第7話 浮気ってどこから?

 紘と初めて会ったのは、1回生の、1限目にあった英語の授業だ。


 空木と大宮。その苗字のせいで偶然隣の席になった。第一印象は覚えていない、というより、特にない。隣の席が女子だったら友達になれたのに、と思ったくらいだ。


「隣の席同士で自己紹介をしてください。次の授業では、隣の人のことを紹介してもらいますので、ちゃんとお互いのことを話してくださいね」


 初っ端からそんな無理難題を設定されて、受験が終わって以来、触れてもなかった英語を喋る羽目になった。紘もそれは同じで「ヤバい、マジで何も出てこない」と狼狽ろうばいしていたから、少し安心した。


 名古屋の男子校出身。中高はサッカー部に入っていたし、七帝戦に出たい気持ちもちょっとあるけれど、部活はもう充分頑張ったし、浪人生活1年分のブランクがあるから、大学ではサークル程度にしておくつもり。体を動かすことが好き。サッカー以外も、野球も、テニスも、バスケも好き。


 英語は苦手。リスニングは嫌い。聞き取れないし、そもそも、他人の会話をわざわざ盗み聞きさせられている気分になる。なんでこんなことをしなきゃいけないんだと、中学時代からずっと気に食わなかった。


 5月1日生まれだから、もうすぐ二十歳になってお酒が解禁されるのが楽しみ。でも、新歓は4月中が中心だから、少し損した気分でもある。実は3月に合格祝いと称して父親と一緒に酒を飲んだ。父親が知り合いから貰ったワインだったけど、美味しすぎてあっという間に一本開けてしまって、同じく楽しみにしていた母親に怒られた。


 たどたどしい英語で最初に聞いた紘の話は、そんなところだった。笑いながら「私はテニス部だったから、テニスサークルに入るつもり」「英語は得意だったけど、いま喋ってるともうなにも言えないなと思う」「四国出身だけど、一家そろって下戸げこばかり」「知り合いがいないから、早く友達を作りたいなと思ってる」と話した。幸いにも、その日の午後の法学部の授業で、松崎まつざきみどりという友達はできた。


 1週間後の授業で、私が紘を、紘が私を紹介した。紘は私のことを「みなさんが聞いていたとおり、俺と違って彼女は英語が堪能なので、彼女のことはよく分かりました」「四国出身らしいです。聞いた瞬間、早速酒飲み仲間を見つけたと思ったけど、下戸と聞いてがっかりしました」と茶化した。授業終わりに、私達は「疲れたね」とだけ話して、解散した。


 その日、みどりと一緒にテニスサークルを覗いた。ごまんとあるテニスサークルの中で今のサークル『TKC』を選んだのは、烏間先輩が理由だった。というのも、法学部の専門授業に、烏間先輩をメンバーとする『法律研究サークル』がサークル紹介にやってきて、私とみどりにチラシを配りながら「ちなみにテニスに興味ない? 俺、テニサーにも入ってるから、研究サークルに興味なかったらこっちおいでよ」と紹介してくれたから。いま思えばとんでもない先輩だ。


 烏間先輩は、私達を見つけると「法学部1回生の子だよね?」とすぐに話しかけてくれた。ついでに、隣にいた喜多山きたやま先輩と「知り合い?」「いや、今日、ほうけんのサークル紹介やってたんだけど、あんま興味なさそうな顔されたから、ついでにTKCの宣伝を」「おおー、偉い。やっぱ広報にはイケメン使うに限るな」なんて話していた。


「空木さんじゃん」


 更にそこに現れたのが、紘だ。紘は、武田くんと一緒に、テニスラケットまで持ってコートにやってきていた。烏間先輩は「大宮、だっけ?」と紘の苗字を確かめたので、紘が私達より先に『TKC』に目をつけていたことが分かった。


