三 天河通五番町

 街角の交番で、さらさらと書類が書き上げられて行く。

 氏名欄には「いな啓一けいいち」の文字が、父親の特徴的な癖字で書き込まれていた。

 「行方不明者届出書」――いわゆる「捜索願」である。

(待ってくれ、そんなもん出さなくてもここにいるっての!)

 頬のこけた顔で警察官へ書類を提出する両親に、横合いから啓一が叫ぶが、全く聞こえていない。

 そうしているうちにいつしか周囲は自分以外モノクロームとなり、無声映画のごとくただただ映像がつながって流れ始める。

 捜索用のポスターが電信柱に貼られ、あるいはそのままだんだんと風雨にはがれ落ち、あるいは下品な金融屋の張り紙やピンクチラシによって隠されてずるずるにはげて行く。

 父母はどんどんと老け込み、そのかたわらで自分の写真がこれもまたどんどんと急速に色あせる。

 唯一、片づけられて箱づめになった自分の私物だけが、納戸の中でもの言わぬままに変わらぬ姿をさらしつづけ、朝な夕なに「失踪」の現実を突きつけて来る。

 それを見る両親が何か言うが、もはや聞こえない。

 その代わりに画面が暗くなり、

「『――ああ、捨てられない。忘れられないよ』」

 まさに無声映画のテキスト・ショットそのままに、手書きのせりふが入った。

 すっかり腰が曲がりきり頭も真っ白になった両親と、明らかに老け込んだ親戚知人たち。

「そう言ってみたところで、失踪した子は帰りはしない」

 活動弁士とおぼしき誰かの声が、厳かにそう語る。

(黙れ!俺は生きてるんだよ、帰れないだけで生きてるんだよ……!!)

 だが、その叫びを嗤うかのように画面は暗転し、からからと映写機のリールが空回りする音だけが延々と響き始めた。

(やめてくれ、やめてくれ、やめて……くれ……)

 そう泣き崩れた瞬間だ。

 はっと意識が戻る気配がし、木の天井が眼に飛び込んで来る。

「夢、か……。とんだ陳腐なお涙ちょうだいだ」

 そうつぶやいて周囲を見回すが、いくら見ても自分が居候している真島家の部屋でしかなかった。

「しかもキネマ仕立てって何だよ。『蒲田で見飽きた』とこき下ろされるわ」

 戦前、松竹蒲田撮影所の作風を引き合いに出して、実際に映画雑誌でけなしに使われた言葉とともに力ない笑いを浮かべる。

「ああ、いかんいかん。こんな不景気な面してたら、サツキさんに申しわけないじゃないか……」

 そう言って啓一は首を思い切り振った。

「せっかく休み割いて街を案内してくれるんだから、今はそっちに集中しよう」



 朝食を食べた後、啓一はサツキに連れられて街へ出た。

 そんなに自分の街を紹介出来るのがうれしいのか、サツキはやたらに張り切っている。

 白の丸襟ブラウスにショート・ジャケット、下は少々しゃれたスカートと、最初に会った時と違い完全に外出着だ。バッグもおとついとは変わっている。

 一方啓一は、支給してもらったポロシャツをさっそく着込んでいた。もっともズボンは裾つめがいりそうなので、今日は転移時にはいて来たズボンをはいているが。

「……何だか元気なさそうね。大丈夫?」

 啓一の顔色が余りよくないのに、サツキが心配そうに訊ねて来た。

「いや、大丈夫さ。このところ、朝が少々弱くなってるみたいでね」

 まさか「悪夢に思い切り心をえぐられた」なぞと言えるわけもないので、そうごまかしてみせる。

「ならいいんだけど」

 いささか納得が行かないような表情であったが、サツキは歩みを進める。

 そして大通りへ出たところで、立ち止まって説明を始めた。

「新星市では一部を除いて、黄道十二星座をはじめとする有名な星座の名前を区名に使ってるの。うちの区は『天秤てんびん』って名前よ」

 天秤区は、市の北東に位置する区である。

 ごくわずかに繁華街のある「中央区」に接しており、そちらとの人の往来も多いという場所だ。

「昨日調べたけど、ここの町名って中心部は通り町形式なんだな」

「ああ、知ってるのね。通りに沿って町が展開してるやつ」

 「通り町」の利点はむやみに幅広く地名が広がっていないために、町名を聞いただけである程度場所が分かってしまうことである。計画都市としては賢い選択だ。

「中央区から来る南北の目抜き通り沿いが『鍛冶かじどおり』、その途中から分かれて東西に伸びる通り沿いが『天河てんかわどおり』。通りの名前も同じよ」

 空中ディスプレイを出して地図サイトを開くと、すっと指で通りをなぞる。

「……ん?丁目表記じゃないのかい、『天河通』は」

「そこは特別。一番いちばんちょうばんちょう……って形で勘定するの。七番ななばんちょうまであるわよ」

 とりあえず鍛冶通を、とサツキの先導で北へ歩き始めた。

 おとついは未来的な建物ばかりだと思っていたが、よく見ると二十一世紀で見るのと余り変わらないような建物もぽつぽつとある。

 通りには電車も通っていた。電車が荒川線のみを残して全廃された元の世界の東京で暮らしていた啓一には、首都を走る電車の姿は余りにも新鮮なものである。

「昨日調べた限りじゃ、交通は全部電車らしいな。鉄道や地下鉄の類がないとはね」

 これは意外だった。首都の市内交通が電車中心なのは欧州でもあることなのでまだいいとして、鉄道や地下鉄が全くないというのはさすがに珍しい。

「この街って意外と広くないから、それで済んじゃうのよ。この周辺から市庁や官庁街まで十五分、一番遠い空港だってせいぜい三十分だもの」

「……旧東京市十五区とどっこいかちょっと大きいくらいかね、それで済むってんじゃ」

「比べたことないけど、多分そうじゃないかしら」

 そんなことを言いつつ進むと、「天秤広小路」と標識を掲げた信号のある大きな交叉点が現れた。

「ここが中心部。直進した奥が区役所とか役所の集まるとこよ。右折して分かれる天河通には、技術関係の会社の他に国立や私立の研究所が並んでるわ。私の勤めてる研究所もここの並びなの」

