、啓一は思わずサツキの方を見る。
「ああこれ、よほどのことね。こんなやり方でかけて来るなんて」
「何なんだい、脳内通信モードってのは」
「これ、多機能なの入れてると出来る芸当なんだけどね……」
何とアンドロイドの内蔵通信機の中でも高性能なものには、口でしゃべらず頭の中で言葉を発することで通信するモードがあるというのだ。
そうなるとシェリルは、わざわざ沈黙を装ってまで電話をかけているということになる。
資料を見てほしいというだけで、なぜそこまでしなければならないというのだ。
『
声がややあせっているあたり、やはり何かにおうものがある。
その意図をくんで、サツキと清香が資料を改め始めた。
『龍骨欺瞞破壊対策の手引』なる手引書に設計図などの参考資料が添附されており、一度に見るには結構な量がありそうである。
だがそこはさすがに専門家、手分けして次々と見ては理論との照合や計算を行い、そのかたわら意見も交わし合うなど、実に手慣れたものだ。
そのきびきびとした姿は、まさに二人の面目躍如である。
だがしばらくして、その手がしきりに頁の行き来を繰り返し始めた。
何度も何度も同じ場所で検算が行われ、しまいには論文まで出して来ている。
「……何これ、ふざけてるの?」
三十分ほど検分した後、サツキがようやく言ったのはその一言だった。
耳をぴんと立てむっつりとふくれている上、こめかみがひくついている。
「ふざけてるわねえ。というより、これ悪意すら感じない?」
「同意見です。絶対に分かってやってますね……」
「このいやらしさと狡猾さ、うっかり間違えましたで出来るもんじゃないわ」
清香も不快そうに言うと、顔を露骨に歪めてみせた。
二人分の怒りがにわかに場に漂い、圧力すら感じる。
『あー……そ、そんなにひどいんですか』
電話の向こうにもこの雰囲気が伝わったらしく、少々引き気味の声でシェリルが言った。
「ひどいわよ。ただ、中身がでたらめとかそういう意味でじゃなくて、もっと悪質なやつね」
サツキによれば、記述されている欺瞞方式や欺瞞設備はセキュリティの高い最新式で、特におかしなところはないのだという。
また想定される欺瞞破壊法として提示されているものも、きちんと理論にかなうものだ。
だが極めて注意深く細部まで読み込んでみると、途中で話の趣旨や論理がすり替わったり、数値が論理展開に都合よく扱われたりと、微細な誤りがところどころにある。
それも単純に間違えたというものではなく、明らかに誤った結論へと導くため故意に仕込まれているのが見て取れたのだ。
『つまり、ミスリードですか……』
このことである。
しかもこのミスリードが、普通の技師辺りならうっかりすると引っかかってしまいかねないほど巧妙な代物だというのだ。
さすがに研究者なら見抜けるだろうが、完全証明するまでに結構な労力と時間を要することになるかも知れないというのだから、実にたちが悪いにもほどがある。
三十分でそれが出来たのは、ひとえにこの二人だからだ。サツキだけでも相当なものだが、先にちらりと述べた通り清香もトップクラスの研究者ゆえ、組めば百人力千人力になるのである。
よほど腹が立ったのか、専門用語を混じえて烈しくなじり出す二人を、
『分かりました、分かりましたから止まってください。とりあえず、かなり高度なミスリードの仕込まれたものという理解でいいですか?』
シェリルが大あわてで止めた。
「まあそうね。これ、本当に本物なの?もしそうなら悪い冗談にもほどがあるわ」
『残念ながら、冗談じゃないんです。一応、本物という名目で渡されたデータでして』
「……そろそろ、どういうことか話してくれないかしら。普通じゃないわよ」
清香が不機嫌な声で促すと、シェリルはようやく
『実は今、龍骨内への侵入方法について探るため、極左暴力集団周辺のサーバにハッキングをかけている最中なんです。ただ私たちだけではどうも限界があるので、都市保全部の方からあらかじめ資料を提供してもらいまして、無事入れたら両者で連携して情報を探るという話になっているんですよ。部内で特に重力学に明るい方が担当者なので、ちょうどいいと』
確かに欺瞞をいかにして破ったかを探ろうとしているのに、そもそもの欺瞞方法が分からなければ意味がないし、重力学の知識がなければせっかくの情報も読み解けないはずだ。
だが担当者、それも重力学に詳しい者を確保すればそれらの問題が一斉に解決し、資料片手にリアルタイムで質疑しながら内容の解読をして、ファイルを取得することが可能になるわけである。
『その資料としていただいたのが、まさにそれなんですよ』
「なるほどね。で、予習にこれを読んでいたってところ?」
『そういうことですね。まだ外ればかり引いている状態でして……。作業は基本勝山さんにまかせるしかありませんし、せめて先に読んでおこうと』
どうやら今回、シェリルはこのハッキングの作業自体には関わっていないようだ。もっとも先日のように、直接身を張ってやること自体が異例らしいのだが。
ただ捜査担当者として随伴している以上、何もしないわけには行かない、そのような意識が資料に手をつけさせたのだろう。
「とりあえず状況は分かったわ。でも、そこからどうして私たちに検分させようと思い立ったの?ここまでやるからには、中身が怪しいと思ったってことなんでしょ」
「そうよ、相当その道に明るくないと変だとすら思えないはずよ」
サツキと清香がもっともなことを問うた。
いくらシェリルが優秀でも、さすがに重力学の知識なぞないはずだろう。
『もちろん内容に関しては無理です。怪しいと思ったのは、一部の画像に改竄が行われていることが分かったからなんです』
「えッ」
この予想もつかない言葉に二人以外が驚きの声を上げる中、
「ああ、もしかすると画像検証機能使ったの?」
サツキが耳を片方倒しながら言った。
『そうですね、今回久々に使ってみました』
実はシェリルのアイ・カメラには、画像に編集が行われているか否かを検証し、該当する場所を検出する機能がついているという。
今回手引書を見ていてところどころで違和感を感じたため、この機能で検証をかけたところ、加筆や削除が大量に行われた痕跡があるという結果が出たのだ。
『今、検証結果を送ります。それで判断してもらえれば』
そうして送られて来たデータを見ながら、サツキと清香がぱぱっと検証を開始する。
「……ここの画像、理論に従えば出来るはずの反重力場のむらを削除してるわ!」
「こっちも、同じようなのがあるわね。……ああ、こっちは光の曲がってる部分に加筆が」
こう言っているのを聞くといかにも大きいようだが、実はいずれも画像上ではかなり小さい改竄で、九割九分見逃してしまうようなものだ。
こんなものを見事にとらえたのだから、シェリルの検証機能は相当なものである。
「こんな市民生活の根本に関わる大切な文書で、ここまで大量の改竄なんて有り得ないわよ」
