第6話 僕と浮気しませんか


 大学へ足を向けながら、松隆は不意に「生葉先輩と烏間先輩って仲良しですよね」なんて口にする。


「まあ。1回生の頃からよく遊んでもらってるし、学部も同じだから過去問とかもらうし」

「烏間先輩のこと、好きにならなかったんですか?」


 あまりにも唐突な質問に、きょとんと驚いた顔をしてみせたけれど、松隆の横顔に他意はなさそうで、ごく自然な疑問を口にしただけのような顔つきだ。


「正直、大宮先輩より、烏間先輩のほうがよくないですか?」

「人の彼氏を捕まえて本当に失礼なヤツだな」

「烏間先輩のほうが学部も同じだし、普通に仲良いですし。なんでです?」

「なんでって言われても……」


 脇目わきめもふらずに紘に夢中になっていた……とはさすがに恥ずかしくて口にできなかった。


「確かにいい先輩だとは思うし、仲もいいけど、あんまりピンとこないっていうか……。あ、烏間先輩は、ほら、ずっと付き合ってる彼女がいるから。そのせいかな」

「そのせいとは?」

「彼女がいると恋愛対象からはずれちゃわない?」

「そんなことないでしょ。そんなこと言ってたら不倫なんて存在しませんよ」

「そう言われたらそうかもしれないけど……。多分、相手が自分に恋愛感情を向けてないことが明確だからかな?」


 烏間先輩の彼女に会ったことはない。でも仲が良いのは分かる。つまり、烏間先輩が私に後輩以上の感情を向けることはないというのは明白だ。


「自分に興味のない人間に興味なんて湧かないでしょ」

「……そういうもんですかね」

「少なくとも私は」

「まあ、烏間先輩は彼女とは別の相手と遊ぶことも、好きになることもなさそうですし、その意味では納得できるといえばできる気がしますね。生葉先輩と烏間先輩が付き合うには世界線がずれてたというか」


 つまり、烏間先輩に彼女がいなければ好きになっていたのではないかと。烏間先輩に好みでない部分なんてないし、むしろ好みをいえば烏間先輩はぴったり当てはまるのだろうし、もっともな指摘である気はした。


「……確かに、会ったときに彼女がいなかったら好きになってたのかも」

「でしょう?」

「そう考えると、やっぱり恋愛ってタイミングだなあ」


 考えたことはなかったけれど、烏間先輩と付き合っていた未来もあったのかもしれない。しみじみと頷く私の隣で、松隆も静かに頷いた。


「ええ、本当に」

「なに、松隆もそんな経験あるの?」

「タイミングが合わなかったみたいな経験は特にないです」

「なにその気になる言い方! そういえば松隆の恋愛遍歴って聞いたことない!」

「なんでそんなに食いつくんですか」


 そりゃ、いつも余裕たっぷりの生意気な後輩がイヤな顔をすればいじめたくなるに決まってる。


「イケメンって彼女何人くらいいたことあるの?」

「なんですか、その雑な質問……酔ってます?」

「飲んでません。あ、でも松隆はあんまり特定の相手は作りそうにないな……」

「僕に対する偏見が本当に酷いです。こう見えても結構健気なんですよ」

「結構健気」


 その字面が松隆に似合わな過ぎて声を上げて笑ってしまった。松隆はしかめっ面をするけれど、この顔に好きだといわれて落ちない女子なんていないはずなので、健気なんてものからは無縁としか思えなかった。


「いいね、松隆が健気になる相手、見てみたい」

「後輩いじめはよくないですよ」

「普段いじめられてるから、仕返しに」


 初めて松隆より優位に立てた気がして、うきうきなんて聞こえてきそうな足取りになってしまったけれど──通りの向こうからやってくる2人組が目に入った瞬間、全身が凍り付いた。


 私の異変を敏感に感じ取った松隆がいぶかし気に見下ろしてくる気配がした。そして、私が答えるより先に、松隆は私の異変の原因に気が付く。


「あれ、生葉ちゃん」


 向かいから歩いてきたのは、紘と茉莉だった。


 どうしたの、なんてこっちのセリフだ。茉莉の恰好を盗み見れば、お出かけ用と言わんばかりの小さなバッグを持っているだけだったし、紘だって、財布だけをポケットに突っ込んでいる。これから飲みにでも出かけるところなんだってことはすぐに分かった。


 またか、と心の中で嫉妬の感情が渦巻く。また、紘と、茉莉か。


「お疲れ様です」

「あ、おつかれさま、松隆くん」

「どうした、こんなとこで」


 挨拶をした後輩に、紘は挨拶を返さなかった。そんなことを、無性に腹立たしく感じた。


「……烏間先輩と、松隆のお見舞いに行ってて。ついでに学食でも行って夕飯食べようかって話してたところ」

「松隆くん、具合悪かったの? 大丈夫?」

「ええ、今日は大事を取って休んだだけなんで。烏間先輩にも意外と元気だなって言われましたよ」


 後半を付け加えてくれたのは、きっと私のためだろう。でもも紘の機嫌が良くなる気配はなく、「へえ」と返すだけだった。


「2人は?」


 そして私は、分かりきった答えを聞く。


「私達も、今から飲みにいくところ。生葉ちゃんと松隆くんも来る? 沙那も来るから」


 3人なら、止める理由はない。紘と茉莉の仲が良すぎるとしても、私が沙那を好きじゃないとしても、3人で飲むのにわざわざ2人で歩いているとしても、手を繋いでいたわけでもないし、そもそも紘と茉莉は2人きりで飲むわけではない。