「大宮、経済じゃなかったっけ? この子らと知り合い?」

「いや、知ってるのは空木さんだけっす」みどりに一瞬だけ視線をやって、紘は肩を竦め「英語で隣なんすよ、空木さん」

「んじゃー、1回生同士すでに知り合いなんじゃん! ちょうどいいな!」


 喜多山先輩がそんな適当なまとめ方をした数日後、気付けば私とみどりはTKCへ入ることが決まっていた。もともとテニサーには入ろうと思っていたし、烏間先輩と馬が合いそうだったし──なんとなく、「大宮くんもいるんだ」と思っている自分がいた。


 4月に思っていたのは、それだけだ。





「生葉ちゃん、元気ないなあ」


 みどりの言葉に、自分の愛想笑いが固まるのを感じた。なんならご飯を運ぶお箸ごと固まった。


「……分か……る……?」

「うーん、なんか、覇気はきがないっていうか」

「言葉選びにみどりの優しさが伝わってくる……」

「大宮くんと何かあったん?」


 ……まあ、元気のない大学2回生の悩みなんて、環境や友達のことではなく恋人のことだと察しはつくだろう。しいていうなら人生を悩んでもいい年頃かもしれないけれど、そんな大それたものを悩むには私はまだ未熟で、一方で成熟もしている。


「なにか……ってわけじゃ……というかみどりの意見も聞いていい!?」

「いいよいいよ、なに?」


 大きく頷くみどりに、私は勢いよくお箸をプレートに置く。


「浮気ってどこから?」

「……え、難しいこと言うやん」


 途端にみどりは困った顔に変わった。


「ていうか、大宮くん、浮気してんの?」

「いや、してない……してないと思います……というか、浮気の定義を決めないと浮気してるという判断もできないなと……」

「そういうことかあ。どうなんやろなあ、自分以外の人のこと好きになったら浮気かなあ」


 ごく一般的な回答であると同時に、みどりらしい回答ではあった。でも満足する回答ではなかった。


「じゃあ……好きじゃないけど、彼氏が自分以外の女子とデートしてる場合は? これは浮気じゃない?」

「好きじゃないなら浮気とは言わんけど、普通にイヤやなあ」みどりはしかめっ面で「だってデートする理由が分からんやん? 彼女のプレゼントを選んでもらうとかよく聞くけど、そんなん他の女子とデートして選ばれても複雑やろ」

「……そうだよねえ」


 それは、心底満足する回答だった──1週間前までなら。


 紘の行動をどこまで浮気というか。それを考えるための質問なら、みどりのその回答は「だよね! 浮気とまでは言えないけど、普通にヤダよね! これ我儘じゃないよね!」と両手を握って激しく首を縦に振っていただろう。


「もしかして、大宮くんと茉莉ちゃんのこと?」

「……うん」


 紘の行動が気になっているという意味では嘘ではなかった。


「でも、ほら、茉莉っていい子だから」


 とはいえ、茉莉に嫉妬しているなんて、恥ずかしくて口にできなかったので、お箸と共に気を取り直しながら慌てて口にする。


「他人の彼氏を取ってやろうみたいなイヤな女子じゃないじゃん。それどころかめちゃくちゃいい子だし……」


 フィクションの世界では「金持ち美女は性悪」がお決まりの設定だけれど、そんなのはまさしくフィクションだ。もちろん例外もいるとはいえ、本当にお金持ちで本当に美人な女子は性格までが良い。実際、茉莉は、実家が開業医のお嬢様だけれど、カジュアルな恰好ばかりで気取ったところはなく、美人なのにそれを鼻にかけることもない、万人が認める「本当にすごくいい子」だ。茉莉を選ぶ男は見る目がある。