「サツキちゃんに同じく。ここまで来ると学問的にどうこう以前の問題ね」
話にもならぬとばかりに言う二人に、
『……となると、やはりこれは偽造ですね』
シェリルが確信したように言った。
文章には嫌らしいミスリードが仕込まれ、画像類は悪質な改竄を受けている。そんなものが本物の手引書であるわけがないはずだ。
ひとしきりあきれた後、サツキは電話に向き直りシェリルに問う。
「ねえ、これでっち上げたのどこの誰よ?この分だと作成者の名前も当てにならないでしょうし」
偽造文書ということで当然の疑いだったが、シェリルは一瞬黙り込むと、
『それがですね、作成者だけはそこに書かれている通りなんです。何せその本人が、わざわざ自分が作ったものだと言って渡して来たものなんですからね』
驚くべき答えを返して来た。
「え!?じゃあこれを作ったのって、手伝ってくれる予定の市の担当職員ってこと!?」
『そういうことになりますね。しかもその担当職員は重力学で博士号を持っているほどの専門家、やろうと思えばこういう偽造も出来るでしょう。こちらを騙す気満々の故意犯ですよ』
「そんなことして一体全体何の得が……」
そう清香がつぶやいた時である。
そこで、サツキの脳裡にひらめくものがあった。
この状況から導き出される結論は、もはや一つしかない。
「……まさか、獅子身中の虫ってこと?」
このことだった。
『まさにその通りです。この職員――
「………!!」
重々しい声で言うシェリルに、一同が一斉に色めき立つ。
ここで、まさか市民に対する裏切りをなす者が出ようとは思いもしなかったのだ。
「もしそうなら、随分なめた真似をしてくれるものね。市の職員なら、重力研から私が招かれていることくらい知ってるでしょうに。この資料が手に渡る可能性を考えなかったのかしら」
サツキがぎりぎりと切歯しながら、怒りを隠さずに言う。
「天才」呼ばわりが嫌いではあるが、それでも才能に対する矜恃というものはしっかりあるのだ。
相手が意図したか否かはともかく、それを傷つけるような行為を堂々とされて黙ってはいられないということなのだろう。
「シェリルがずるみたいな機能積んでたから、分かったとはいえねえ……重力研の者としてはさすがにねえ……ちょっとねえ、おふざけがねえ……」
清香も顔をひくつかせながら、呪詛のように怒りを口にし始めた。
『ま、まあ、落ち着いて……。逆に言えば、相手にそれなりの慢心があるということですから』
声からも如実に分かるほどの怒りに、シェリルが大あわてで二人をなだめる。
これでは話が進まぬと、啓一が間に入った。
「ちょっといいか。……それとは別方向で疑問があるんだが。小川は今まで、内通者たることをうまいこと隠し通して来たんだろ。それなら、何で今さらこんなばれかねないような行動を取ったってんだ?看破される可能性だってないとは言えないってのに」
もっともである。
もし内通者だと露見すれば計画が大きく破綻してしまう上に、自分もただでは済まないのだ。そんなことくらい、本人が一番分かっているはずだろう。
それならばいくら露見の可能性が低いと思っても、下手な真似は避けた方がいいはずだ。
事実、偶然が重なってのこととはいえ、自分たちによって資料に仕込んだからくりを見抜かれ、たちまちに化けの皮をはがされてしまったではないか……。
『これは私の推測なのですが……小川は、時間稼ぎをしようとしているんじゃないかと思うんです。それも、自発的というより松村からねじ込まれて』
「時間稼ぎ、か……。平沼の造反を知って、多少はあせってやがるのかね」
あのように下っ端扱いをしてはいたが、曲がりなりにも平沼は幹部格の人物だ。
与えた情報量を絞っているとはいえ、計画についてかなりの部分を知ってしまっている。これで自首なぞされたら、確実に警察が動き始めるのは馬鹿でも分かる話だ。
『そう考えると、小川が今取っている行動も理解出来るんですよね。実は、電話をつなぎっぱなしにしておくよう頼まれているんです。出番が来るまで何時間かかるか分からないのに、普通そういうことしますかね?』
「監視のつもりなのかしらね……?」
『多分そうなんでしょうね。こっちで何か自分のことを疑うような会話やら通話やらが聞こえたら、親玉にご注進するつもりなんだろうと』
「ああ、それでこんな声の出ない方法で連絡を……。ようやく分かったわ」
サツキが、やっと納得したというような口調で言う。
しかしいくら露見しないかどうか心配とはいえ、無理矢理電話を何時間もつなぎ続けるとは、随分と無茶なことをするものだ。
こんなことをするのは、そもそも小川自身にこちらを騙し切れる自信がないことの現れだとも言えるかも知れぬ。
「そんで、これからどうすんだ?まさか、すぐにふん縛るわけにゃ行かないだろう」
『それなんですが……とりあえず、本部に疑いがある旨連絡を入れるのまでは考えています。そこから先は、さてどうするか。泳がせれば尻尾を出す可能性がありますが、その分松村へ余分に時間を与えることになりますからね』
「ふむ……雑魚にこだわって、本命を取り逃がしたら世話ねえしな。だが、その雑魚が大きな情報持ってる可能性もあるわけだから、難しいところだ」
啓一が難しい顔になって考え込んでいると、サツキが、
「じゃあもう、思い切って揺さぶりかけちゃったらどうかしらね」
思いがけないことを言い出す。
『えッ……揺さぶりかけるっていっても、使えるのはその資料しかありませんよ。あっちはこんな巧妙なものを作れるほどの知識があるんですから、のらりくらり
「私がやるわ」
『……ええッ?』
「だから、私がやるわ。研究員の意地にかけて、のらりくらりなんてさせない。それに……」
シェリルが驚くのをよそに、サツキは、
「ここまで馬鹿にしてくれたからには、直接それなりのお礼をしないといけないじゃない?」
真っ黒な笑みを浮かべながらそう言ったものだ。
その全くもって笑っていない眼と低い声に、一同が凍りつく。
シェリルも同様だったらしく、一瞬息を飲むような声を上げて黙り込んでしまった。
それにも構うことなく、サツキが続ける。
「とりあえず私も公式に助っ人として捜査に協力してるってことになってるし、こっちに資料が渡ってても、そのことで直に話すようなことになっても、立場上そっちとしては問題ないでしょ?」
『それは、確かにそうですけども……』
「じゃ、つないでくれないかしら?どうせあっちも手すきでしょ」
『ちょっと待って……』
「つないでくれないかしら?」
『わ、分かりましたよ。その代わり、本部に先に連絡させてください。それじゃ切りますので!』
有無など言わさぬとばかりの圧力に、ついにシェリルは屈した。
「お、おいおい、サツキさん……大丈夫なのかよ、内通が疑われるやつと直接対決なんて」
余りの急展開に、啓一が横から心配の声を上げるが、サツキは無言でにっこりと笑う。
(やる気満々だ、これ……しかも『殺す』って書く方のやる気じゃないか!)