 なるほど東へ通じる道を見ると、いかにもそれらしいビルが櫛の歯を並べているようだ。

 そしてやはりというべきかここで電車も分岐しているようで、交叉点を三方からはさむように「天秤広小路」という名の電停がいくつかある。

「せっかく電車の分かれるとこまで来たし、通る系統と行先も教えちゃおうかしら。直進は十二・十三番で天秤区役所前行、右折は十七・十八番で六郷前ろくごうまえ行。逆方向は……」

 市交通局のサイトにある系統図を出しつつ、一つ一つ指でなぞって教えてくれた。しばらくの間は中心部まで出ることもなさそうだが、覚えておいて損はないだろう。

「ん?『六郷前』?企業か何かの名前かい?」

「『六郷製作所』っていう老舗のアンドロイド製造会社の名前ね。奥の方は研究所じゃなくて、この手の企業が本社や支社置いてたりすることが多いの」

「ということは、アンドロイドを製造してたりするのか。量産は確か出来ないんじゃ?」

 この世界の法律では、アンドロイドに自我を入れることが必須とされているのは既に述べた。

 だが条文内ではさらに踏み込み、自我に「個性」を持たせなければならないと規定している。つまり全く同じ自我を複製し、複数人のアンドロイドに入れることは認められていないのだ。

 これは事実上量産の禁止であるため、製造会社があること自体面妖だと思ったのだが……。

「あッ、言い方が悪かったわね。こっちでは『製造会社』って言った場合は『委託製造会社』のことなの。個人や団体の依頼、簡単に言えば特注で製造するのが業務よ」

「ああ、なるほどな……それなら違反はしないか。でも、それで経営成り立つのかい」

「一人一人にかかるお金が大きいから……。それに本体を造らなくても、整備や修理や換装、パーツやアクセサリの販売で利益が上げられるしね。六郷製作所もそれで有名なとこ」

 試しに会社のページを見てみると、確かにそのようなことが書かれていた。

 それどころか委託製造については脇に置いておいて、パーツやアクセサリの生産販売の方を前面に押し出している感すらある。

「元は日本の会社で、ここは海外支社なんだけどね。それでも電停名になるくらいの企業なのよ。創業者が六郷博士っていう伝説的な研究者だもの、ネーム・バリューが半端じゃないわ」

 少し調べてみると、どうやらこの世界においてアンドロイド研究に生涯を傾け、種族として自立させる道筋をつけた人物のようだ。

「もう随分昔の人だけど、今もアンドロイド技術者の人たちの憧れって話よ。畢生ひっせいの目標を極めるって、やっぱりすごいことだとしみじみ思うわね」

「そうか……」

 意気揚々たるサツキの声を聞きながら、啓一は少々暗い気分となり顔をうつむける。

(俺の目標は、なあ……)

 そんなことを考えていると、サツキが、

「ちょっと行ってみる?」

 ひょいと電停を指差した。

「じゃ、お言葉に甘えて」

 そう答えると、ひょこひょこと道路を渡る。目抜き通りの割に自家用車が少ないのは、電車が普及しているせいだろうか。

 さすがに電車とはいっても元の世界でLRTと呼ばれている代物で、乗れば恐ろしく静かな音ですっと走り出す。

『この電車は十八番、六郷前行です。次は天河通一番町、天河通一番町です』

 電車の窓から見ていると、確かに進めば進むほど街並みがオフィス街となり、その中に研究所や小さな工場が混じり出して来た。

「重力学研究所前、お降りありませんか」

 運転士がそう問いかけたところで、サツキが、

「ここが重力学研究所。交叉点はさんで東側が本棟、西側が実験棟よ」

 窓から外を指差して言う。

「もうそこが終点ね。重力学研究所前、天河通七番町、六郷前だから」

 果たして五分ほどで、電車は終点へ滑り込んだ。

「終点六郷前、六郷前です。本日も市電をご利用いただきありがとうございました」

 車内があわだたしくなる。財布を取り出す者、ひもつきのカードケースを引き寄せる者、携帯電話を呼び出す者など様々だ。

「運賃は十円ね」

 むろん価値は我々の住む日本の十円ではない。

 昨晩説明を受けたのだが、どうやら十円で缶飲料一本が買えるようなので、この世界の一円は我々の世界の十三円ほどというところだ。

 もっとも世界も国も違う以上、物価が違う可能性が高いので一概に比較は出来ないのだが……。

「この白銅貨かな?じゃ……」

「ああ、いいわよ。私払っとくから」

「すまない」

 運賃箱へ硬貨が放り込まれるのを見届けながら少々様子をうかがうと、ICカードや携帯電話決済以外にも現金の客が存外に多いようだ。それどころか、磁気カードや紙の回数券まである。

 これは啓一にとって意外な光景だった。てっきりこのような世界だけに、現金などまるではやらず電子マネーが普通だと思っていたからである。ましてや、回数券があるとは思ってもみなかった。

「現金で払う人多いな。しかもICカードや携帯電話決済もあるのに、磁気カードや回数券廃止になってないのかい」

「ん?あなたのところではそれが普通だったの?」

「ああ、普通どころか常識だよ。それに現金で払う人も少なくなったし」

 逆に問い返されてうなずきながら答える。

 地域や事業者によって差はあるが、ICカードが登場した時点で紙の回数券や磁気カードは用済み扱いされ、最終的に駆逐されてしまうのが常だ。

「随分と極端じゃない?税金とかデータで動かした方が都合がいいものはともかく、日常では現金を第一にした上で、いろんな方法を使えるようにしておくのがこの世界の方針よ」