「……でも、だからこそイヤじゃない?」

「そうなんだよね!」


 さっきまでのプライドはどこへやら。なんなら本当に悩んでいたことまで吹っ飛んだ。


思わず力強く頷いてしまった後で額を押さえる。


「……ごめん、このことは内緒に……」

「もちろん。でもなあ、茉莉ちゃん、いい子やから、大宮くんにも言いにくいよなあ。言ったらこっちが悪者みたいやもん」


 彼女やったら当たり前やのにな、という言葉も含めて激しく頷いた。


「もっと……こう、茉莉が男をとっかえひっかえするようなイヤな女子だったらね、紘も狙われてるよって言えるんだけどね」

「それな。せめて、大宮くんが生葉ちゃんに束縛強いタイプやったら言えるのにな」

「……それはつまり」

「ほら、生葉ちゃんに向かって、例えば松隆くんと遊ぶなとか、烏間先輩と飲みに行くなとか。そういうこと言うんやったら、大宮くんにも茉莉ちゃんと出かけんでって言っていい気がせん?」


 イヤな予感が的中し、今度は視線を泳がせるはめになった。また当初の悩みが思考の中に戻ってきた。


「ていうか、大宮くん、実際どうなん。茉莉ちゃんとコートに一緒に来るのはよく見るけど、2人で飲みに行ったりとかもしてるん?」

「あー、うーんと、2人で飲みに行くというと微妙で」話題がそれたことに安心しながら「ほら、紘ってバーでバイトしてるじゃん。暇なときに茉莉ちゃんに連絡して、飲みにおいでよって誘うことはわりとあるみたい。バイトとは関係なく茉莉ちゃんと2人で飲みに行くっていうのはあんまりなくて、基本は沙那と3人……」

「うわ、微妙……」


 “2人だけで飲みに行ってる”とは絶妙に言い難いシチュエーションに、みどりは顔をしかめた。


「でもバイトでそうやって呼ぶ相手が彼女じゃなくて別の女子っていうのがイヤやわ……」

「だよね……でもほら、私は下戸げこだから……バーに誘われても飲めないし……」

「そういう言い訳が立つのが、もっとイヤやなあ。なんか、微妙に責めにくいことされてる気がする。……あ、ごめんな、大宮くんの悪口ってわけじゃないんやけど」

「ううん、全然。むしろ共感してくれる人いないからそのくらい言ってもらったほうが」


 松隆はこの手の共感はあんまりしないタイプだしな、やっぱり男女差ってあるのかな──なんて思ったけど口には出さなかった。


「大宮くんに言ってみたん? 茉莉ちゃんと2人で飲むのはちょっと、みたいな」

「……茉莉に関しては言ったことないんだけど……、実は、沙那と2人で飲みに行くのはちょっと、みたいなことを言ったことが……」

「あー……分かる、沙那、モテるから心配よな」


 沙那を“モテる”と評したのは、やはりみどりの心の美しさゆえな気がした。正直なところ、本当に正直なところ、沙那の隣に彼氏がいたら、大抵の彼女にとっては気が気でない(いつ奪われるか分かったものではない)と思う。


「大宮くん、そしたらなんて?」

「……恋愛対象じゃないから安心していいって」

「そういうことじゃないんよなぁ!」


 本当にそうなんだよ、そのとおりなんだよ。


「実は武田にも同じこと言われてさあ」

「沙那は恋愛対象じゃないって?」

「うん。女子と2人で飲みに行くのってどうなのって話をしてたときに『たとえば津川が相手だったら気にしないでしょ』って言われて……」

「それは武田くんが何も分かってないわ。沙那でも気になるやんな」

「みどりぃ……」


 共感の女神かよ。顔を両手で覆いながら、何度も首を縦に振った。


「先輩、なにしてるんですか」


 笑い混じりで、聞き間違えようのない声に、素早く顔を上げた。みどりと私が揃って視線を上げた先には、松隆と山科やましながいた。山科は「ちわっす」と、いつも通りの屈託くったくのない笑みを浮かべていたけれど、松隆の笑みはどう見ても私を鼻で笑っていた。