困って清香の方を見ると、こちらも黒い笑顔でサツキと笑い合うばかりだ。
そこまで激昂するほどなのかと思ったが、とても言える雰囲気ではない。
『お待たせしました。本部経由で、市庁を警邏している部下に事情を話しておきましたから。もし逃亡しようとしても網にかかります、やっちゃってください』
再びかけて来た時のシェリルは、もう肚をくくったとばかりの声であった。
『直接対決になるので、やり取りを聞かせてください。私の頭脳を経由させればいいだけですので』
シェリルはコードを召喚すると、手首の端子と宮子宅の固定電話とを接続する。
こうしておいてから内蔵通信機内で交換機のごとく接続を切り替えることで、サツキと小川との会話を実現し、同時に中に入ってやり取りを聞くという器用なことが出来るようになるわけだ。
「分かったわ。私はひたすら追いつめるから……あ、そうだ、相手が往生際悪かった時にへし折る作戦考えたから、その手伝いもお願い」
そうして出された作戦に、シェリルが露骨にどん引くのが分かる。
『……本気ですか?』
「本気も本気よ?いいわね?」
『は、はい……』
言外に漂うすさまじい圧力に、再度シェリルは屈したのだった。
それからややあって……。
市庁にある都市保全部の室内で、受話器を持ったまま一人の男が固まっていた。
さもありなん、それまでコンピュータの操作音と物音などが響いていた電話から、先方にいるはずのハッカーとも刑事とも異なる女性の声が聞こえて来たからである。
この男こそ、目下裏切りを疑われている小川寛その人だ。
休日出勤をしているため、室内どころかこの階にいるのは彼一人だけである。
『はじめまして、都市保全部の小川寛様ですね?お忙しいところ、突然失礼いたします。私はこのたび、大庭刑事より捜査協力を依頼されております、重力学者の真島サツキと申します』
「はい、確かに小川ですが……どのようなご用事ですか?」
『大庭刑事より、小川様の作成された『龍骨欺瞞破壊対策の手引』と添附資料を見てほしいと頼まれ、一読させていただきました。つきましては、それに関するお話を、と』
件の資料の名を出されて一瞬びくりとしたが、捜査協力をしている同業者という時点でこの話をされる可能性があってもおかしくはなかった。
相手がどれくらいの知識を持っているかは知らぬが、簡単にあれだけのからくりを見破られはしまいし、まして偽造とも気づかれまい。
そう自分を奮い立たせながら、改めて受話器を持ち直した。
『いや、実にお見事なものです。よく重力学について理解されておりますとともに、極めて使いどころの難しいとされている理論まで使いこなされていて……これならば、満点でしょう』
サツキの言葉に、小川は胸をなで下ろす。どうやら、ばれてはいないようだ。
だが、礼を言おうとした瞬間である。
『……もっとも同じ満点でも、偽造文書として満点なのですが』
サツキが突如、爆弾を放り投げて来たものだ。
「なッ……」
小川が飛び上がったのは言うまでもない。
さっきのほめ言葉は完全なフェイントで、
(偽造がしっかり露見していた……)
ことが分かってしまったからだ。
小川が次に何を言っていいものか混乱するのにも構わず、サツキはまくし立てる。
『いやはや見事なものです。論点をじりじりと数頁にわたってじっくりとすり替えて行き、記述も巧みにそれを欺瞞するように工夫されている。数値の使い方も、かなりの部分ではきちんとした使い方をしながら、その中に隠して都合のいいように使用を行っている。一見すると分からないのが実ににくい。画像も、まあどれだけいいソフトをお使いになったのか、どれだけ時間をかけたのか、本当に細かい加筆削除がなされていて、素晴らしい仕事と言うべきでしょう』
「………!」
皮肉をたっぷり込めた指摘が次々飛び出して来るのに、何か言い返そうとするが、完全に押されてしまって何も言えぬ。
いや言い返そうにも、いちいち指摘が正鵠を射ているので無理というものだ。
『さてそれでは、総評はここまでにして細かい指摘に移りましょう。まず五頁ですが……』
小川の反応を一切無視して、サツキは具体的な頁数と記述や図を挙げながら、その論理的矛盾や捏造箇所などを次々と指摘して行く。
あくまで口調はていねいなのだが、人格否定一歩手前というほどえげつない言い方だ。どんなに厳しい学術雑誌の論文の査読でも、さすがにここまでは言わないというほどである。
露見したというだけでも衝撃なのに、こう来られてはもはやパニックになるしかなかった。
『……そのようなわけですので、私としましてもこれは、到底重力学者の書くべきものとは認めがたいと結論づけざるを得ません。しかもこれは公文書です。その性質と重要さとを鑑みるとこのようないい加減なものが本物とは思えませんので、偽造と判断いたしました。それほどまでにひどいものというわけです。そうですね、もしここに記されている内容を論理展開も何もそのままに研究論文へ改稿して学会誌に提出されたならば、査読結果は確実に……』
サツキはそこで思い切りためを入れると、
『
そう宣告する。
次の瞬間、小川は思い切り電話をたたき切っていた。
「はあッ、はあッ、はあッ……」
滝のように冷汗が流れて止まらぬ。
相手が何者かは知らないが、捜査協力者にここまで完全に見抜かれたからには、そのまま警察にも伝わっているはずだ。
急いで松村に電話しようと、受話器を取ろうとした時である。
いきなり電話が鳴った。
「ひいッ」
短く叫ぶが、いつまで待っても鳴り止まぬ。
困り果てて取ると、果たしてサツキであった。
『突如お切りになるとは、さすがに失礼ではありませんか。お伝えしたことが、相当に衝撃的だったのは理解いたしますが……』
「あ、あんた一体何者だ!!普通の学者じゃないだろ!!」
『え?普通です。ただ国立重力学研究所の研究員というだけで、別に変わったことはありません』
悠然と言うサツキの言葉に、小川はしばし考えて、
「………!」
ある記憶に息を飲む。
国立重力学研究所の真島サツキ――「天才」とうたわれ、二十歳で研究員に抜擢されたという重力学界一の麒麟児。その人だと、やっと気づいたのだ。
(と、とんでもないのがよりによって……!!)
小川はあせっているが、同業者が聞いたなら「名前を聞いた時点で気づかない方がおかしい」と冷たく突き放すだろうし、下手すればもぐり扱いすらするだろう。
普段はごく普通の狐族の女性なのですっかり忘れてしまうが、重力学の世界においてサツキはそれほどまでに有名な存在なのである。
それをころりと忘れていた時点で、もはや小川の負けは決まったようなものだったのかも知れぬ。
『ところで、このような偽造行為をなぜ行われたのですか?もしかすると……公僕でありながら市民を裏切り、本来仇敵たる一新興国産業に与したのではありませんか?』
「………!」
「くそッ、このッ!」
悪態をつきながら、次は鳴らせまいと動き出す。
携帯電話なら着信拒否で消して終わりだが、固定電話は災害時などの補助通信機器として実体を持たせるよう法令で定められているため、そのように器用なことは出来ないのが実情だ。
そのため応急的かつ強制的に着信を拒む方法は、ただ一つしかない。
「こッ、これならどうだ!」
受話器を上げてしまうことだ。意外なほど原始的だが、実体がある以上これが一番である。
だが市庁という場所である以上、小川の電話一台鳴らないようにしたところで電話番号を共有した他の電話が鳴るだけだ。
「そうだった……!」
自分の間抜けぶりに舌打ちした小川は、そこで奇妙なことに気づく。
(電話が一台しか鳴っていない……?)
