第8話 浮気まがいの遊びはしません


 その日の夕方、4限が終わった後、講義棟の前で再び松隆と山科に出くわした。山科は「ちわーす。でも僕こっから野暮用なんで、失礼しまーす」とすぐに去っていった。どうせ競馬だ。


 一方、私はTKCとは無関係の法学部組に囲まれていたので、周りの子達が松隆を見て「例の経済のイケメンくんだ」「こんなことなら目の保養のためだけでもテニサー入ればよかったー」と褒めて嘆いてと忙しい。松隆は動物園のパンダ扱いだけれど、慣れているらしく「お疲れさまです」と平然と挨拶をする。慣れているところまで含めて動物園のパンダかもしれない。


「先輩、コート行くなら行きましょうよ」

「えっ……」

「生葉、イケメンの後輩の頼みを断るなよ」


 男前な友人がパンッと背中を叩いた。そりゃあもちろん、普段なら二つ返事で一緒に行っていたけれど。


「いやあ……その、今日は……」

「ラケット持ってるくせに何言ってんの、じゃーね」


 断る理由を探そうとしたのに、今度はラケットを叩かれ、友人達は「また明日ねー」と立ち去ってしまった。授業終わり、人が密集している講義棟前から早く立ち去りたい気持ちは分かるけれど、それにしたって、困ってるのを分かってくれたっていいじゃないか……!


「先輩、なにぼーっとしてるんです」

「ぼーっとなんかしてません。考え事をしてたんです」


 恨みがましい目で睨むと「後輩に向ける目じゃないですよ、怖いですねえ」と飄々ひょうひょうと返された。


「なに考えてたんですか?」

「別に松隆に言うことじゃ……」

「コートまで、僕と一緒に行くだけでしょう?」


 なにか問題がありますか? そんな反語的な物言いさえ聞こえてきそうな言い方に、今度はキュッと唇を引き結んだ。


「……一緒に行くだけだから」

「当たり前でしょう。ただ一緒にコートへ行くだけなのに、何も深い意味なんてないですよ」


 何も意味はないのに、何も意味はなかったのに、意味を持たせようとしたのは松隆じゃないか……! そう抗議したい気持ちをぐっと堪えた。


「心なしか、遠くありません?」


 隣を歩いているなんてそう珍しいことじゃないのに、他人かってくらい離れてる、そう言いたげな苦情だった。


「……そりゃ遠くもなるでしょ」

「別に取って食いますって宣言したわけでもないのに」

「お前っ……!」


 真昼間(といっても夕方だけど)から前回の話を蒸し返され、慌てて周囲を見回した。溢れかえる人の中に紘はいないし、これから正門に向かうにつれて人はもっとまばらになるので心配はないだろう、けど。


「あの話は……ほら、保留に……したじゃん」

「もう少し様子を見てから僕と浮気じゃない浮気をしましょうと」

「浮気はしません!」思わず大声で食い気味に返した後で冷静になり「……そうじゃなくて……私はそもそも、そういうことはしないから……」


 あの日は「なに言ってんの、そんなことしないよ」と、無理矢理それだけを絞り出して答えた。松隆には「じゃ、まあ、気が向いたらということで」と適当に流された。紘と茉莉のことに加え、松隆にそんなことを言われて一緒に夕食など食べれるはずもなく、結局「……そういうわけで、私は帰ります」とたどたどしく、その場から逃げるように帰ってしまった。その後、松隆から何も連絡はなかったし、紘からも、何も連絡はなかった。