「こら、松隆、山科を見習って挨拶しなさい」

「失礼しました、お疲れ様です」


 なんでコイツの言う「失礼しました」はいつも石板せきばん文字くらいの温度感しかないんだろう。やっぱり馬鹿にされてる気がする。


「先輩方、隣空いてるんなら座っていーすか」

「どうぞ」


 私とみどりが荷物をどけると、松隆が私の隣、山科がみどりの隣に座った。みどりが純和風の美少女である一方、山科の見た目はどこのクラブのDJですかと言いたくなるような濃い顔と薄い髪色なので、山科が同じテーブルについただけでこの4人席の色物ぞろい感がすごい。ただでさえ松隆の顔は人目を引くのに。


「空木さん、顔面隠してにらめっこでもしてたんすか?」

「山科の顔ほど笑えるものはないから安心していいよ」

「ヒッド! 聞きました、みどりさん、いまの暴言!」苦笑いするみどりに構わず「てか聞いてくださいよ、隣に住んでる高校生と今朝会ったんすけど、俺マジでめちゃくちゃ馬鹿だと思われてるんすよね」

「実際、山科は競馬鹿けいばかじゃない」

「いや競馬は関係なくて、マジで。隣の高校生が、今年受験生らしいんすけど、『いやー、模試の結果返ってきたけど、志望校余裕っすわー。山科さん、大学はマジで出たほうがいいっすよ』って言われたんすよ!」


 私と松隆だけではなく、みどりまで珍しく声を上げて笑った。確かに、金髪の少し手前の長髪で、伊達なのかなんなのか分からない黒縁眼鏡とくれば、そう見えるのも仕方がない。


「なに、高卒フリーターと思われてるの?」

「ちゃいます、高卒ニートと思われてるんですよ」

「朝から晩まで競馬場に出入りしてたら、そりゃそうなんじゃない」

「また授業来てないの? 山科……」


 松隆の指摘に眉を顰めれば「最近やっと3限に遅刻しなくなってきたんすよね」とハードルの低い返事がきた。前期は期末試験以外に姿を見かけないと言われていたことを思えばマシになったのかもしれないが。


「で、先輩らなにの話してたんすか」

「しつこいのは顔だけにして」

「いやいやいや、空木さん、マジ暴言過ぎますって」

「あたし、お茶とってくるね。生葉ちゃんいる?」

「いる、ありがとー」


 聞かれたら誤魔化しきれないと踏んだのか、みどりが立ち上がって逃げてしまった。だがここで幸いなのは、山科の推しメンがみどりであるという事実だ。


「あんまりしつこいとみどりにも嫌われるよ」

「いやー、それはマジ勘弁すわ」


 軽薄な口調からはとてもそうは思えないけれど、実は本当にひそかに「みどりさん、マジで好みなんすよ」と話しているのを聞いたことがある。お陰で「こんなん、昼間っからする話じゃないっすけどねー、みどりさんってどういう男が好みなんすかね」とあっさり話題は変わった。


「さあ、彼氏いないし……。顔の薄い男とかじゃないの」

「それ僕の顔が濃いから言うてるだけでしょ。でもほんまやったらあかん、整形せな」

「この間の飲み会でそんな話になったけど、みどり先輩の好きな顔って普通に王道のイケメンだったよ」

「お前やないかい」

「俺とは言われてない」

「松隆の顔が嫌いな女子なんていないでしょ」


 それは心からの言葉だったし、今までも何度となく口にしてきたものだったけれど。


「じゃ、先輩は僕の顔好きなんですか?」


 そしてその言葉にも「好きだよ」といつも返事をしていたけれど、状況が状況なので返事ができずに固まってしまった。


「いやいや空木さん、こんなとこでラブコメ始めんでくださいよ」


 この時ばかりは、山科の存在に助けられた。内心狼狽うろたえながら「いやそういうのじゃなくて」と誤魔化す。


「この流れで私が好きじゃないっていうわけにはいかないじゃん? だから気を遣おうとしたんだけど、つい正直な反応を」

「最後まで気を遣ってくれません?」

「まー、空木さんが松隆の顔を好きとか言い出したら浮気ですからね」


 顔が好きだというだけで? 一瞬、不可解さがよぎったけれど「だよね、紘に聞かせらんない」と頷いておいた。隣の松隆は、いつも通りだった。

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