このことであった。
代表番号ならばこの部屋全て、小川の所属するコロニー保全課への直通番号でも十台余りの電話が鳴るはずで、一台だけ鳴るなぞ有り得ない。
「ど、どうしてだ……!?」
鳴っている電話の前に思わず飛び出した結果、受話器が転んでしまった。
『またも失礼な方ですね。質問にお答えいただきたいのですが……』
サツキの声が流れ出すのに、反射的にたたき切る。
だが受話器を外してしまおうと少し持ち上げた瞬間、間に合わず再び鳴り出した。
しかも今度は、二台だけである。
持ち上げきる前だったために、やはり取った形となった。
『もう失礼はとがめません。お答えをいただけますか』
サツキの声が聞こえて来るのに再び切ろうとして、小川はもう一台の電話が会話中もずっと鳴り続けているのに気づく。
呼び出し音の圧力に無視出来ず、取って両耳にヘッドホンのごとく当ててみた瞬間だ。
『聞こえてらっしゃいますか?』
何とサツキの声が、ステレオで流れて来たものである。
「なッ、なッ、なななッ!?」
小川は危うく腰を抜かしかけ、その場でよろめいた。
二つの電話で同じ通話につながるなどというのは、どう考えても有り得ない。
冷汗を飛ばしながら二つともたたき切った小川は、今度は電話を先んじて封じようと、鳴っていない電話の受話器を上げ始めた。
「くそッ、何でうちの部はこんな広いんだよ!」
台数の多さに切歯しながら、とにかく上げて行く。
しかし、その努力も間に合わなかった。今度は、三つだけ電話が鳴ったのである。
恐る恐る三つとも取ってみると、
『お答えをいただけますか?』
サツキの声が三重になって聞こえて来た。
「げえっ……」
たたき切ると、今度は四つだけ鳴る。取ると、サツキの声が四重に聞こえる。
とうとう小川は恐怖から、電話を床へ投げ捨て始めた。
「こ、これで、これで……」
乱雑に投げたため、全て受話器は外れている。鳴ることはないはずだ。
しかし安堵した瞬間。
全ての電話が突如として鳴り、通じないはずの受話器から、
『いい加減にお答えいただけませんか。往生際が悪いですよ』
一斉にサツキの声が流れたものだ。
もはやこうなると、怪奇現象としか言いようがない。
「うわああッ……!」
たまらず、小川は部屋を飛び出した。
そしてすぐそばを通りがかった連邦警察の刑事にすがりつき、
「刑事さん!助けてください!!あの電話を止めてください!!お願いします!!私の負けです、自首しますから、自首しますから!!全部、全部お話ししますから!!」
錯乱しながら必死に助けを乞い始めたのである。
余りの絶叫に、この声はシェリルとサツキたちにも聞こえていた。
「あら、やりすぎたかしら」
『やりすぎたかしらじゃありませんよ。明らかなオーバー・キルです』
回線をサツキたちへ切り替えたシェリルが、あきれたように言う。
「片棒かついだくせに、今さら何言ってんの」
『まあそうですが……まさか固定電話に対してハッキングもどきをさせられるとは』
実はこの怪奇現象こそ、サツキがシェリルに頼んだ件の「作戦」であった。
そもそも単騎でハッキングが出来る身、電話を操作するなぞ赤子の手をひねるようなものである。
鳴らす台数を絞れたのと複数台で同じ通話を流せたのとは、市庁内の交換機に忍び込んで都市保全部につながる回線を掌握し、一時的につなぎ変えるなどの細工をしたためだ。
また受話器の外れた電話を鳴らし通話を流せたのは、さらに末端の回線を使用して電話機本体まで掌握し、本来の仕様を無視した動作が起こるよう操作したためである。
こう書いてしまうと何のことはないのだが、知らなければかなりの怪奇だ。
それを波状攻撃で食らった小川が、おびえ錯乱したのもむべなるかなというところである。
『あ、ちょっと待ってください。……はい、自首を確認しました』
該当の刑事からの連絡なのか、一時的に回線を切り替えたシェリルは、すぐに戻って来て一同に小川の自首を報告した。
『とりあえず、小川の処理については本部と相談をします。ちょっと切りますね』
「分かった。また何か動きあったら頼むわ」
通話が切れ、部屋の中にどこか安堵したような空気が流れる。
ここから先は、シェリルの管轄だ。恐らくは小川が泥を吐けば、裏切りが明らかになろう。
「……ああ、すっきりした」
「言うだけ言ってやったわね。しかもついでに驚かすとか、意外と性悪なんだから」
「先輩だって愉快そうにしてるじゃないですか」
愉悦にひたりながら話すサツキと清香に、一同が顔を引きつらせたのは言うまでもなかった。
そうしているうちにまた電話がかかって来る。今度は宮子であった。
『サツキさん、大丈夫かな?』
「大丈夫ですよ。こっち、スピーカーになってますけど通常に戻しましょうか?」
『いや、いいよ。他の人に聞こえても別に構わないし』
「そうですか、それなら……。今、そっちどうなってるんですか?」
『今は僕一人だよ。シェリルは一度本部に戻るって言って出てった。作業が中途半端だし、また来るって話だけども。それにしても人を置き去りにしてもう……』
宮子は明らかに困惑している。
彼女曰く、シェリルは資料を一読した後「通信します」と書いたメモを差し出して押し黙り、一時間ほどしたらコードを召喚し固定電話に接続してまた押し黙り、というありさまだったとのことだ。
それが終わった途端、大急ぎで簡単に事情を話したかと思うと、そのうち戻るから迷ったふりを続けるよう指示し、本部へ飛んで行ってしまったのだという。
『内蔵通信機の仕様は知ってたけど……ずっと黙ってるくせに表情だけころころ変わるし、実際やられるとちょっと不気味だったよ』
確かに図を想像すると異様すぎて、そう思ってしまうのも仕方ないことだ。
「状況的にしょうがないとはいえ、黙って百面相はたまらないですよね」
『だよね。……それはともかく、さっきので危うくはめられるところだったから見抜いてくれたお礼言おうかと思ったんだ。サツキさんたちいなかったら、捜査がもう何日も滞ったと思うよ』
「大したことないわ。ただちょっと、私たちの方が一枚上手だっただけよ」
『そうなのかあ……でも充分にすごいよ、それ』
少々むずがゆい気持ちになりながら、サツキは話を変える。
「それより、迷ったふりを続けろって……それはそれでまたじれったい話ですね」
『そうそう、気がもめるよ。でも、絶対にそうしなきゃいけないってわけじゃないんだ。「進めるなら充分に安全なやり方で進めてもいい」って言われてさ……。そう言われてもこれ、今のままじゃ進めないから一回戻って入り直さないと駄目なんだよ。どうやっても危険なんだけど……』
「ええ……?本部へ戻る前に無理なことくらい確認したでしょうに、随分無茶なことを言いますね」
不満そうな声で言う宮子に、サツキがいぶかしげな顔をして答えた。
その時、急にジェイが眼を光らせたかと思うと、
「何でしたら、私がお手伝いしますよ」
そう言い出したのである。
『ちょ、ちょ、ヤシロさん何言い出すの!?手伝ってくれるのはありがたいんだけど、まずくない!?シェリルに話通さないといけないし!どう考えても取り込み中だよ!?』
おたおたとあわてた声で言う宮子に、ジェイは、
「いやいや、まずくはないでしょう。『充分に安全なやり方で進めてもいい』わけです。主語、ないですよね?『充分に安全なやり方で進』めることの出来る関係者が、『充分に安全なやり方で』お手伝いをして『進めてもいい』……そう取れませんか」
しれっととんでもない解釈をしてみせた。
『……それ、屁理屈のような気が』
「あながちそうでもないでしょう。……というより、大庭さん多分そのつもりじゃ?」
『そんな、まさか。さすがにそんな無茶な理屈こねる……か、シェリルだし』
最初驚いていた宮子の声は、最後になって妙に納得したようなものとなる。
その辺の刑事ならともかく、あのシェリルなら、
「それくらいの含みは持たせていてもおかしくない……」
というわけだ。
それにしても、こんな刑事らしからぬところで妙な信頼を得てしまっている辺りが、さすが型破りで鳴らしているだけあるというべきか……。
「じゃあ、やってしまいましょうか」
