第9話 ザイオンス効果、または単純接触効果

「お邪魔します」

「どうぞ。狭いけど」


 松隆の部屋と違い、私の部屋は大学生にありがちなありふれた1Kの部屋だ。大して広くもないのでソファはなく、ベッドにチェストボードにテレビ、こたつ机と備え付けのクローゼットがあるだけだし、しかも白で統一された家具がシンプルさを際立ててしまっている。ささやかな反抗として、ピンク色を基調とした花柄のベッドカバーがあるだけだ。


「椅子はないから、ベッドにでも座って」

「部屋に来た男にベッドに座れとか言わないほうがいいですよ」

「松隆は後輩だからノーカン」


 それでも遠慮したのか、松隆はベッドを背に床に座っていた。


「先輩の部屋、初めて入りましたけど、先輩らしい部屋ですね」

「どのあたりが?」

「色のないあたりが」

「私のことなんだと思ってんの。っていうか、ベッドカバーは白じゃないじゃん」


 テーブルのうえに、映画のつまみ代わりに買ってきたお菓子を広げる。お酒を飲めない私と松隆の目の前に並ぶのは、ポッキーと、塩味のおかき。甘いものと塩辛いものを1つずつ、そして手が汚れないようにというラインナップ。


「飲み物、コーヒーでいい?」

「いいですよ。ありがとうございます」

「マリアージュフレールと並べるようないいコーヒー豆じゃないけどね」


 時計を確認すると、『Good bye my…』が始まるまで10分くらいあった。お陰で、何をするでもなく松隆が部屋にいる状態になってしまっている。ベッドを背に2人横に並んでいるのもあって、少しだけ妙な違和感を覚えた。