「す、すごいな」

「すごいって……変なこと言うわねえ。選択肢がたくさんある方が暮らしやすいじゃない。第一にして何かあった時に一番ものを言うのは現金なんだし、あだやおろそかには出来ないわよ」

「まあ確かにそうなんだが……」

 啓一はこめかみをぽりぽりとかきながら言う。

 税金云々の話からするに、システム上は電子マネーで現金の代用が完全に可能なのだろうが、それではなから統一せず個人の選択にまかせるというわけだ。

 啓一にとって、これは実に好印象である。何より押しつけがましくないというのがよかった。

 元の世界の日本では特に一番通用範囲の広い交通系電子マネーにおいて、現金利用者を不利な状況に置いたり制度をいきなり変えたりして追いつめ、最終的に有無を言わさず使わせるという陰湿で強引な普及方法がまかり通っていたのである。

 それと比べれば、まさに天と地ほどの違いだ。元の世界の手法に業腹だった啓一としては、この世界の人々の爪の垢をありったけ煎じて飲ませてやりたいとすら思うほどである。

 今はもう帰れない元の世界にいささか遠い眼で思いをはせていると、

「そんなことより、ここよ。六郷製作所」

 サツキに肩をつつかれた。

 見上げると、天を突くような高層ビルが眼の前にある。

 一階はショールームになっているようで、ロボットものの漫画やアニメに出て来そうな品々がいろいろと並べられているのが見えた。

「飛行ユニットとかプロテクターとかは分かるが、それ以外にも随分とまあいろいろあるんだな」

「アンドロイドを知らないとちょっと分からないかも。急速充電装置とか簡易整備装置とか、身の周りで使うものが売れ筋って聞いたわ。あとは委託製造や部品換装のお客さん向けで、チップや細かい部品類の展示もあるわよ。みんな入れたがるので有名なのは内蔵通信機ですって」

「随分詳しいな、確か君の専門ってこっちの分野じゃないはずだろ?」

「そうなんだけど、うちの研究所って意外にこっちの業界と提携してプロジェクトを行うこともあるし。何より親友がアンドロイドだもの、どうしても詳しくなっちゃうわよ」

 それでなくともシェリルは仕事の関係もあり、内蔵通信機や聴覚増幅装置といったオプションを大量に搭載しているのだという。

 殊に内蔵通信機は無線機だけではなく携帯電話の代用としても使える上、スピーカーにして会話を聞かせるという器用なことも出来るというのだから驚きだ。転移して来た日にデータを送って来た技官の声も、彼女の内蔵通信機を経由して出たものだったとか……。

 話を元に戻そう。

 サツキはそんな話をしながら、眼の前のビル群に指を滑らす。

「この周辺は、他にもいくつかこういう会社があるわよ。住所に『北天河きたてんかわどおり』とあったら、確実にアンドロイド関係会社ね」

 と、そこで啓一は視界の隅に違和感を覚えた。

「……なあ、あそこって何の会社だい」

 小声で言って指差した先には、五棟ばかりのビルが無秩序に建て増しをしたと言わんばかりの不格好さで立ち並んでいる姿がある。

 他の企業が二棟三棟に社屋をまとめて端正に配置している中、浮いているにもほどがあった。

「ああ、あそこね……」

 訊いた途端、サツキが軽く苦虫を噛み潰したような顔となる。

「あそこはね、『一新興国産いっしんこうこくさんぎょう』っていう会社。一応この辺の会社と一緒で、アンドロイド委託製造会社ではあるんだけど……あるんだけどねえ」

「……何かあるのかい?」

「実はあそこ、他の会社じゃ断るような法律ぎりぎりを攻めたような注文でも、平気で受けちゃうそうなのよ。裏で違法なのにも手を出してるんじゃないかって疑惑もあるわ」

 それを聞いて、啓一はおとついの話を思い出した。

 あのやれ無期刑だやれ十三階段送りだを連発する物騒な法律を相手にして、かいくぐってやろうの破ってやろうのと考えて商売をしている時点で、それだけできな臭い感じしかしない。

