第23話 クソダサいですよ

 忘年会の次の日、昼前に起きて鏡を見た。目が赤いわけでもなければ腫れているわけでもなく、まるで昨日泣いたことなどなかったかのように、自分の顔は通常運転だった。


 冷蔵庫の中は空っぽだった。年末は帰省するから、食べ物は極力買わずにおこうと考えていたせいだ。


「……食パンで済ませるか……」


 冷凍庫の中に眠っている食パンを引っ張り出してトースターに入れた。コーヒーを入れようと、コーヒーメーカーに手を伸ばす。


 その瞬間、スマホのバイブレーションが鳴った。画面に表示されている文字は「松隆総二郎 着信中」。


 電話をとるか、無視するか、悩んだ。でも、せっかく紘との関係を清算したのに、松隆との関係を来年に持ち越すのはイヤだった。


「……はい」


 電話を取ると「寝てました? すみません」といつもの飄々ひょうひょうとした声が聞こえた。


 飄々とした、声。きっと昨日の出来事は松隆にとっては私との約束の延長なのだろう。そう思うと……、少し気が楽な気もした。


「……起きてたよ」

「それはよかったです。お茶でも飲みません?」

「……いいよ。ちょうどそういう気分だったし」


 そう答えた後で、今日、人に見られる場所で松隆に会うのはマズイと思った。


「……やっぱり、どっちかの家にしない?」


 なぜあえて人目につかない密室を指定したのか、電話の向こうで考えている気配はした。


「……いいですよ。どちらでもいいですが、うちに来ます?」

「……そうする」


 部屋を片付けないでいいのはありがたい。家を出ようとして──自分があまりにも適当な恰好をしていることに気付いて慌てて戻った。クローゼットを開いて、どんなものを着るべきか悩んで……、それなりに気に入っている、でも新品ではない服を選んだ。


 家を出ようとしたとき、烏間先輩からLINEが入っていたことに気が付いた。昨晩頼んだことに対する返事だった。用件だけ書いてあって「詳細は年明けかな。よいお年を」と締めくくってあった。


 松隆の家へ行き、玄関前で立ち止まった。どんなに脳で考えても体は正直なもので、玄関前に来てから動悸どうきがし始めている。手を握りしめて、必死に落ち着きを取り戻そうとして、深呼吸をする。


 おそるおそる、インターフォンを鳴らした。出てきた松隆は、シャツにカーディガンを羽織り、黒いスキニーをはいていた。12時間ぶりに会ったけれど「どーも、すみません来てもらって」とやはりいつもどおりだった。お陰で……、ほんの少し、動悸が収まった。


「……いや。そのほうが、都合よかったし」

「そうです?」部屋に上がりながら「お昼食べました?」

「うん、まあ。食パンを一枚ほど」

「それで足ります?」

「まあ。松隆は?」

「まだなんですけど、朝が遅かったんでお腹が空いてなくて」


 松隆の恰好から予想がつくとおり、部屋の中は暖かかった。部屋の真ん中にある机は、前回来たときはただの机だったのに、いまはこたつになっている。その上には飲みかけの紅茶が入ったマグカップが鎮座していて、さっきまでそこにいたことが容易に想像できた。


「紅茶淹れましょうか?」

「ありがと」


 松隆がキッチンに引っ込んだ。紘に貰ったバッグをソファの傍に置くと、記憶よりもソファが低いことに気がついた。どうやらこたつとソファを両立させるために、冬の間はソファの足を取り外しているらしい。お陰でソファというよりは横に長い座椅子のようだった。


 こういうさり気ないところが、なんかオシャレなんだよな。そんなことを考えながら無遠慮にソファに座り、膝から下だけこたつに入れた。じんわりと、熱がのぼってくる。


「我が物顔ですね」


 キッチンから顔を覗かせた松隆が笑っていた。


「後輩の家だし」


 そう、ただの後輩の家だ。自分に言い聞かせるように、松隆のポジションを確認した。


「パワハラ気質ですか、もしかして」その手には紅茶の缶が2つあって「どっち飲みます? セイロンとアールグレイ」

「……どっちも分からん」

「アールグレイのほうが香りが強いです。コーヒー派でしたっけ?」

「……ううん、紅茶でいい。アールグレイで頼んだ」

「はいはい」


 スマホを取り出したけれど、ロック画面に通知の表示はなかった。でも紘からのLINEは学祭以来ずっと通知をオフにしているからロック画面じゃ気付きようがない、そう思い出してLINEを開いたけれど、やっぱり紘からの連絡はなかった。