「……そういえば、松隆、学祭は何もしないの」

「あー、まあ、客引きだけはしっかりやれって喜多山きたやま先輩に言われましたけど。そのくらいですかね。先輩は?」


 緊張感から無理矢理ひねり出した話題だったけれど、松隆は気にした素振りはなかった。


「私も客引きだけ行けって。土日だけやって、あとはまあ、家でのんびりかな。でも松隆は学祭初めてでしょ?」

「まあ。来週、浪速なにわ大の学祭に行く予定なんで、うちとどう違うかは見てみようと思ってるんですけど」

「なに、ナンパでもしに行くの」

「違いますよ。幼馴染の兄貴がいて、遊びに来いって言うんで。その幼馴染も一緒に」

「ああ、例の」


 この間も出てきた子の話か。


「仲良いよね。幼馴染って、いつから?」

「小学生のときですかね……。中学と高校も一緒なんで、かれこれ10年近い付き合いです」

「なるほどねえ。それだけ付き合い長かったら松隆が信頼するのも分かるなあ」

「……僕、そんなこと言いましたっけ」


 イヤそうな顔はきっと照れ隠しだ。


「言わなくても分かるじゃん、そういうの。関西にいる子じゃないの?」

「いえ、一ツ橋なんですよ。だから来週の連休だけ遊びに来てて」

「へーえ……」

「先輩がいう幼馴染は、もっと長い付き合いでしょうけどね」


 大にして、田舎のほうが人間関係は密だ。だから幼馴染の定義を「小学校から高校まで一緒」としてしまうと、市内の半分以上は幼馴染になってしまう。


「でも、仲の良さは大して変わらないかもよ。帰省すれば絶対一緒に遊ぶけど、学祭に遊びに来たりはしないし。遠いしね」

「そういえば先輩の初恋っていつなんです?」


 コーヒーを吹き出しそうになった。なんなら、辛うじて吹き出さずに済んだものの、気管に入ってしまったせいで勢いよく咳き込んだ。


「……急になに?」

「いえ、ほんのささやかな興味です」

「ほんのささやかな興味で先輩にコイバナふるの? しかも初恋?」


 幼馴染の話から連想ゲームでもしたか? 自分の中でそう納得しながら「いや、別に大した初恋はしてないけど……」とどもる。


「近所に住んでた家族と仲が良くて、そこの同い年の子が初恋だったけど……」

「へえ……」

「聞いておきながら、なにその反応」

「いえ、大宮先輩が初恋なのかなと思ってたんで」


 コーヒーを飲んでいたらまた吹き出すところだった。でも松隆は相変わらず涼しい表情だ。


「……私だって恋愛くらいしたことあります!」

「あんまりモテないってくだをまいてたことを思い出しまして」

「モテないことと恋愛をすることは両立するでしょ! 顔がいい松隆はいいよね!」


 絶妙なタイミングで9時になってしまったせいで、それ以上松隆を責める時間はなかった。


「……私、映画見ながらぶつぶつ喋るタイプなんだけど、平気?」

「別にいいですよ。見たことありますし」


 映画は暗い森のシーンから始まる。夜中に、誰かが湖に何かを投げ入れる、そんなシーンが暫く流れた後、場面が一転し、集落のような場所で人々がささやき合う。


『あの森には近づいてはいけないよ……』


『魔女が住んでるんだ』


『人を食う、魔女が……』


「そういえば、魔女が孤児を拾う話だっけ?」


 ポテチをつまみながら松隆に解説を求めると、松隆は映画から目を離さず「ええ。魔女は二百余歳という設定ですね」と頷く。


「で、この3人の子供が孤児、と」

「髪色でキャラ名を覚えてください。グリーンがエメ、赤がグレン、銀がロイーズです」

「グリーンがエメラルドで赤が紅蓮なのは分かるけど、なんで銀がロイーズなの」

「それは僕に聞かれても」


 どうやら、冒頭のシーンで湖に投げ入れられた「何か」は子供で、しかもメインキャラクターである3人の子供の友達だったらしい。湖に投げられた理由は、昔話にありがちな生贄いけにえだろう。整理すると、生贄になった子供への罪滅ぼしから、魔女が孤児3人を育て始めるというわけだ。


「これ、最初に子供を生贄に投げたのは誰なの?」

「なんでネタバレを聞こうとするんですか? 映画、見る気あります?」

「ごめんつい」


 作中で、3人の孤児は、いつしか貴族に並ぶエリート官吏となっていく。そして青年へと成長した3人のうち、2人が魔女ラシェルへの恋心を自覚し、ラシェルを巡って喧嘩を始めた。


「なるほど、エメとグレンだけちょっと含みのあるセリフが多いと思ったら、そういうことか……」

「まあ、順当で自然なストーリーですよね。思慕しぼ恋慕れんぼはどう違うのか、なんて聞こえてきそうな設定ですが」

「そういう考察をしてるのを聞くと松隆ってもしかしてオタクなのかなって思う」

「好きな作品を考察して何が悪いんですか」


 なんて、そんな悠長な話をしている場合ではなかった。


『ラシェル様、どうしてもだめですか』


 エメが魔女を押し倒した……。魔女の年齢設定は200歳を超えているとはいえ、そこはフィクションの世界、見た目は二十歳前後だし、エメは18歳。アニメーション映画なのでセーフだけれど、そうでなければ、後輩男子と2人でラブシーンを見るのは気まずいものがある気がした。


「そういえば、『真冬の蜃気楼』ってサスペンスホラー映画ですよね」

「……急になに」


 茉莉と紘が一緒に見たという映画だ。やっぱり松隆も、多少気まずいと思ったのだろうか。


「いえ、そういうジャンルにはラブシーンがつきものなので、先輩も色々思うところがあったんじゃないかなと思いまして」


 この後輩……! マグカップを握る手が震えてしまった。気まずくて話題を振ったのかと思えば、そういうことか……。紘と茉莉は、沙那が帰った後、2人で映画のラブシーンを見た可能性があると言いたいのだろう。


 睨みつけるけれど、松隆は頬杖をついて、馬鹿ですねえ、こんな後輩の一言に翻弄ほんろうされて、とでも言いたげだ。


「……なんのつもり」

「富野先輩と大宮先輩が一緒に見ていたというので、率直な感想ですかね」

「……見たことあるの、『真冬の蜃気楼』」

「ありますよ。だいぶ前ですけど、映画はわりと見ますし」

「……どういう話?」

「主人公の父親が、蜃気楼を見たって手紙を寄越して以来、行方不明になるんです。その父親を捜しに行った主人公が、旅先で出会った若い女性とその蜃気楼の謎を突き止めるために奔走ほんそうする話ですね。ま、それでその女性と恋に落ちるので、ラブシーンは当然ありますってことです」