そう言うと腕まくりをして立ち上がり、電話をつないだまま研究室へと歩き始める。
「手近で気づかれにくいネットワーク上にいてください、探して直にアクセスかけますので。……電話はつないだままでお願いします、今研究室に移動しますので。あッ、真島さんと
二日後の朝六時前。
ヤシロ宅へ向かう宮の坂に、啓一の姿があった。
まだ空が白むかどうかという時間に、彼がここを訪ったのには理由がある。
「サツキさん、半分徹夜確定とか言ってたが……大丈夫か?」
このことだった。
あれから……。
飛び入りでハッキングに参加したジェイは、ネットワーク上で宮子と合流し作業を再開させた。
さすがはまるで常識外れの
ここまではよかったのだが、思いがけない問題が発生した。
ファイルの内容がなかなか理解出来ず、取捨選択に恐ろしく時間がかかったのである。
極左暴力集団は元々政治結社ということもあってか、情報秘匿に極めて肝胆を砕いているらしく、記述そのものに暗号が使われていることが多かった。アナログな方法であるが、通常の暗号化と違って解読法から考えなければならないので、かえって手間がかかる。
さらに使われている単語や言い回しが特殊で、何を言っているのかよく分からないということも決して少なくはなく、そちらでも苦労させられる羽目になった。
こうなると極左暴力集団を相手にした経験のあるシェリルにたびたび知恵を貸してもらうしかなくなり、思ったよりも時間を食ってしまう。たまりかねて、簡単な単語などに関しては多少知識のある啓一が教えたり解釈を示したりする場面もあった。
それを乗り越えて、ようやくサツキと清香の重力学者組の登場である。
だがいざ引きずり出してみると、ファイルの数が半端ではないことが分かって来た。しかもわざとなのか知識不足なのか分からないが、とにかく内容がごちゃついており、知識を発揮する前に整理に苦しめられることになってしまったのである。
さらにはたびたび相手に気づかれそうになって退却と出動を繰り返す羽目になるなど、とにかく一筋縄では行かなかった。
挙句の果てには偶然かわざとか知らないが相手のサーバが落ちてしまい、翌日、すなわち昨日の正午まで強制退却を余儀なくされてしまったのである。
その間を「ディケ」を使った非殺傷攻撃作戦を練りつつ実行練習を行う時間に当てることが出来たため、完全な時間の無駄にならなかったのは救いであったが……。
そして午後にサーバが復活したのを確認して再度吶喊となったのだが、ここでも相変わらずの難航を強いられ、時間がどんどんと過ぎて行く。
このままでは深夜どころか徹夜すら有り得るということで、啓一は帰らされてしまった。
サツキを心配して残ろうとしたのだが、泊まる部屋がないのでは仕方もないだろう。
そして日付が変わる前に本人から電話で徹夜はほぼ確定と聞いたため、起きるや心配になってすっ飛んで来たのだ。
「あ……
玄関前にたどり着くと、そこに偶然エリナが現われる。
早起きというのは配信でも話していたので知っていたことだったが、まさかここで鉢合わせするとはさすがに思いもしなかった。
「あ、いや……どうなったかなと心配になりまして」
「そうでしたか。三時半くらいに何とか終わりまして、データはもう本部へ行ってます」
「かろうじて深夜で済みましたか。成果はどうなのやら……」
思わず啓一が難しい顔でつぶやくのに、エリナは、
「……余りはかばかしくないみたいです。どうやら本当に重要なことはデジタルでは管理してないんじゃないかというのが、みなさんの見立てですね」
軽く首を振ってそう答えてみせる。
「うわ、そうなんですか。デジタルで見られたり解析されたりしないよう、あえてアナログにしてるんでしょうね。実に小ざかしい話です」
苦労に釣り合わない結果に、啓一はまいったとばかりに頭をかいた。
「それはともかく、みなさんは今どうしてるんですか」
「寝ています。さすがに起きてられませんよ」
「寝てるんですか?この家の人はともかく、サツキさんはどうしたんです」
「ソファーなんですよ……。躰に悪いからと、私のベッドを勧めたんですが固辞されまして」
人間や獣人と違い、アンドロイドは一日くらい寝ずとも頭が正常にはたらく。
そのためなのだろうが、サツキの性格を考えるとそう言われてはいとうなずくとは思えなかった。
「うーん、研究者は結構無茶するって聞きますが、女性がソファーは躰にこたえるなあ。……まあともかく、寝てるんなら起こしちゃまずいかな。分かりました、じゃまた……」
とりあえず状況の確認は取れたので、邪魔をするまいと啓一がきびすを返した時である。
「あ、待ってください。……よければ、庭で少しお話などしませんか?」
エリナがそう言って、門内へ啓一をいざなったのだ。
「実はうちの庭、ごくわずかですけど北へ張り出してまして。そこだけ柵をつけてるんですが、景色がとてもいいんですよ。せっかくだからお見せしようかと」
「いいんですか?起こしてしまわないですかね?」
「大丈夫ですよ。広いですし、よほどの大声を出さなければ……」
「あ、それでは、お言葉に甘えて」
啓一は言われるままに一礼して庭へ入る。
そうしていればもしかするとみな起きて来るかも知れないと思ったのだが、それより、
(自分の推しと対面で長く話せるいい機会だ)
そのような下心の方が勝っていたのは否めなかった。
「ほら、下の方まで見えますでしょう」
「ほう……」
エリナが指差した先には、緑ヶ丘の街が広がっている。
植月地区でも、この辺りは比較的高台だ。それゆえに街全体がよく見えるのだろう。
改めてこうして見ると、実に普通の地方都市だ。
目抜き通りが静かに街の真ん中に横たわり、その道沿いにどこにでもあるような小さなビルや警察署・消防署といった役所が立ち並び、市庁へとまっすぐにぶつかる。
通りの右も左も、実に閑静な住宅街だ。左奥の大門町の邸宅群なぞ、人体改造実験の舞台になったことなぞ忘れるようにゆったりとたたずんでいる。
汚穢に満ちた桜通すら、知識がなければ何か明かりがついている程度にしか見えぬ。
市庁の奥には、小さく川の姿と赤駒地区の雑木林が見えた。先月、サツキとあの中を散歩した時のことをしみじみと思い出す。
「こんな静かな街にあんな有り得ない闇世界が広がっていて、さらには頭のおかしい人が国家転覆を企んで兇悪な武装勢力を蓄えているなんて、誰が思うでしょうかね……」
「俺もそう思いますよ。こっち来てからもう一ヶ月ですが、あれよあれよと話がとんでもない方向にすっ転がって行って、正直困惑ばかりです」
「これから、どう転がるんでしょうかね。小川が自首したことで、さすがに相手があきらめてくれればいいんですが」
「ううむ……」
あれから小川は速やかに捜査本部へ移送され、取り調べを受けた。
もっとも移送中もパニックを起こし続けていたため、本部到着時にはひどいありさまになっており、しばらく話を聞くに聞けなかったという。
「階全体に小便の臭いまき散らす
シェリルがそうげっそりとして言ったのが、その惨憺たる状況を物語っていた。
それはともかく……。
やはりというべきか、小川は松村と内通していた。
ただし自分の意思ではなく、無理矢理引きずり込まれたのだという。
元々小川は、さる極左暴力集団が仕立てた間者であった。
この集団は緑ヶ丘コロニーが出来た際、大胆にも武力行使をする時の拠点として龍骨を使うことが出来ないかと考えていたという。せっかく重力学の博士号持ちという人材を抱えているのだから、このまま腐らせず最大限に使った方がいいと考えたのだ。
しかしさすがに無理があるとあきらめかけていたところ、市が龍骨の管理担当職員を募集していると聞きつけ、これ幸いと応募させたのである。
果たして市は博士号持ちという一点だけで飛びついて採用、小川は龍骨に関する情報を集める諜報役として潜伏することを得た。
もっとも実際には街が反社会的勢力によって事実上乗っ取られてしまったため、集団は緑ヶ丘での活動を休止。結果的に小川の立場は宙に浮いてしまい、数回情報の横流しをしただけで、あとは細々と簡単な現状報告をするだけの存在となっていた。