「それに、社長とか幹部の評判が悪い悪い。いわゆる成金で、暴力団との黒い噂も絶えないのよ。それだけでどんな会社かお察しよね」

 つまりは、反社会的勢力と癒着している可能性のあるやくざな会社ということだ。

 この世界にもこういった手合いは普通にいるだろうとは思っていたが、会社に入り込んでしのぎをしているところまで一緒となるとぞっとしない。

「そんなんじゃ、かたぎの者ならまず関わらないとこってわけか」

「そういうことね。金持ちには需要があるらしいけど、ああいう連中にはろくでもないのも多いし」

「会社も会社なら客も客ってやつだな、そりゃ」

「その典型よね。知る人ぞ知る業界の汚点で、本社がここじゃないのがせめてもの救いと……」

 そう言いかけた時、

「あら、サツキちゃん!」

 にわかに女性の声が聞こえて来た。

 見れば茶色の長髪の狐族の女性が、スーツ姿でにこにことほほえみながら立っている。

「え、お母さん!?何でここに!?」

 どうやらこの女性が、実家にいるというサツキの母親らしかった。

「六郷さんとこと第四研究部の合同でやってるプロジェクトの会議に、ちょっと顔出して来たのよ。私の意見がほしいって言うから」

「所長を引っ張って来るって珍しくない?」

「たっての願いと言われたら仕方ないわ」

 路上で話に花を咲かせる二人に戸惑いつつ、啓一は、

「あの、すみません。もしやお母様ですか?このたびお嬢さんのところにお世話になることになりました、禾津啓一という転移者です」

 割り込むように自己紹介をする。

「そうです、私がサツキの母の真島ハルカです。話は娘から聞いていますよ。あなたが啓一さんね、よろしくお願いします」

「いえいえ、こちらこそどうぞよろしくお願いいたします」

 二人は互いに頭を下げ合って握手を交わした。娘同様、気さくな女性である。

「お嬢さんが先ほど言ってましたが、重力学研究所でしたか……そちらの所長をお務めで?」

「ええ、そうです」

「そりゃあ大したもんですね。かなり有能な方とお見受けしました」

「いえいえ、私なんか。役職が高いだけで、世の中にはもっと優れた人がいますよ」

 ハルカは照れくさそうに手を振って謙遜していたが、ややあって、

「ねえ啓一さん、研究所見学しに来ませんか?展示室ありますし、面白い体験も出来ますよ。多分、あなたの世界にはなかったものでしょうし」

 そう言い出した。

「大丈夫ですか、アポなしで」

「そこは問題ありません、積極的に一般公開してますから」

 これに啓一が興味を示したのは言うまでもない。

 一時的とはいえ一緒に住むからには、共同生活者のやっている仕事くらい知らねばいけないだろうし、何より「重力学」という聞いたことのない学問に対し純粋に関心があった。

「じゃ、お言葉に甘えて」

「それじゃあ、案内しますね。サツキちゃんもいいかしら?」

「うん。いつかは紹介しないといけないと思ってたし」

「じゃあ、ちょうどよかったわ。……せっかくだから歩きましょうか、すぐそこですし」

 そう言うハルカを先頭に、てくてくと電車沿いに三人で歩き出す。

 その道中、ふっとサツキが厳しい顔となりハルカに話しかけた。

「ところでお母さん、あの話は聞いてる?」

「うん。また駄目なんて……困ったわね」

 二人そろって心底困ったという顔をしている。

 この言い方では仔細はさっぱり分からぬが、研究で引っかかっているところでもあるのだろうか。

 そんなことを考えていると、眼の前に「国立重力学研究所」と看板を掲げたビルが現れた。

「ここです。……私は書類の整理があるから、悪いけどあなたが案内してくれないかしら」

「うん、じゃあそうするわ。お母さんもたまには……」

「こらッ、口のきき方。入口入ったら敬語に『所長』でしょ」

「……じゃあそうします。所長、たまには休んでくださいよ?」

「はいはい」

 サツキが口をとがらすのを笑って見ると、ハルカは廊下を歩いて行く。

「全く、調子がいいんだから。あ、展示室はこっちね」

 肩をすくめて言うと、サツキはロビーの端にある部屋へ啓一をいざなった。

 それから三十分後。

 展示室の中で、頭を抱えてうなる啓一の姿があった。

「うわ、そうだった……重力の話って時点で、相対性理論のお出ましだったな」

 このことである。

 今や「一般人に理解不能な理論」の代名詞としてまで扱われるようになった相対性理論は、重力の話とは切っても切れない関係にあるものだ。

 さすがに一般向けとあって細かい話はすっ飛ばしているようだが、それでも難しいものは難しい。

「とりあえず、重力は力というより『重力場』という時空の歪みだとか、重力を媒介する『重力子』って素粒子があるって話だけ押さえてもらえれば……」

「ん?『重力子』って『グラヴィトン』か。こっちじゃ発見されてるんだな」

「そうよ。そっちの世界では、まだ発見出来てないの?」

「ああ。それどころか、見つかる当てすらない感じだよ」

 「重力子」は我々の住む世界では、まだ理論として存在が提唱されているだけで未発見の素粒子だ。余りに見つからないので、存在を否定する学者すらいる。

「ともかく、こっちでの重力研究は重力子の発見で随分変わった感じね。何せ『重力学』として独立した学問が出来たくらいだし」

「なるほどな。ここにもあるが重力子って相当な曲者みたいだし、専門でやらないといかんだろう」

 啓一が指差したパネルには、重力子の発見がいかに画期的なことであるかを記す文とともに、理論と研究なくして簡単に扱えるような代物でないことが図入りで書かれていた。

「そりゃね、ちょっと動かし方を間違うだけで重力の大きさが変わる、調整少しでも狂ったら重力場に穴がいきなり出来るだもの……そのまま世間に出したら、死人が出ちゃうわ」

「それもそうだな。理論的にはブラックホールみたいなものも作ろうと思えば作れるし」

「そ、それはさすがに星一つくらいの質量の物質がないといけないから……」

 サツキは極端だと言わんばかりにぶんぶんと手を振った。

「それだけでも大変な話なんだけど、反重力の研究にも手を出したからすごいことになったわ。重力子を扱えるなら、こっちもどうにかならないかって考えて」

「待った、反重力って空想上のもので物理学的に出来ないって聞いたんだが……」

 反重力というとSFの定番であるが、実際にはエネルギーや質量が負の値にならないといけないため、現実世界ではそもそも存在し得ないと考えられている。

「……その壁を打ち破るのは、正直ほんとのほんとに大変だったみたいね。単独で解決出来なくて、隣接する他の学問と総出で解決したのよ」

 物理法則との兼ね合いから研究はこじれにこじれ、最終的には宇宙に存在する謎の物質である暗黒物質と宇宙の膨張の要因とされる暗黒エネルギーの解明を待って決着がついた。

 それ以後重力学では反重力研究にかなりの力を注いでいることから、学問名に反して一般人には「反重力を扱う学問」として認識されているほどという。

「ほんとはそれだけじゃないんだけど、まあ確かに表に出るのはそういう話ばかりだしねえ。……でも『反重力』と『無重力』を混同されるのだけはちょっと」

 物が浮かぶということで間違われやすいのだが、「反重力」と「無重力」は似て非なるものだ。

 「反重力」は万有引力など重力を無効にしたり、それに逆らったりする力である。

 これに対して「無重力」は万有引力が他の力と相殺し合って消滅していると見なされるような状態を指すものだ。あくまで「状態」であり「力」ではないため、正確には「無重力状態」「無重量状態」と「状態」を明示して呼ばれる。