「最後の一言、余計だったんだけど」

「なんならこれ終わった後に見てみます?」

「……ホラー映画は無理」

「なんですか、その可愛い設定」


 ふ、っと笑った松隆の顔が予想外に──それこそ可愛くて、息を呑んでしまった。それこそ、紘と茉莉の話なんて忘れてしまうほど。


「まあ先輩、あんまり大宮先輩のことを甘やかしすぎないほうがいいですよ」

「……別に、甘やかしてるわけじゃないけどさ」

「部屋に2人の男女なんて、どうなるか分かんないんですから」

「……片方に彼女がいても?」

「女性の先輩にこんなことを言うのは気が引けますけど、男は基本的に隙あらばヤりたい生き物ですから」


 ……CMが終わったのに、映画の内容は頭に入ってこなかった。


「……松隆、率直な意見を聞きたいんだけど」

「なんですか」

「……二股ってかけれる?」

「……僕がですか?」


 もう松隆も映画を見ていなかった。ただ少し困ったように笑う。


「僕はまあ、無理ですね。そんなに器用じゃないです」

「……器用そうだけどな」

「同時に2人以上を好きになるっていうのが、あんまり想像できないですね」

「……そういえば、松隆の初恋っていつなの」

「……中学生のときですよ」

「……なんで別れたの?」

「付き合ってませんよ」

「え、なんで」


 でもそうか、中学生ってまだ付き合う付き合わないの観念がはっきりしないことも多いか……。後輩と思えないほどしっかりした松隆がそんな感じだったとは想像できないけれど。


「なんでもなにも、告白する前に失恋しました」

「はあ?」


 想像と180度違う回答に、素っ頓狂な声が出てしまった。だって、相手はこの松隆だ。有り得ないくらい整った美形で、きっと中学生の頃から大人びた性格で、他の有象無象みたいな男子とは一線を画していたに違いないのに。


「なんで?」

「なんでって言われても。というか、僕が知りたいですね」

「ごめん、それはそうだわ」

「納得されると腹が立ちますけど」溜息交じりに、松隆は頬杖をついて「中学のとき、クラスにいた子だったんですけど。大人しくて、いつも教室の隅っこで本を読んでるような子でした。うちのクラスは、どっちかいうとうるさい女子が多かったんで、まあ、今覚えば、一風変わった物静かなところというか、そういうところが好きだったんだと思います」

「……それで? 告白する前に失恋したって?」

「バレンタインに、その子が告白したのを見ちゃったんですよ。よりによって親友に」

「うわ……」


 途端にこの完璧な王子様が可哀想に思えてきた。


「それ、仲悪くならなかった?」

「親友とですか? それは別に……。まあ、中学生の初恋ですしね。ぼんやりと好きかもしれないなあと思ってたら、自分じゃない相手に告白してるのを見て、好きだったんだって気付いたら終わってた、みたいな感じです。親友も、その子と付き合ったわけじゃありませんでしたしね」

「……松隆の顔なら恋愛になんの苦労もないんだとばかり思ってた。なんかごめんね」

「言ったでしょ、僕は結構健気ですよって」


 確かにそうかもしれない。反省した。


「まあ、ついでに話すと、次に好きになった人には告白してもフラれました。それはもうあっさり」

「……松隆ってもしかして恋愛運ない人?」

「そうかもしれませんね。そういう先輩は?」


 矛先が自分に向いていると気づいたのか、話題を変えられてしまった。


「大宮先輩と、なんで付き合ったんですか?」

「なんでって……」


 たまたま、英語のクラスが同じで。最初の授業が自己紹介だったから、授業丸1回分、互いのことを話すと、なんだか打ち解けたような気持ちになってしまって。その後、たまたま入ったサークルも同じで。