 私は“イヤ”だけれど、目の前の事象に「浮気」に当てはまりそうな行動はない。


「いえ、僕はやめときます。病み上がりですし」

「……私もいい」

「ま、お前飲めないもんな。じゃ」

「じゃあ2人とも、またコートでね」


 紘が、茉莉と一緒に私の隣を通り過ぎる。拍子に、冷たい風が半身を撫でた。


 浮気の定義は? ──客観的行動から判断するべき。気持ちが動いてなくても、恋人以外の相手と恋人らしい行動をとっていたら、それは浮気。


 では、恋人らしい行動とはなんだろう。「頻繁ひんぱんに2人で出かけること」は恋人らしい行動だけれど、恋人でなくてもする行動だ。会う機会が多い同学部・同サークルの相手なら、恋人でなくてもそんな事象が生じるのは仕方がない。それなら、同学部・同サークルの相手に関しては例外を認めるべきなのか? そういう相手こそ、親密になりがちなのに?


 もともと親密で当たり前な関係だから、浮気の判断はゆるやかにするべき。いや、そもそも、いつどうなってもおかしくないほど親密な関係だからこそ、浮気の判断は厳しくするべき──。


「先輩、大丈夫ですか」


 ぐるぐると回り始めた思考は止まることを知らず、気付けば松隆に顔を覗き込まれていた。


「先輩?」


 二度呼ばれて、やっと我に返って、視線を彷徨さまよわせる。いまの自分がひどく情けない顔をしているような気がして、顔を上げることはできず、「あー、ごめん……」と下手な誤魔化し方をする。どうせ、松隆相手に誤魔化せることなんて、今更なにもないのに。


「やっぱり私、帰るよ」


 髪を耳にかけながら、なんとかそれだけを口にした。彼氏が他の女と歩いてるのが不愉快なので食欲が失せました、なんて、口にするにはあまりにも馬鹿馬鹿しい。でも、それを口にすることができないのはあまりにもお高く留まったプライドのせいだなんてもっと馬鹿馬鹿しい。


「先輩」


 遠慮がちな声に気遣いを感じた。でも返す言葉が思いつかなくて、ただ黙って俯いたままでいた。これでは、どちらが後輩なのか、分かったものじゃない。


「僕と浮気しませんか」


 ……思わぬセリフに、顔を上げた。


 そこで、後輩が珍しく心配そうな顔つきをしているわけではなく──ただ不敵な笑みを浮かべているだけだと気が付いた。


「……なに?」


 声を絞り出すことができたのは、その表情のお陰だろう。もし、松隆が、いつになく同情的な表情を浮かべていたら、もしかしたら私は泣きだしていたかもしれない。


「ああ、失礼しました、訂正します」


 無様ぶざまで、みじめで、滑稽こっけいな先輩に呆れ、愛想を尽かし、嘲笑う──そういう表情のほうがまだ理解できた。


 でも松隆の表情はそのどれとも違っている。その笑みに含意されたものの正体を明確に形容することはできなかったけれど、説明するとすれば、何かを試そうとしているように見えた。


「浮気はしないでおきましょう。浮気と判断されない程度に、僕と仲良く・・・やりましょう」


 仲良く──そう言いながら、不意に指の隙間にひんやりと冷たい何かが滑り込んできた。私の指を絡めとったのが松隆の指だと気づいた瞬間に手を引っ込めようとしたけれど、松隆の手がそれを許してくれなかった。


「なに……言って、というか、なにをして……」

「生葉先輩が大宮先輩に何も言えないのは、大宮先輩を責めていいのかが分からないからでしょう?」


 私がどんなにイヤだと感じても、紘が浮気じゃないと言い張れば、私は紘に何も言えない。だって浮気じゃないんだから。私が「イヤだ」というだけでは、それは我儘だから。


「だったら、大宮先輩と富野先輩がしてるのと同じことを僕としてみましょう。それで大宮先輩が怒るなら、生葉先輩だって、大宮先輩を怒っていい」


 でも、例えば、私が松隆と2人で飲みに行くことを、紘が怒るのなら。私が松隆と2人で出かけることを、紘がやめろというのなら。それなら、私だって、紘が茉莉と2人で飲みに行くことを、一緒に出掛けることを、責めていい。それは我儘じゃない。紘が私に許さないことを、私が紘に許さなければならない道理はない。


「ね、先輩。名案でしょ?」


 でも、それは──。心の中にある奇妙なわだかまりを言語化できずにいる私に、松隆は、狙いすましたように畳みかける。


「大丈夫、浮気じゃないから」

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