「反重力場と重力場をうまく組み合わせれば無重力状態が出来るから、勘違いされるのもある程度は致し方ないと割り切ってる部分もあるけど、当事者としては……」

「結構つらいとこだよな、何か分かる」

 啓一が盆の窪をかくのに、サツキは耳を片方ちょんと倒して先をいじりながら苦笑してみせた。

「ま、ともかく。そうやって研究しに研究し続けたことによって生み出された最大の成果が、この反重力場発生制禦システムなんだな」

 そう言った眼の前では、その成果として構築された反重力場発生制禦システム「アストレア」の紹介文が、ここぞとばかりに鼻息荒く躍っている。

 反重力場を発生させ制禦するだけでなく、重力場も同時に操り組み合わせることで重力を巧みに調整するというシステムなのだが、説明文によると万能というほどいろいろなことが出来るようだ。

「名前は、天秤座の天秤を持つ女神様からか。ギリシャ神話だったかな」

「あら、よく知ってるわね。住所が天秤区なのと、天秤が重力に関係するのとでついたの」

「そうなのか、なかなか粋なもんだ。……しかし、文明を手に入れた人間に最後まで振り回された女神様の名前が、文明の利器についてるのは何だか皮肉でもあるな」

 啓一は少々意地の悪いことを言ってみせる。

 神話によれば、文明を作り上げて以来堕落して悪徳を重ねる人間を見限って神々が天へと去る中、アストレアはただ一柱留まり正義を訴え続けた。

 しかし奮闘空しくその言葉は届かず、ついに失意の中昇天したというのである。

「あら、ちょっと嫌なこと言うのね。でも昇天せざるを得なくなる時まで信じてくれて、空に善悪を計る天秤を残してくれたのもその方じゃないの。たとえ人間を堕落させた文明の産物であっても、正しく使う気満々なんだから許してくださるわよ」

「こりゃ一本取られたね」

 小さく笑う啓一に、サツキもおかしそうに笑った。

「あ、そうだ。せっかくだから『アストレア』を体験してみない?隣の本部実験棟で出来るから」

「……それ、実験の邪魔になったりしないのか?」

「それは大丈夫よ。もうここは実質的に実験拠点じゃないから」

 この本部実験棟で「アストレア」の開発が行われたのは事実であるが、様々な大きさや異なる出力の装置をいくつも扱う必要があるため、研究が進むとともに手狭になって来たのだという。

 そこで三十年ほど前に射手区いてくに「射手実験棟」が作られて実験拠点がそちらに移転することとなり、ここは小さい実験をするだけの場所となった。

「大きな実験施設は全て移されたんだけど、一つだけ何度も一般公開されて親しまれていたのがあってね。せっかくだし地域の役に立つならと残して、一般向けの施設に転用したのよ。巷では『反重力プール』って呼ばれてるものなんだけどね」

「ほう……」

 啓一は少ない知識で少々想像してみる。

 反重力場発生制禦システムを使ったプールとなると、まず水の入ったプールでないことは確かだ。

「もしかして、無重力状態の中で宇宙遊泳みたいなことが出来るのかい?」

「大体当たってるわね。その辺は現地でのお楽しみってことで」

 そう言うと、サツキは建物の奥を指差す。

「おいおい、中に入っちゃうけどいいのか?」

「公式の見学ルートだから大丈夫。そこの通用口から直で行けるのよ。……とりあえず、形式だけだけど見学許可証入力してね。そうしておくと、見学の特典で使用料ただになるし」

 例によって、空中ディスプレイでちょこちょこと必要項目を入力した。この間、十分もない。

「じゃ、行きましょうか」

 そう言ってサツキが受付から鍵を受け取り、歩き出してしばらく経った時だった。

 ふと廊下の途中、ある研究室の前で足を止めたかと思うと、

先輩……」

 ふっと暗い表情となってため息のように誰かの名を呼ぶ。

「……どうかしたのかい」

「あ、いや」

 首を振って歩き出す彼女の口から、それ以上の言葉が出ることはなかった。



「こ、こりゃあ何だ……」

 見学者用のIDカードで無事「反重力プール」の建物内に入った啓一は、固まったまま言った。

 さもありなん、いきなりとてつもなく巨大かつ天を突く高さの透明の円筒が出現したのである。しかも少し離れた外周を機械むき出しの壁に囲まれ、その一部が円筒に接続しているなど、まさにこれぞ「未来」と表現すべき姿だ。

「やっぱり最初は驚くわよね、これ。何せ直径百五十メートル、高さ四十メートルだから」

「おいおい、下手なビルがすっぽり入るじゃないかよ」

「そうそう。移転直前はこれが何本かあってぎちぎちだったらしいわ。今はこれとこの半分くらいのが二本あるだけだけど、それもそれなりの大きさがあるから、現在でもまだこの区画……つまり天河通五番町七番地は丸ごと実験棟になってるありさまね」

「おっそろしいなあ」

 そんなことを言いつつ上を見上げてみると、確かにぷかりぷかりと人が何人も浮いていた。つまりこの中が、重力場と反重力場の組み合わせで無重力状態に調整されているというわけなのだろう。

「この中が無重力状態ってのは分かったが、肝腎の機械はどこにあるんだい」

「床下にあるわ。隠れてるから本体は見えないわよ」

「じゃあ、周りの機械は……」

「あれは、何かあった時のバックアップ機器や救助装置ね」

「ああ、なるほど。確かにいかれたらしゃれにならないからな……使ってるものがものだけに、墜落するだけじゃなくて上にすっ飛んでく可能性もあるわけだし」

「ええ。一般開放でいろんな人が来るから気をつけないと……」

 この世界において、反重力プールの用途は実にさまざまなものだ。

 宇宙飛行士など無重力状態で働く人々の訓練はもちろんのこと、スポーツや運動にも用いられる。

 また気まぐれに娯楽として遊泳をしに来る人も多く、さらにはちょっとした観光地として市内観光の団体客が来ることすらあるというから驚きだ。

「使い方は違うが、本家のプールと同じだな。やっぱり競技もあったりするのかい?」

「あるわよ。中央区のお隣、水瓶みずがめに国立の専用競技場が造られてるわ。水泳と同じく、それなりに知名度と人気はあるわね」

 水泳感覚で無重力遊泳。そんなことが出来る辺り、やはりこの世界の技術は大変なものだ。

「……あれ?遊泳教室やってるわね。ええと」

 上を見たサツキは、空中ディスプレイを呼び出してスケジュールを調べ出す。

「あっちゃ、かぶっちゃった。でもあれあと十分で終わるから……そこらで座って待ってましょ」

 そう言うと、プールの下にあるロビーの椅子に座った。

「そういや俺が来る前……六月末だったかに、研究所の紹介にUniTuberを使う話が出てたって言ってたな。何でそんな人を引っ張って来るのかと思ってたら、こいつの宣伝をしたかったからかい」