ところが今回この集団が松村に与し龍骨への潜伏計画が復活することになったため、俄然として小川の存在が重要なものになったのである。
だが幹部は単に命令するのではなく、松村の背後に反社会的勢力がいると聞いて不信を抱く可能性があるからと、のっけから有無を言わさずやるよう迫るという暴力的手段に出た。
「ある時、いきなり松村と幹部たちに呼び出されたんですよ。そこで取り囲まれてやいやれそれやれと脅しつけられまして……。とてもではないですが断れるものじゃありません」
この脅迫によって最初こそおびえながら動いていたが、しばらくするうちにその恐怖もだんだんに薄れて行ったという。
さも未曾有の大革命をするかのように大口をたたいたくせをして、肝腎の松村本人が間抜けすぎるにもほどがあったからだ。
しかも松村が自分とは別に誰かを連れて来て龍骨の欺瞞を破る方法を調べ始めた上、こっちにその詳細も知らせず連携させる気もないと聞かされて、何のために自分は関与させられているのかとすっかり白けきっていたのである。
「あの偽資料も、うちの幹部がいなければあそこまで一生懸命に作らなかったでしょう」
小川はそうとまで言い切った。
思想のためには殺し合いもする極左暴力集団に比べれば、
「あんな成金なぞまるで小物……」
とでも言いたげである。
それにしても自分が従えているはずの集団の下っ端にそのような冷めた目で見られてしまう辺り、つくづく松村というのは救えない男だ。
「だけど、そう嗤ってもいられないんです。最後の壁に使おうとした男が自首して、泥全部吐いたわけですから。今度こそ、本当の本当に追い込まれたわけですよ。何をするか知れたもんじゃ」
「それは私も思います。手負いの獣は怖いとも言いますし……」
二人が言う通り、現在の松村は恐ろしく旗色が悪い。
常識的に考えれば、蜂起などせずさっさと白旗を上げた方が身のためとすら言える状態だ。
だが何度も言う通り、異常者の松村に常識が通じると思ってはいけない。
まるでやけになった子供のように、破れかぶれで行動に移っても決しておかしくないのだ。
警察側もそれを踏まえて機動隊や特殊部隊の増派を決定し、次々と緑ヶ丘入りさせているという。
もはや
二人そろってため息をついているうちに、少しずつ日が昇って来る。
この時間に昇るとなると、地球の日本でいう中国地方西部くらいの場所に擬制されているようだ。
「おや……?」
遠くで、寺の鐘の音がする。
「あ、六時ですね。一斉に鳴るんですよ」
「
「この地区にも、一つだけですがお寺がありますよ」
「お、少し遅れたが鳴った」
「こちらの世界に来てから、お寺でも仏様でも知りましたが……
エリナが仏教用語を出し合掌までしたことに、啓一は驚いた。
指を少し開いて左右交互に組むようにする金剛合掌である辺り、真言宗の寺なのだろうか。
この鐘の音を、仏教のある自分の世界の人間が一部で騒音扱いするのに対し、仏教がないであろう別の世界のアンドロイドが厳かな気持ちで聞いているというのは、何とも皮肉に思えてならぬ。
「……あの鐘の音ですら救えないのですから、本当に救えない人たちなのでしょうね、今度の事件に関わっている人たちは」
「縁なき衆生は度し難しと言うじゃあありませんか。鐘の音どころか、たとい
いささか罰当たりな言い方であるが、実際いくら道理を説いても態度を改めるような殊勝な連中ではないので仕方あるまい。
その大げさな表現がおかしかったか、くすりと笑うとエリナは続けた。
「それにしても、朝な夕なにあの鐘を聞いて感慨にひたるたび、本当にしみじみと思うんですよね。私がこうして人らしい暮らしを送れるようになるなんて、って」
「人らしい、ですか……」
「転移はつらかったですし、転居先の街は長年にわたって病んでいますし、今も大変な事件のさなかにいますし、普通の暮らしではありませんが……一人の『人』として認められていますから」
エリナはそう言うと、少し顔をうつむける。
「今から思えば、ひどい半生でした。……私の一族は代々警察の要職を務めている名家だったんですが、当主が一族内で絶対的権力を持ち、自分のほしいままに家族や一族を戦場へたたき込んで行くようなことを平然とやっているような家でした。そして『正義のためなら死ぬまで戦え』と。それが当たり前、みんなそう思っていたんですから異常としか思えません」
エリナのいた世界が、「正義」と「悪」が泥沼の戦いをしているうちに戦いのための戦いを行うようになってしまった場所だったというのは、既に話したことだ。
そのような環境で礼讃されるのは、やはり権力と実力と戦功ということになろうか。
エリナの一族はそれらをあたら持っていたがために、人倫を完全に踏み外していたようだ。
もっとも普通の世界でも時にそれで一族郎党が狂うことがあるのだから、もはや空疎となった「正義」と「悪」というイデオロギーに依存している世界で、どだいまともなことになるわけもない。
「それだけでもどうかしていますが、あの男が当主になった途端、今度はそこに女性差別が加わりまして。自分の妻すら、
あの男、とは女性差別主義者だった自分の父親のことだろう。
この分だと何人もの細君を娶ったと思われるが、みなろくな目に遭っていないのは明らかだった。
「ええ、もうですね、私がばっちりそれに相当してしまいましたからね。警察幹部なので殺すのは無理ですから、普段はいないものとして扱われました。母親はおもちゃにされ続けた挙句に私が中学の時に衰弱死、それからは私が……」
「……その辺は、いけませんよ」
啓一は思わず、エリナの言葉を強く遮って言う。
母親の死後、彼女の身に何が起こったかは大体想像がついた。
そんな残酷かつ屈辱的な話をわざわざ語らせるような下衆な趣味は、啓一にはない。
エリナは首だけで一礼すると、そのままうつむいた。
「学校も、教育内容が今思えば偏っていました。『正義のためなら死んで来い』を地で行ってましたから。全然なじめなかったです」
「そりゃあなた、なじめなくて正解だ。正常な証拠じゃないですか」
「今となればそう言い切れますけど、当時はそれで即一人ぼっちですからきついものがありました」
啓一は、エリナの世界の状況にいささかげんなりとしていた。
(第二次大戦末期より何十倍もひでえや……)
このことである。
あの「国民総力戦」という悲惨極まる世相を超えるものを、今聞いてしまったのだ。
「ずっと、自分を、自分が生まれて来たことを後悔していましたね。どこにも居場所がない。そうした社会の方がおかしいんですが、子供の身、まして生まれながらにそれでは……」
そして、エリナが十八になった時である。
眠っている間に部屋から引きずり出された彼女は、そのまま警察お抱えの研究所へ搬送された。
眼が覚めた時には父親がにやにやと笑っており、
「どうせ役立たずだ。厄介払いに鉄砲玉になって来い」
そう確かに言ったという。
その後、エリナの記憶はジェイに保護された数日後まで途切れた。
「……気がついた時には、マスターの家にいたんですよね。それで自分の状況を理解しましたが、一介の兵器になっていた私にとっては、なぜ保護されて『人』扱いを受けているのか理解不能でした」
名前が記号と数字の羅列ではあんまりだと思ったジェイに、「エリナ」の名前をもらった時も、
「――本機は量産型であり、個性は必要ありません。固有名は個性を附与することであり、許可されていません。称呼を製造番号のみとする規定に従い、拒絶します」
不要かつ理解不能の行為として、冷たくはねつけたほどだったという。
結局彼女が名を受け容れたのは、記憶と感情を取り戻して以降にまでずれ込んだ。
「出生名じゃなかったんですか……」
「そうです、『エリナ』は元は仮の名なんですよ。でも元々ひどい名前をつけられていましたし、苗字に至っては名乗るのも穢らわしかったので、未練なく捨ててこっちを本名にしましたが」
ただし名前はこれで決定となったものの、苗字はいまだに決まっていない。
単純に考えればヤシロ姓でよさそうなものであるが、エリナはそれをよしとしなかった。
苗字の話をし始めた頃、既にジェイの許にはエリナと同じ境遇の少女たちが何人か助けられて一緒に暮らすようになっていたという。いずれもエリナと同様の理由からジェイにもらった名前を名乗っており、苗字は決まっていなかった。