 戻ってきた松隆から「どうぞ」「ありがと」と紅茶を受け取る。沈黙が落ちた。お茶でも飲まないかと電話をかけてきたくせに、松隆は用件はないのだろうか。


 ……違うか。私がなにかを話したいはずだと思って、連絡を寄越したのか。どうせお見通しなんだろうと思うと、昨日の夜のように笑えてきた。


「……昨日、忘年会の帰り、無事に紘と別れたよ」


 隣の松隆が驚いた気配はなかった。まるで淡々と、仕事の報告を受けているかのような態度だった。


「最終的な理由は?」

「……話すと長くなるんだけど」


 でも確かに、松隆は私から仕事を引き受けてくれていたわけだし、松隆にとっては仕事の報告で間違いないのかもしれない。


「……もし、私にとっての松隆が、実は紘にとっての茉莉だったら?」

「……どういう意味ですか? そうなるように、協力してくれって言いませんでしたっけ」

「うん、そう言った。でもそうじゃなくて。もっと分かりやすく言えば、紘は私と同じことをしていたんじゃないかって」


 松隆の顔は「は?」なんて聞こえてきそうなものに変わった。次いで、馬鹿にしたように鼻で笑う。


「……そうだとしたら、大宮先輩はクソダサいですよ」


 恋人の恋情が自分に向けられていると確かめる方法には、なにがあるだろう。少なくとも真っ先に思い浮かぶ、かつ簡便な方法といえば「異性との関係に嫉妬しないか確かめる」だ。


 きっかけが何だったのかは分からない。松隆が迂闊うかつにも推しメンを「空木先輩ですかね」と口走ってしまったことかもしれない。私からの呼び方が「松隆くん」から「松隆」に変わったことかもしれない。松隆からの呼び方が「空木先輩」から「生葉先輩」に代わったことかもしれない。私が「松隆とご飯食べてくる」と報告した回数が増えたことかもしれない。結びつけようとすれば、きっかけなどいくらでも思いつく。


「なんでそうだと思ったんです?」

「……学祭の日、たまたま、紘のスマホに沙那からLINEがきたのが見えたんだよね。『ちゃんと愛されてるって分かってよかったじゃーん』って」


 紘のスマホ画面に表示されたメッセージを、一言一句違えず覚えている。あのメッセージは、妙に頭に引っかかった。


「……どういう意味です?」

「……私、学祭の日に、紘に言っちゃったんだよね。『茉莉に彼氏ができて残念だったね』って」

「……大宮先輩の反応は?」

「紘は、まあ、そもそも好きなのは私なんだから関係ないって感じの口振りだった。その後、沙那から紘に、そのLINEメッセージが入ってて」


 つまり──。続きを言う前に、松隆は眉を顰めた。


「つまり、津川先輩が大宮先輩をそそのかしたってことですか?」


 もしかしたら、紘は、私があまりにも松隆と仲が良いことに不安を覚えたのではないだろうか。それを沙那に話してしまったのではないだろうか。そして沙那に「他の女子と仲良くして、嫉妬されるか試したら」と言われたんじゃないだろうか。同じ学部で、美人で、彼氏のいない茉莉が、その「他の女子」として適任だったのではないだろうか。──あのメッセージを見たことによって、そんな仮説が立った。


 でも、これだけではただの憶測おくそくだ。あのメッセージは、紘が沙那に「茉莉のことで嫉妬された」と、ただそれだけを話しても自然に出てくるものだ。沙那と紘がわざわざ策をろうしたことの証拠にはならない。


「……紘は、茉莉の誕生日に、経済の友達と一緒にプレゼントを贈ってた。沙那が、そのことを『彼女と友達の扱いが一緒だってことで有り得ないんじゃないか』って言ったんだよね」

「お前に関係ないだろって話ですけどね」

「それはそうなんだけど、まあ、沙那のことだから」松隆の悪態に笑ってしまいながら「でも、紘は私に嫉妬してほしかっただけなんじゃないの、って沙那に言ったんだよ。そしたら返ってきた沙那のセリフは『誕プレにバッグってことは、本気になったんじゃない?』」

「『本気になった』ですか。まあ、引っかかりますね」


 疑問を差し挟むべき言い回しを的確に捕らえた松隆は、考え込むように腕を組んだ。


「彼女以外の女子に本命っぽいプレゼントを渡してるとき、下心を勘ぐるとしても、普通は『本気なんじゃない』って言いますよね」

「だよね。『本気になった』とは言わない」

「つまり、当初の大宮先輩は富野先輩に下心がなかったと確信できる何かが、津川先輩にはあるのかもしれない。その何かが、津川先輩自身が大宮先輩をそそのかしたという事実」