「実言うとそうなのよ、有名人が体験する方が絵面がいいじゃない。それで雰囲気が合いそうな人とかを考えてエレミィさんに声かけてみたんだけど、あっさり断られておじゃんに」

「もったいないな。もし実現出来てりゃ、今頃世間の注目のおこぼれにあずかられただろうになあ」

 二人が言う「エレミィ」とは、おとつい啓一が偶然発見したあの女性UniTuberである。

 実は昨日サツキが出勤した後、啓一は彼女の自己紹介動画を見て気に入り、これまでのアーカイヴをざっと見ていた。

 それを夕飯の時に話したところ、サツキも大ファンだと知れたのである。

「飾らなくて落ち着いててまさに清楚、そしてどこか神秘的。あのゆったりした白のワンピースとか、服装もとっても清純なイメージだしね。しかもアンドロイドだって話だから、さらにイメージ的にも合うかも……そう思ったんだけど」

「そういうのはやらないことにしてるって言われたらなあ、どうにもならんよ」

「ええ……」

 サツキにしてみれば公然と自分の「推し」に会えるかも知れないという期待感もあったのだろう、露骨にしょげていた。仕事なのにいささか不純ではあるが、気持ちはよく分かる。

 それにしても国立研究所から出演を依頼されるなぞ、企業に所属するUniTuberでもそうないことと聞くのに、それを蹴るとはこれいかにと思わないでもなかった。

 黙っていても人気が増して行く身分とはいえ、ファンを獲得する機会はやはりほしいものだろうに、何かよほどの理由でもあるのだろうか……。

「しかもこれ、最初は暁ヒカリさんと共同出演の案もあったのよ?でも、あの人はあの人で事件に巻き込まれて、あんなことになっちゃったし……」

「まだよく知らないんだが、拉致だって?穏やかじゃねえよなあ」

 暁ヒカリは登録者数二十万人の個人UniTuberで、地道な活動で人気を獲得することに成功し、この世界ではそれなりに名の知れた存在だった。

 このため出演者候補として初期に名前が出ており、華がある方がいいと共演の方向で話を投げようという話になりつつあったのである。

 だがその本人は、何と七月中頃に新星の自宅近くで兇漢に襲われ拉致されてしまった。

 それから二ヶ月近く、警察の必死の捜査にも関わらず一向に犯人の目星もつかず行方も知れない状況が続いており、ファンはいたく心を痛めているという話である。

「……おいおい、女性連続失踪事件といい、この世界の治安大丈夫なのかい?」

「大丈夫、大丈夫よ。今年が普通じゃないだけだから。私たちだって困惑してるし……」

「住民が言うならそうなんだろうが……うーん」

 そんなことを話しているうちに、わらわらと出口から人が出て来た。

 全員運動着姿なのを見るに、本当に日常の運動感覚で使っているらしい。

「俺たちもあんな格好の方がいいのかね?」

「いえ、普通の服装でも大丈夫よ」

「待った。上着やスカートってまずくないのかい」

 何せ無重力状態なのだから、動いただけで留めていないものは全て浮いてまくれ上がるはずだ。

 いわんやスカートをや。マリリン・モンローの映画ならべっぴんさんのお色気だと陽気に笑っていられるが、一般人でそれはいかにもまずかろう。

「それはよく言われるけど、防止策があるから」

 そう言うと、サツキはバッグからいくつか大きなクリップのようなものを取り出した。

「これを使うの。私は上着とスカート両方だから数いるけど、啓一さんなら上着の裾につけるだけだから、それこそ前後左右に四個で何とかなりそうね」

 そう言いながら素早く取りつけるのにならい、啓一も指示通り上着につける。

 サツキはそれに加えて、腰に何やら小さな無線機のような装置をつけた。

「荷物は持ち込み禁止だよな?無重力状態だし、どこすっ飛んでくか分からないだろ」

「そうね、さすがにしまってもらわないと」

 話しつつバッグをロッカーに押し込めると、二人は「下出入口」と書かれた扉へ向かった。

「入口は上、真ん中、そしてここ下と三ヶ所になるわ。ただし上や真ん中は、数十メートル下丸見えだからいきなりはね。初心者は、下から浮かび上がって中継点に使うとかするのがせいぜい」

 扉を開けると、本体へと続く通路が現れる。

「反重力場と重力場の組み合わせで作ってるってことは、普通の無重力状態と違っていきなりすぽんと浮いたりするのかい?反重力場って均一に発生するんだろ?」

「普及型の発生装置ならともかく、ここはそんな融通のきかないことはないわよ。立てるように下だけ反重力場を消して、重力を残すようにしてあるわ。それに作り方が違うだけで、普通の無重力状態とまるで変わらないわよ」

 サツキは一つ苦笑しながら言う。

 「アストレア」は反重力場の発生場所を装置から見て前後左右に偏らせたり、発生点ごとの強さをさまざまに変えるなど実に多様かつ器用なことが出来るため、下だけ反重力場を消すなぞ朝飯前だ。