「……それこそ、タイミングかな」


 恋愛はタイミングだという、前回の松隆の言葉を思い出した。


「授業とかサークルが一緒だったから、自然に仲良くなったみたいな」

「まあ、ありがちですね」


 そして、実は、その言葉を聞いて以来、怖かったことがある。


「……紘は、茉莉とタイミングが合わなかっただけなのかな」


 私が、うっかり、紘を好きになってしまったがばっかりに、紘は茉莉を好きになるタイミングを逃してしまったのではないかということ。


「……なんですか、急に」

「……紘って、男子校出身じゃん」

「らしいですね」

「……男子校出身だと、目が合った女子を好きになるっていうじゃん?」

「まあ、それはさすがに大げさですけど、その揶揄やゆは正しいんじゃないかと思います。思春期に女子がいない環境で育つわけですからね、話しやすい女子を好きになりがちというのは有り得そうです」


 僕は共学なので分かりませんが、と。


「……私が、紘を好きになったんだよね」


 口に出すと、私だけが一方的に紘を好きになってしまっていただけのように聞こえて、怖くなった。でもそれは事実かもしれない。


「私が……、紘を好きで。紘は、別に、私のことをなんとも思ってなかった。それが、男子校出身だったから、手近で手軽な私を……好きだと思ったか、好きだと勘違いしたのか、分からないけど」

「……先輩が大宮先輩のことを好きにならなければ、大宮先輩は先輩じゃなくて富野先輩と付き合ってたかもしれないって?」

「……なんでそんなはっきり口に出すの」

「仮定の話でしょ」


 松隆は、胡坐をやめて片膝を立て、ベッドに背を預けた。後輩にしては横柄な態度のせいで、まるで同期の男に見えた。彼氏の浮気まがいの行動を咎める勇気を持つことのできない、そんなどうしようもない女の愚痴を聞く、ただの男。


「そんなの、いくら想像したって、分かりませんよ。大宮先輩にはっきり聞かない限り。聞いても、分からないかもしれませんけど」

「……聞けるわけないし、聞いても分からない可能性があるなら、そんなのハイリスクローリターンでしょ」

「だから、僕がこの間の提案をしたんでしょ?」


 その、男の右手が、私の左手に重なった。


 ……かさな、った……? 感触だけでは理解が追い付かなかったけれど、目で確認すると現実を理解できた。驚いて逃げようとして、そのまま手首を押さえられた。ガタッと机が揺れる。拍子にテーブルの上のお菓子がガサッと音を立てた。でも、どうせ背中はベッドだ、後ずさるなんてできやしない。


「だから言ったでしょ、先輩。部屋で2人の男女なんて、どうなるか分からないんだって」


 ブツッ──とテレビの電源が切れた。松隆が空いている手でリモコンを操作したのが、視界の隅に映った。


「え、いや……でもそれは……」

「後輩でも同じです。性別に“後輩”なんて分類はありませんよ」


 ゆっくりと、松隆が姿勢を変えた。松隆の膝が、ロングスカートの上から私の膝の間に降りる。ドクッと心臓が跳ねた。


「なんなら、油断してるぶん、付け込みやすいかもしれませんね?」


 身動きをとれなくなった私の体と、抱き合ってしまいそうなほど。体の熱を感じてしまえそうなほど近くにいる後輩に、言葉を失った。


 その後輩の笑みは、あの夜と同じ。心臓が早鐘はやがねを打ち始めた。


「上下関係が通用するのは、部活とサークルだけです。部屋に2人でいたら、先輩も後輩もないですよ」


 この心臓の音は、松隆にも聞こえているのだろうか? そう考えてしまった瞬間、カッと顔に熱が上った。だめだ、心臓は止まれ、顔の熱は逃げろ──。


「相手に彼氏彼女がいてもいなくても関係ない。大学生ですよ? 本当に、何も起こらないと思います?」

「……松隆は、そんなこと……」

「しないと思います?」


 この、顔だけで女をたぶらかしてきた自分が? そう聞こえてきそうなせせら笑いに、ぎゅっと心臓を掴まれた。


「……しない、でしょ」


 それでも、これがただのはったりであるという確信が──信頼があった。松隆は、彼氏がいる女に手を出すようないい加減な男じゃない。私と松隆が、先輩と後輩として築いてきた信頼関係は生半可なものじゃないという自信がある。仮に、今までの松隆の行動がすべてこの瞬間のための布石だったとしても、ここで私に手を出すことに得がない。松隆は、そんな得のないことをするほど馬鹿じゃない。