そのため安易にヤシロ姓を名乗ると、ジェイを独占したようになって彼女たちに申しわけないと考え、あえて苗字を名乗らなかったのである。
今はそのような気づかいはもはやいらなくなってしまったのだが、それでも堅持している辺りがエリナの生まじめさを物語っていた。
話を元に戻そう。
「記憶が戻った後の私の苦しみは、並のものではありませんでした。役立たず、役立たずと十八年間言われ続け、無理矢理役に立てと心を抜かれた兵器にされて……。ですが、もしこれで役に立っていたとしたら、それは人を傷つけていたということを意味します」
余りにも不安がるエリナのためにジェイがログを調べると、果たして対人戦闘の記録が出て来た。
もっとも致命的な傷を負わせたことは一度もなく、逆に自分の方が傷を受け殺されかけるという記録ばかりであったという。肉体攻撃では力を発揮出来ず、銃を使用してもろくに当たりもせずと、改造時に肉体や運動能力を強化されているとはとても思えないようなありさまだった。
エリナがこの結果に、後ろめたい気持ちを残しながらも胸をなで下ろした時である。
戦闘外で非戦闘員に何十回となく無差別に威嚇発砲を行った上、そのうち数人にけがを負わせていたという記録が出て来たのだ。
「それを見てようやく思い出したんですよ、民間人に銃を撃ったのを。そして外すつもりで、誤って当ててしまったことも……。あの世界に交戦法規が一切なかったから問題にならなかったようなもので、本来なら戦争犯罪です」
確かにエリナが言う通り、戦争において非戦闘員に武器を向けるのは戦時国際法のような交戦法規では代表的な戦争犯罪として必ず挙げられる。
だがこれはエリナのせいというより、このような行為を平気で行わせた上官たち、そして国際法すら設ける気がないほど戦争の意味が軽かった元の世界のせいと言った方がいいはずだ。何より、彼女は自己判断能力を完全喪失していたのである。
しかしそう分かっていても、
「武器を向けたことには変わりはないのだから、言いわけにならない」
という思いが、エリナの心をさいなんでいた。
それでなくとも彼女は自分を救ってくれたジェイに威嚇発砲をしたことに対し罪悪感を強く持っていたため、この事実によって余計に苦しみを与えられることになってしまったのである。
このことが、エリナをある行動に走らせた。自決未遂である。
この時エリナは早朝に家出し、戦闘があった場所で小銃を拾ってその場で口に銃口を含んだ。
だが何とそれは、弾切れにより放棄された銃だったのである。
結局パニックになっていじり回している間にジェイに発見され、ことなきを得ることになった。
「一瞬、銃口がマスターの方向を向いたのですが……臆せず取り上げてくれまして」
弾切れとはいえ、銃は銃である。一般人には銃口が向いただけで「死」の一文字が浮かぶはずだ。
それを顧みず奪い取ったジェイの思いが、いかに強かったか知れよう。
感情が乱れに乱れたエリナは、ジェイにつかみかかって怒鳴り散らした。
「何なんですか……あなたは!私は罪を犯したんですよ!それも生まれて来た時点で!生まれて来なければ、私も、誰も傷つくことはなかったのに……!」
そう言った瞬間である。
「馬鹿なことを言うな!」
素晴らしい
「生まれて来たこと自体が、何で罪だってんだ!周りが勝手に罪に仕立て上げたんだろうが!」
「………!」
余りにも、正鵠を射た言葉である。
本来、エリナはただの少女だ。世が世ならば、恐らくは蝶よ花よと育てられ、真っ当に「人」としての生活を送れたことだろう。
しかし現実の彼女は、親にも社会にも、およそ「人」たること全てを否定された。さらには兵器として改造されたことで、肉体的にも「人」であることを否定されたのである。
生まれたのも罪、生きていることも罪、兵器として使われたのも罪。
さらに役に立たないから罪、役に立てば罪というありさまだ。
だが、これらのどこが罪であろう。兵器としての行いとて、無理矢理犯させられた罪だ。
無辜の少女に対しここまで罪を問い負わせた者たちにこそ、本来の罪があるのではないか……。
「ない罪、作られた罪を自ら背負って、おのれを粗末にする必要なんかない」
「でも……」
「デモも遵法闘争もあるか!」
「………!」
「……君は一人の『人』なんだ、生まれて来たこと、今こうして生きていること自体に、充分に意味があるんだよ」
「………」
「安全圏からものを言っているだけに聞こえるかい?それでも構わず言わせてもらう。エリナ、君はいるだけで価値があるんだ。どうか、どうかこんなことはもうやめてくれ……」
そこで、ジェイは泪をあふれさせながら一気にくずおれた。
それを受け止めた瞬間、エリナは堰を切ったように慟哭する。
エリナが、今度こそ本当に心身ともに救いを得た瞬間であった。
「……私にとって、初めて自分を真正面から肯定された瞬間でした。ああ、私はここにいてもいいのだと。そう思うと、早まらなくてよかったと……」
今までが余りに茨の道であったがために、居場所が見つかったことの喜びは大きいものがある。
ジェイを敬慕したエリナは、その頃から彼を「マスター」と呼び始めた。
「あれも、そういうことでしたか……。製作者や所有者でもないのにおかしいと思ったんですよ」
「最初はたしなめられましたが、私が折れないのであきらめたようです」
その後エリナは、主と定めたジェイのために、献身的に動くことになる。
自分と同じ境遇にあった少女たちを救うための活動にも当然参加したし、逃避行でも自らの力を生かして先導を行った。
転移は余りに衝撃的であったが、それでもジェイを支えつつ、自らはなるたけ前向きにとUniTuber活動に精を出すようになったのである。
そうしているうちに、人を支えることにいつの間にか存在意義を見出すようになって行ったのだ。
あの日、ヒカリの激励に深い感銘を受け、改めてそのことに思いをはせたのも当然のことである。
そこでエリナは、軽く空を見上げると、
「……今の話を聞いて、私は強い、強くなったとお思いでしょうか」
そうぽつりと言った。
「元の世界で何度か話す機会があったんですが、聞いた方はみなそう言いました。こっちでもきっと言われることでしょう。でも、それは間違いです」
目線を戻してはっきりと言うエリナに、啓一は思わずはっとする。
「弱いですよ、私なんて。元があんなですよ?マスターがいなくて一人だったら、恐らく絶望して自殺しているか、復讐のため一族郎党道連れにして果てていたでしょうね。死ななかったとしても、投げやりに台なしに生きたでしょう。目に見えてますよ」
「………」
「そんな弱っちいのが、恐らくは誰もまずしないだろう苦労だらけの人生を、よくもまあ今まで生きて来たと思うんですよね。不思議なものです」
そこでエリナは、ふっとため息をついた。
「思うんですが……本当に強い人なんて、いるものなんでしょうか」
「それは……否ですね」
啓一は、明確な声でその問いを否定する。
「いるにしても、ごくごく稀ですよ。それだって正直怪しいものです。その他はただそう思い込んでいるだけか、慢心したただの馬鹿かです」
かさり、と草の上に枯葉が落ちた。
「……元の世界の時から、ずっと俺は『人は弱いもの』という前提でものごとを考えて来ました。手本にした小説家の方が、そういう考えの人だったので」
「………」
「でもですねえ、しょせんは自分が体験しないと分からないもんなんですね。こっちに転移して、自分の弱さをさんざ思い知らされましたから。余りに世界が違いすぎますし、不安になるのはもうどうしようもないにしても……ものを思えばいじけた気分になり、口を開けば愚痴が出て。正直あなたより弱いですよ、俺は」
「でもそれはよくあることだと……」
「ええ……そうなんだとは思うんですよ。しかし俺の場合いけなかったのは、サツキさんに迷惑をかけたってことです」
「………!」
「一緒に暮らしてますし、一緒に仕事もしている。常に距離が近いし話しやすいもんですから、全部彼女相手に……。しかも二十代前半の人に、半回り以上上のやつがそれですよ。サツキさんは研究員であってカウンセラーじゃないのに、我ながら何をやってるのかと」