「……正解」


 わざとらしく人差し指を立ててみせた。こうでもしておどけていないと、みじめで泣いてしまいそうだった。


「それ、大宮先輩に言ったんです?」

「言ったよ、言っちゃった。沙那に唆されたんじゃないかって」

「大宮先輩の反応は?」

「……黒だったと思う」

「思うとは?」

「顔色は変わったように見えたけど、何も言わなかったから」


 ソファの背に、倒れ込むようにもたれた。邪魔になったマグカップをこたつの上に置く。


「彼女にあらぬ疑いをかけられたショックで顔色が変わった可能性も、考えられなくはないでしょ」


 ストーリーは、いくらでも作ることができる。自分が知っている範囲の事実と矛盾しないストーリーなんていくらでも思いつく。そのストーリーが真実だと言うためには証拠が必要だ。誰かの主観で創作できるようなものではない、動かざる証拠が。


 その意味では、いまの話は、このままでは全て私の想像か妄想で、作り話だった。紘と沙那の言動には、怪しい部分がいくつもある。でも、その怪しさを「黒だ」と言い切る証拠はどこにもない。紘のスマホを見れば、その証拠を手に入れることはできたのかもしれないけれど……そこまでする必要性は思い浮かばなかった。


 その代わり、別の方法で証拠を得ることにした。


「ただ、その可能性は烏間先輩に排除してもらっちゃった」

「烏間先輩に?」

「烏間先輩に頼んだの。その点、沙那に聞いてみてくださいって」

「……それはそれは、津川先輩も災難ですね」


 烏間先輩自身、沙那が紘にキスした瞬間を見てしまっていたらしい。座敷から出た私と、それを追いかけた松隆を、暫くして追ってきたのはそのせいだった。だから3次会に行く前、つまり私と紘が別れ話をしている裏側で、烏間先輩には沙那におきゅうえてもらった。


 今朝、烏間先輩から届いたLINEメッセージを開いて松隆に見せる。


『津川に言っといた。人の彼氏に手出してんじゃねえ、いい加減にしろって』『その流れで聞いたけど、「私は大宮に試してみたらって言っただけですから」「実際にやったのは大宮ですからね」だって』『やっぱアイツどうしようもねーな、あんま気にすんな』


「というわけで、裏付け捜査は終了です」


 カタン、とスマホをこたつ机の上に置き、代わりにマグカップを手に取った。松隆は心底呆れた顔で「アホらし……」と呟く。


「どういう神経してるんですかね……カップルの関係を横から引っ掻き回すとか」

「分からん。性格が悪いとしか言いようがない」

「そもそも、津川先輩に生葉先輩との話を相談する大宮先輩もどういう神経してるか謎ですけどね。意図的人選ミスと言っても過言じゃない」

「それが全てのミスだよね。ま、乗せられた紘も紘なんだけど」

「ただそうなると、津川先輩が大宮先輩を唆した理由が謎ですね」

「ん、まあ、それは大して謎でもなんでもなく」それはいわば動機の話だけれど「沙那は松隆がお気に入りだからでしょ」

「はあ?」


 心底馬鹿馬鹿しそうな声に、また笑ってしまいそうになった。松隆は珍味でも食べさせられたような顔をしている。


「まさか、僕が生葉先輩と仲が良いから? あの人、そこまで馬鹿なんですか?」

「先輩に向かって馬鹿って言うんじゃありません」

「世界の中心が自分じゃないと満足できない人は間違いなく馬鹿ですよ」

「それはおいといて。とにかく、沙那が引っ掻き回した理由は、ただそれだけだよ」


 ふたを開けてみれば、なんて馬鹿馬鹿しいいたちごっこだったのだろう。しかもその原因が全然関係ない沙那の嫉妬だなんて、本当に──何度も何度も繰り返してしまうけれど──馬鹿馬鹿しいとしか言いようがなかった。


 これは推測だけれど、沙那が紘にキスをしたのは、ただのダメ押しか八つ当たりだろう。いつまでたっても別れない私と紘、それとは裏腹に仲の良さそうな私と松隆は、沙那にとっては期待外れの成果だっただろうから。


 沙那は松隆を気に入っている。当然、私が松隆と仲良くしているのが気に食わなかった。だから、私と紘の関係を横から引っ掻き回してみた。あわよくば別れればいいとでも思っていたのかもしれない。


 その思惑と平行して、紘は私を嫉妬させようと画策していた。だから茉莉と仲良くした。


 そうとは知らず、私は松隆に、紘にとっての茉莉の立場を求めた。


 私と紘は、沙那の思惑にきれいに振り回されていた。きっと、振り回される程度の関係でしか──その程度の信頼しか──なかったのだろう。


「……というわけで、私と紘の話は、これでおしまい」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る