 お陰で悩み事が増えたというのに、松隆は今日も私の隣に悠然と立ち、飄々としている。


「じゃあ、大宮先輩との関係もこのまま保留ですかね」


 他人事だと思って! キッと睨みつけるけれど、松隆の笑みはやはりいつも通り。何を考えているか分かったものじゃない。


 ……そう、何を考えているのか、分からないのだ。


「……松隆、なんであんなこと言ったの?」

「僕と浮気しましょうって?」

「何度も繰り返さなくていいんだよ! 刷り込みでもしたいのかお前は!」

「何度も繰り返して刷り込まれるならいくらでも言いますけど。僕と──」

「繰り返さなくていいって言ってるでしょ! 私が言いたいのは、なんでそんなことを急に言い始めたのかって……」


 飄々としたままの松隆に、はっと思い当たることがあった。もしかして、松隆は紘に嫌われていると気付いて、私を通じて紘に嫌がらせでもしようと思っている……? 私がうっかり松隆を好きになって、紘が私に捨てられればいいと? 確かに、松隆の顔さえあれば、このたくらみを成功させるのは容易だ。


「先輩、もしかしてイヤな想像でもしてません?」

「もしかして松隆が私をおとしいれようとしてるんじゃないかって……」

「先輩、僕のこと物凄い性悪だと思ってません?」

「イケメンは概して性格が悪い」

「だから偏見が酷い。それに、聞いたことないですよ、イケメンは性格が悪いなんて一般論」

「あとイケメンが見返りもなく自分に優しくしてくるはずがないと思う」

「これが僕の優しさだと思います?」


 ふん、と鼻で笑われ、ぞわっと背筋に寒気が走った。確かに、先輩に向かって(しかもサークル内に彼氏がいるのに)浮気をそそのかすなんて、優しさもなにもない。そうなると、優しくされているわけではないから疑いの余地は──納得しかけて首を振った──あるに決まってる。騙されかけた。


「じゃあ一体……やっぱり私と紘を別れさせて紘に嫌がらせを……!」

「それは考えたことがありませんでした。そんなことを思いつくなんて、先輩のほうがよっぽど腹黒いですね」

「このっ……!」


 言い返そうとしたけれど、コートに着いてしまったのでその話を続けることはできなかった。なんなら、更衣室にカバンを置いたとき、カバンの中に一冊の文庫本を入れたままだったことに気付いて、さっきまでの松隆との遣り取りは頭の中からすっぽり抜け落ちた。


「松隆、そういえば『Good bye my…』だけどさ」


 更衣室を出た後、コートの手前で準備運動をしている松隆の隣に並んだ。


「ああ、どうでした?」

「いやー、それがすっかり忘れてて。カバンに入れっぱなしだった、ごめん。まだ読んでないから今度返すねってことだけ言っとこうと思って」

「ああ、全然いいですよ。僕はもう読み終わってるわけですし」


 本当に気にしてなさそうに手を横に振る。


「ただ、今日、金ローでやるんですよ、『Good bye my…』の映画」

「あー、そっか、そういえばそんな話もしたね」


 原作のほうがいいのでって言われてたな……。9時までとなれば、テニスではなく読書の日ということにすれば読み終えることは可能だけれど、そこまでする必要はないし、そもそも急いで文庫本を読み進めるのは性に合わないので、映画より先に原作を読むのは諦めたほうがよさそうだ。


「残念。ごめん、せっかく言ってくれたのに」

「いいえ、全然。映画見た後の原作でもいいと思いますし。『Good bye my…』のタイトルの意味は本のほうが分かりやすいかもしれませんけどね」

「え、今日『Good bye my…』の映画やるの?」


 茉莉の声に振り向けば、ちょっと天然の茉莉らしく、驚いた表情で仁王立におうだちをしている。美少女がやれば仁王立ちも可愛くてなんだか笑ってしまった。こういうところだ、茉莉の憎めないところは。