そう言うと、先ほど落ちて来た枯葉を軽く蹴ってみせる。
「立場上口には出せないでしょうが、俺の相手は大変だと思います。悩ませてると思います。でも、止まらないんですよ。人がおのれの感情や行動を全て制禦しきれるなどと考えるのはおこがましい、そう分かってはいましたが……自分がいざそうなって、人をほぼ振り回すところまで行ってしまうと、精神的に相当つらいものがありました」
「………」
少し置くと、さっきの枯葉を足で引き寄せながら続けた。
「でもですね……先日、ヒカリさんから言葉を壁越しですがもらいました。恥ずかしい話なんですが、あれで泪を誘われましてね。隠れて泣いていたら、サツキさんに見つかって……そんなに人は強いものかと問われ、もっと自分自身を信じてほしい、あなたはいるだけで意味があるんだ、と言われました」
「………」
「……何ともはや、人の弱さを知った面でいながら、こうして言われるまで忘れていたとは。しかも、泪ながらにいさめられて。負うた子に教えられて浅瀬を渡るとは、さてもこのことでしょうか」
そう言いつつ、啓一は照れ隠しのように髪をかき上げる。
「正直これからどうしたらいいのか、まだ分かりませんがね。まあ簡単に答えが出るなら、今頃こんなぐだぐだ言ってはいないでしょうし」
かさり、と再び枯葉が落ちる音がした。
だがそれを踏みつける音が同時にしたのに気づき、二人が振り向くと、そこにはいつ起きて来たのかサツキが気まずそうに立っていたのである。
「……ごめんなさい、便所に起きたら硝子窓越しに誰か話しているのが聞こえて、出て来てしまったの。何となく入るも立ち去るも出来かねて……結果的に立ち聞きに」
「いえ、むしろこんな早朝に庭で話をしている方がおかしな話なので……気にしないでください」
エリナの言葉に、サツキが静かに眼をつむり礼をした。
「こりゃあ恥ずかしい……つらつら妙な話をしてしまっただけでも申しわけないのに。俺は歳食ってるだけで、偉そうにご高説垂れられるほどのやつじゃあない。第一こういったことに関しては、完全に倫理の破綻した世界で苦労させられたエリナさんの方が、よほど説得力があるわけだし……」
「そんなことは関係ありません。比べられませんよ、人にはみなそれぞれの事情があるんですから」
「当事者じゃない私が言うのも何だけど、エリナさんの意見に賛成よ、私も」
啓一は思わず、二人の方を振り向く。
ともに今まで、見たことのないような真摯な表情だった。
「むしろ私は、勉強になったわ。転移者の人たちは、あなたにせよエリナさんにせよヤシロさんにせよ、そしてヒカリさんにせよ、みな苦しんでいるんだと。理不尽に異世界へ放り込まれて、どうしたらいいのかも分からず暗中摸索を続けているんだと……」
「………」
サツキの達した結論は、啓一もまた達していた結論であった。
あちらの世界からは失踪にしか見えない以上、また一人でたたき込まれる以上、創作のように最初からあっけらかんとした気持ちでの暮らしはまず出来まい、と元から考えていた身である。
今回の事件でたまたま同じ転移者と出会って話をするうちに、それは確信に変わっていた。
「こないだの繰り返しになっちゃうけど……あなたは、いるだけで充分に意味のある人だと思うの」
「………」
「具体的にどういう意味があるかは、まだ明確に分からないと思う。私もそう言うんなら言ってみろとなると、言えないもの。それに……それが天賦のものなのか、自分で創るものなのかも、人によることだろうし」
近づいて来ながら、サツキは柵の
「でも、たといその理由が見つからずとも、絶対に生きて。この世界に、あなたが死んで……いやそこまで行かずとも台なしな生き方をして泣く人が、既に何人もいるんだから」
この言葉に、啓一ははっとなった。
九月五日に転移して来てから二ヶ月近くが経ち、啓一にも人脈が出来ている。サツキはもちろんだが、そこからシェリルにつながり、緑ヶ丘へ出張となったことで何人もの人と知り合った。
さらには偶然とはいえ、本来なら絶対会うことの出来ない「推し」までもがそこに加わっている。ファンには絶対にうらやましがられるはずだ。
この人脈自体が尊いのは言うまでもないし、自分がどうにかなれば必ず悲しませることになろう。
既に元の世界の人々を悲しませたのだ。せめてこの世界では人を悲しませるまい。
そう思えば、あたら無駄に人生と命を浪費することなぞ出来ようはずもなかった。
「……ありがとう」
自然に口をついて、言葉が出る。
「お礼言われるほどのことじゃないわ。それより、エリナさんはどう思う?」
「同じです。ファンの方と、こうして知り合いになれたというのに……その人が、眼の前でむざむざと自分を粗末にして行くのを見たくありません。どうか、ご自分を大切に」
「ほら、『推し』までもこう言うんだから。あなた、悲しませたらファン失格よ」
エリナに乗る形で言うサツキに、啓一は少しだけ苦笑すると、
「分かった。……約束しよう」
静かにほほえんだ。
その時、にわかに遠くで鐘が鳴る。
どうやら何かの事情で、六時ではなく一時間遅らせて七時に鳴らしている寺があるようだ。
それを聞きつつ、啓一はふっと疑問に思う。
(そういや松村も転移者だが、あの野郎は何考えて生きてんだ?)
このことだった。
異常者のことゆえ今までまるで気も向けなかったが、よく考えると異世界でこれだけ自分の妄想をまき散らせるというのは、いくら転移に夢を見ていたとしても理解出来ない。
もっとも理解する気も起きないし、理解出来たら人として終わりのような気もするのだが……。
(ああ、全く。どうでもいいだろ、あんな糞野郎のことなんぞよ。いい雰囲気だったのに台なしだ)
そう考えて、
にわかに本通の奥が赤く光ったかと思うと、どおん、という爆発音が轟いたものである。
「えッ」
朝の清冽な空気をいきなりつんざいた音に、一瞬三人が固まり、一気に
余りの音に家の中の一同も目覚めたらしく、飛び出して来て下をのぞく。
「何だ、何が起きた!?……通りで火災!?」
「啓一さん、あれ!乗用車よ、乗用車が燃えてる!!……場所は、警察署の手前!?」
「……今、確認しました!真島さんの言う通り、中型の乗用車が爆発炎上してます!!警察本部から……そうですね、市庁寄りに二百メートルほどのところ!」
獣人の人間を超える視力と、アンドロイド特有のアイ・カメラで確認したらしく、サツキとエリナが状況と場所を即座に特定した。
『聞こえますか、エリナさん!スピーカーにしてください!』
「は、はい!……切り替えます!!」
シェリルが急ぎということで内蔵通信機につないだらしく、エリナが左耳に手をやって答える。
『みなさん、もしかすると見たかも知れませんが、本通上で乗用車が爆発炎上しました。この街を取り巻く状況を考えると、テロの可能性があります』
エリナのすぐ横から、シェリルの緊迫した声が流れて来る。
『……諒解……すみません、ちょっと仕事の無線混じり状態で。ともかく、消火すらまだしていない状態ですので、改めて確認の上連絡します。今は、危険ですのでそこで待っていてください!……住民の不安解消のためパトカーを植月町内へ……』
警察も突然のことに相当の騒ぎになっているらしく、シェリルは警察無線に応答しながら通信を切った。恐らくは回線を完全にあちらへ切り替えたのだろう。
「……くそッ、あの野郎、ついに頭が完全にいかれたかッ」
「待って、まだ松村のしわざとは言い切れないわ」
「ですが、大庭さんの言う通り状況が」
「とにかく落ち着くことが大事です、こちらは何も出来ないんですから」
「シェリルがこっちいる時に、何てことしてくれるのよ」
「嫌、嫌よ……どうしてこんなこと……」
口々に言い立てる中、シェリルを迎えに来たらしきパトカーが通り過ぎるのが見える。
「畜生!奸賊めが……ッ!」
啓一は拳を握りしめつつ、遠ざかるサイレンにのどの奥から絞り出すように言った。
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