 研究所の大小の実験装置はもちろんのこと、一部の市販の反重力発生装置の中にもこれに準ずるような機能を持つものがあるため、このようなことは思ったよりもよく見られる。

 話を元に戻そう。

 入口の自動扉を抜けたサツキは、

「このまま入った先の床を蹴って上向きに飛ぶと、そのまま浮くようになってるの。念のため手を握った方がいいわ、初めてだしね」

 そう言って何と手を握って来る。

「慣れない人だと重力場に捕まって進めなくなったり、逆に反重力場に捕まっちゃって勢いよく飛びすぎたりしちゃうから。片方だけに捕まったら抜けるの難しいのよ」

 理屈は通っているが、既に重力を無視し相手が顔に血を上せているのには気づいていないようだ。

 そのまま二人はプールの下に入る。心なしか、足が軽くなったようだ。

「行くわよ、しっかりつかまって!いっせーの、せっ!」

 中央に来たところで、一気にサツキが上へ向けて踏み切る。

 瞬間、重力が抜けた。

 妙な言い方であるが、まさに「抜けた」のである。

「なッ……!」

 無重力状態で物体に力がかかると、止める力がはたらかない限り慣性のまま無限に飛んで行くのは知られていることだ。

 そのまま一気に、二人は十メートルほどの高さまで急速に上って止まる。

 どうやら止まるこつでもあるらしく、うまくそこで静止してふわふわと浮いていた。

「……信じられん」

 下を見て、上を見る。一瞬恐怖を覚えたが、落ちないと思った瞬間何でもなくなった。

 が、上をもう一度見てまずいことに気づく。サツキのスカートの中が、丸見えだ。

「うわッ!……って、ありゃ?」

 そこにあったのは、暗闇である。黒いのではない、真っ暗闇なのだ。

 それ以前にまくれ上がっていない。一体これはどうなっているというのだ。

「種明かしの時が来たみたいね」

 反応を予想していたのか、サツキはいたずらそうに笑う。

「これ、中が見えないのは『光線欺瞞』っていう技術によるもの。光をねじ曲げて一定の空間を見えないようにしちゃうの。暗闇にするだけじゃなくて、周囲と同化させることも出来るわ。さらには音波や電波もねじ曲げて消せるの」

「おいおい……そんなもん仕込んであるのかい、そのスカート」

「スカート本体というより、この腰のやつね。私みたいな格好で入っても見られないように、あらかじめ調整したのを貸し出してるの。こんな出力の弱いのじゃ暗闇にしか出来ないし、欺瞞の範囲もたかが知れてるけど……目的を考えれば充分よ」

「まあ、最初から真っ暗なら出歯亀ものぞけまいが……。まさかそのためにブラックホールみたいなもん発生させるとは思わなかったぞ」

「確かに原理を拝借してはいるわね、あくまで危なくない方向でだけど」

 さらっと言うが、よく考えると結構恐ろしい話だ。いささか物騒だと思わず身をよじる。

「あともう一つ、上着やスカートがまくれ上がっていないことについても説明しないと。実はこれ、周囲に局所的に重力場が発生してるのよ。だからほら、こうなる」

 言いつつすっと裾を軽く持ち上げると、果たして元の場所にぱたりと落ちた。確かにこれは、重力下での動きと全く同じである。

「これは『選択的重力調整』って技術。反重力場の中で特定の物の周囲だけに重力場を作って、重力下と同じ挙動をさせることが出来るの」

「ああ……もしかしてさっきの装置でそれ発動させてるのかい?」

「そうそう、あのクリップみたいなのでね。服とかの裾につけておくと、まくれないで済むのよ」

「はあ……重力学、恐るべし」

 これには啓一も、さすがに舌を巻かざるを得なかった。

 人にとって未来永劫ついて離れないはずの重力を、こうもいとも簡単に手玉に取るとは……。

「これって便利よ。もっと出力が強いのを使えば、反重力場の中で自分だけ立つことも可能になるの。実験中に自分が浮いちゃったら世話ないしね」

「ああ、分かる。まるでコントになっちまうもんな」

「ただそういう特殊な用途のものだから、高価で普通には売ってないのよね。だから持ってる人はめったにいないわ。研究者は仕事道具だから常に持ち歩いてたりするけど……」

 さっき筆記用具でも取り出すように自然に出していたが、あれはどうやら特殊なことのようだ。

「マイ・ボールみたいにマイ・マシンはないってか」

「何それ、変な言い方ねえ。まあそういうことよ、要は」

 おかしそうに笑う啓一に、サツキもつられて笑う。

「上の方まで行ってみましょ。ある程度上まで行って、あおむけかうつぶせになりながらふわふわと下りてくのがお勧めの楽しみ方よ。衝突注意だけど」

 そう言いつつ、空間をぽんと蹴りさらに上へと上がった。

 実によく上がるもので、同じようにやってみるとたちまち三十メートル地点を通過する。

「ストップ。上から五メートルは出入りする人のために、無駄に上がらないのがマナー」

 三十三メートル地点で啓一の腕を軽くつかんで止めると、サツキはくるりとあおむけになった。

 啓一もそれにならい、下を確かめてからあおむけになる。

 浮遊感が、何とも心地よい感じだ。

 サツキもこれが好きなのか、黙って身をまかせている。

「……ねえ、啓一さん。何だか、ごめんなさいね」

 ややあって、サツキが申しわけなさそうに言った。

「ごめんなさいって……?」

「今、ふと思ったの。この世界に慣れてもらおうと思ってのこととはいえ、一方的に情報の洪水浴びせてなかったかな、って」

「いや申しわけないのはこっちさ、せっかくの休日に手をわずらわせて」

 そう言って、啓一は少し顔を暗くする。

「……今の俺の知識なんて、こっちじゃ恐らくろくに役に立たないだろうからな。このままじゃ一生暮らすなんて夢のまた夢じゃないか。頭にたたき込まれるくらいの方がいい」

「え……」

 自嘲するような啓一の言葉に、サツキは驚いたような声を上げた。

「だってそうだろう?異世界なんだから、たとい地球があろうが日本があろうが、絶対にいろいろと違っているはずだ。歴史、文化、思想、学問、技術……あらゆるものがね。大体、人間以外の種族がいる時点で既に違ってなけりゃおかしいはずだ」