「こうしてるのだって、ただのはったりでしょ」


 松隆の目が細くなる。なにを言うか考えているのは分かったけれど、その感情までは分からなかった。


「……まあ、これはブラフですが」


 ──分かってはいても、松隆の口から直接聞いた瞬間、ほっと一瞬で安堵あんどした自分がいた。


「どっちかいうと言いたかったのは、これが大宮先輩と富野先輩に起こっていないとなぜ思えるんですかってことですね」


 が、そのセリフに安堵は掻き消され、それどころか、対象を変えた焦燥しょうそう感がいてくる。


「だ……、って、茉莉の、性格なら……」


 きっと私は、泣き出しそうな顔をしてしまったのだと思う。


「逆に、何も言えないとは思わないんですか?」


 それでも、松隆が追撃の手を緩める気配はなかった。


 でも、いくら言われたって、そんなはずない。茉莉なら、絶対に拒絶するし、紘だって、拒絶されてまで無理強いする人じゃない。そんなことは分かってる。


「聞くことを変えましょうか」


 言いながら、松隆の手に力が籠った。ドクッと、心臓が再び大きく跳ねる。


「部屋に2人でいて、お互いを異性として全く意識しないと思います?」


 ……そんなこと、言われなくなって分かってる。だから、私は、紘が茉莉と一緒にいるのを見るたびに、その回数を重ねるたびに、不安を募らせた。


「ザイオンス効果、または単純接触効果。知ってます?」


 ……知っている。簡単にいえば、相手に接触する回数に比例して好感度もまた上がるというものだ。つまり、恋愛に引き直せば、好きな相手とは、1回長時間会うよりも、短時間でもいいから複数回会うほうがよいということになる。なお、好感度はある一定の高さまで上がると、それまで通りに比例的に上がり続けるとはいえない、らしい。


 つまり、何度も会ううちに、相手に対する好感度は上がっていく。その中で、互いを異性として意識してしまう状況があったら、どうだろう?


「……やめてよ」

「そうやって目を逸らすから、大宮先輩に何も言えないんでしょ」

「言ったって紘はどうせ──」

「どうせやめてくれない。決定的な浮気でなければいいと思ってるんでしょうね、大宮先輩は」


 言葉尻を拾われて、押し黙った。しかも、その指摘は正しい。


「……紘は、茉莉と付き合いたいのかな」

「さあ、それは僕には分からないことですけど。少なくとも、僕に先輩をとられると思ったら、少しは焦るんじゃないですかね」


 いまは、先輩に甘えきってるから──。


 そう聞こえてきそうな声音を聞いて、ぐっと唇を引き結んだ。後輩の手の中で、自分の手を握りしめる。


「……松隆」

「なんですか」


 口車に乗せられた。自暴自棄になった。八つ当たりをしてやろうと思った。自分の中に沸いた感情はそのどれとも言い難かったけれど、ただ一つの決意だけが固まった。


「……協力して。私にとっての茉莉が、紘にとっての松隆になるように」

「……もちろん」


 手と手が重なり合った、ゼロ距離。後輩は、不敵な笑みで私を見下ろす。


「最初に話したでしょう。何かあったら、力になりますよってね」


 その一言を最後に「映画の続きを見ましょうか」と松隆は私から離れた。名残惜しさなど1ミリもなく手は離れ、まるでなにごともなかったかのように、松隆はリモコンに手を伸ばす。


 私は自分の手を見た。強く掴まれていたせいで白くなっていて、徐々に赤みを取り戻しているところだった。


 頬に触れると、顔はまだ熱かった。胸に触れると、心臓はまだうるさかった。


 でも、それだけだ。私は、松隆を男として見たわけじゃない。あの日、松隆の家に行ったときと同じ、急に男だと意識してしまって、驚いただけだ。その驚きが、男らしさへのときめきと表裏一体だっただけだ。


 だから、大丈夫。私は松隆のことを異性としては見ていないし、これからもそうはならない。松隆も、ただ仲の良い先輩に、遊び半分で協力してくれるだけだ。


 だから、大丈夫。松隆の横顔を見ながら、そう、自分に言い聞かせた。

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