「うん、らしいよ。知ってるの?」

「知ってるっていうか、見たかったけど見逃してて、この間BDで見たところだったのに」

「ありますよね、そういうこと。でもシーンが途切れたりカットされたりすることがないぶん、BD借りるならそれに越したことはないような気もしますけど」

「松隆くん……優しい……」

「口先だけだから、この子が優しいの」

「僕はいつでも先輩に優しいじゃないですか。現に──」


 思わず松隆の足を踏んだ。整った顔が一瞬ゆがみ、恨みがまし気に見られるけど、知ったことか。何も知らない茉莉は当然小首を傾げる。


「なに? どうしたの?」

「いやなんでも」

「先輩がへこんだときはいつでもご飯に誘ってあげてるのにって話です」

「松隆っ!」

「やっぱり松隆くんは紳士だからなあ。いいじゃん、生葉ちゃん、こう、イケメン執事ができたみたいな感じで!」

「そんな可愛らしいもんじゃないって」


 松隆の足を踏み続けていると、コートにやって来た紘の姿が目に入ったので慌てて足をどけた。紘はラケットケースを背負ったまま「おつかれー」と私達に合流する。


「なんか珍しいメンツだな」

「今日『Good bye my…』の映画をやるらしいんで、その話をしてたんですよ」

「紘、今日サッカーの飲み会なんでしょ。見るなら録画するけど」


 アニメーション映画だから紘も見るだろう、そう思って口にしたのが、間違いだった。


「いや、先週BD見たからいいや」


 多分、紘以外の3人が硬直した。少なくとも、私と松隆は同じ疑念を共有した。


 もしかして、この2人、一緒にBDを借りて見てたのか?


「1時間くらいしか打てないんだよなー。基礎練やったら終わりそう」


 でも紘はそんな空気に気付かず、または気付いたからか、ラケットを腕と背中の間に挟んでストレッチしながら、奥のコートへ行ってしまった。


「あ、あのね、私と2人じゃなくて、沙那もいたから!」


 珍しく慌てた口調の茉莉が、私と松隆に弁解をする。


「飲みに行った後、なにか映画でも見ようって話になって、それで大宮くんの部屋で『真冬の蜃気楼しんきろう』を3人で見てたんだけど……。その、『真冬の蜃気楼』の途中で、沙那は東野くんに呼び出されて帰ることになっちゃって」


 東野というのは、沙那の彼氏の名前だ。


「『真冬の蜃気楼』を見た後に、大宮くんが『Good bye my…』を持ってるって知って……。それで、大宮くんと『Good bye my…』はそのまま見てて……だから途中から、終わるまでは私と大宮くんの2人だったけど、終わったらすぐに解散したし。生葉ちゃんを変に誤解させても悪いなって思ったから、何も言わなかったんだけど、ごめん」


 茉莉は心底申し訳なさそうに両手を合わせて頭を下げた。


「……いや、別に、沙那が途中で帰ったのは予想外だろうし、しかも相手は東野くんとなれば逆らえないし。仕方ないからいいんじゃないかな」

「いや、でも、やっぱり彼女のいる人と部屋に2人はマズイかなって」

「映画見てるだけだし、マズいも何もないでしょ」


 貼りつけた笑顔で、自分に言い聞かせるような返事を繰り返す。とんだピエロだ。自分で自分が笑えてしまう。


 こんな見栄っ張りな返事を、松隆はどんな気持ちで聞いているんだろう。


「じゃ、2人とも、また」


 少しバツが悪そうな顔をして茉莉が立ち去った後、私と松隆だけが取り残される。


「で、先輩。提案ですけど」

「……浮気まがいの遊びはしません」

「大宮先輩がやってる範囲内なら、浮気まがいも何もないでしょう」

「…………」

「だから『Good bye my…』一緒に見ません?」


 厳密には、紘と茉莉は2人で映画を見ていたわけではない。結果的に2人で見ることになっただけだ。厳密には、全く同じ状況を作出できるわけではない。だから、もし、どうして松隆と2人でと聞かれると、言い訳はできないだろう。


「……いいよ」


 それでも、くすぶった不快感はどうしようもない。


「まあ、僕の部屋はテレビがないんで、それを口実に先輩の部屋をいいように使おうとしているだけですけどね」


 ほらね。肩を竦めて笑った松隆に、私は辛うじて苦笑いを返す。松隆は、口先だけは優しいんだから。

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