「………」

「しかも、共通点と相違点がまだらなんだろ?同じことがあっても少しだけ違います、複雑にからみ合ってます、ってことになるんじゃないのか。ちょっとの違いといって馬鹿にしちゃいけない、大きな違いより場合によっちゃ怖いんだ。その累積が、最終的に大きな違いをもたらす可能性だって充分にあるんだから。そこまで深刻な事態をもたらすことじゃなかったとしても、知識を出したら間違ってましたなんてのがいつ何時起こるか分からない。地雷原を歩かされてるようなもんだ」

 違いが小さくとも、局所に留まり他に影響もないというのならそこだけ修正すれば何とかなる。

 だがそのために関わるものごと全体の流れが大きく変わってしまい、最終的にあさっての方向に到達するようなことになってしまうと、それ以降の知識は無効となってしまうのだ。

 世界間の相違点という大切なものが、影響や深刻さの程度が分からないままゲリラ的にあちこちで噴き出して来るというのだから、とてもではないがたまったものではない。

 極度の緊張を強いられながら、いつ自分の知識が役に立たなくなるか震え続けるしかないのだ。

「学問一つ取ったって、ややこしいことになってるはずだ。君の専門分野でいえば、重力子が見つかって重力研究が単独学問になってる時点で既に違いすぎてる。そうなると関連する量子力学や素粒子学、さらには物理学、果ては科学全体に相当な違いが及んでるんじゃないのか」

「……それは、そうだけど」

「それでも専門外ならまだ右に置いておける。だが自分の専門分野はどうだ?俺は文学部で日本上代文学専攻だったが、この世界にそもそも同じ古典や文学作品があるとは限らないし、あってもどう受け止められてるかなんて分からない。歴史も学問趣味問わず得意だが、違っていればそれでおしまいだ。文化も、芸術も、全てそうかも知れない。せっかく学問していろいろ身につけて来たのに、全部役に立たなくなる可能性があるんだ」

「………」

「俺は、自分で言うのも何だが知識に頼って生きて来た。それが実質歯抜け、最悪失われたも同然になるんだ、こんな残酷な話はない。俺から知識抜いたらほぼ抜け殻みたいなもんなのに……」

「そんな……!」

 驚いてサツキがこちらへ顔をを向けるが、啓一は構わず話し続ける。

「君が逆の立場になったらと考えてみなよ。もっと悲惨じゃないのか?この際種族違いはおくとしても、重力子が発見されていない世界だ。従って君の学問は成立しないし、当然知識も全部無駄になる。一生懸命説いたところで、何だこの食わせ者と嗤われるだけ。研究者として屈辱じゃないか?」

「………」

 その通りだった。前提があるからこそ学問は成立するし、知識も意味を持つ。その前提が消滅すれば、その時点で全てが潰滅してしまうのだ。

「知識は子供の頃からの累々とした積み重ねだ。それがほぼ無効となったら、自分が今まで一生懸命学んで来たことは何だったんだ、って思うのが人情じゃないか?」

 ふわりふわりと落ちて行く。既に高さは、二十五メートルまで下がっていた。

「それに……俺はあっちに全てを置いて来ちまった。親や親戚や知り合いといった人、思い出の品や原稿や資料みたいな物……そして、夢も目標もな」

「………!」

 啓一の口から出た言葉に、サツキは息を飲む。

「俺はね、小説家になりたかったんだよ。そういう者にとって、今まで書いて来た原稿を失うのは耐えがたい。書かない人は『小説なんてまた書けばいい』って思うかも知らんが、違うんだよ。その時々の気持ちによるからね、二度と同じ文章は書けない。さらに言うと物書きは自分が知らないものはまず書けないから、知識が役に立たなくなった時点で詰む。こんなのが重なったら、そりゃもう夢も目標も消えたようなもんだよ」

「………」

「ああ、神がいるなら本当に斬り殺してやりてえ。チェーンソーなんてぬるいや、日本刀で唐竹割りだ。まあ、神も仏もないからこそこんなことになってるんだがな……」

 それきり、啓一は黙り込んだ。高度は既に十三メートルまで落ちて来ている。

 サツキは何も言えなかった。何か励ましの言葉をかけたところで、それは「この世界の住人」という安全圏からの安っぽい慰めに帰してしまうことは、彼女にも充分理解出来る。

 結局五メートルまで来て躰を起こすまで、二人は言葉を交わすことはなかった。

「……すまなかった、ぐじぐじと女々しいことを言って。言われたって困るもんな」

「いえ、いいのよ、気にしないで」

 そう答えるが、声に元気がない。

 あそこで余計な気なぞ使わねば、彼の中にたまった鬱々たる感情に火がつかなかったのではないかと思うとやりきれなかったのだ。

『お客様にお知らせいたします。当プールは、本日十五時半より十六時半まで貸切となります。その間一般の方はご利用出来ませんので、速やかにお手近の出口よりご退出ください……』

 それに合わせたかのように、入れ替えを伝える放送が入る。

「行きましょう。三メートルまで来てるから、そこからすとんと」

 サツキが思わず手を出すが、啓一はそれを取ることなくすり抜けて下りてしまった。

「……さてと、行かないとまずいな。今日はこれからどうするんだい」

 虚しく手を差し出したままのサツキに向き直って、啓一が問う。

「え、あ、特に何も……鍛冶通の商店街でお夕飯の材料を買おうかと」

「じゃ、同道するよ」

 そう言って啓一が出口へ向けて歩き出すのを、サツキはただ悄然として追うしかなかった。

 窓の外を六郷前へ向かう電車が、せんから青い火花を飛ばして走り過ぎて行く。

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