第10話 「彼女」のポジションで考えることじゃない

 土曜日の夕方、ラケットを片付けていると「ゆきはー」と珍しく紘の声が聞こえた。みんながいる前では私に声なんてかけないのに、そう驚きながら振り返ると、紘もラケットを片付けているところで「飯食って帰ろ」と顔だけ向けながら言ってきた。


「……いいけど。どうしたの急に」


 まさか昨日松隆を家にあげたのがバレて早速別れ話──なんて一瞬イヤな予感がしたけれど「なんか久しぶりにハンバーグ食いたくなって」という答えが返ってきたので、ほっと胸を撫で下ろす。ついでに、ハンバーグと言われて、頭には真っ先に農学部グラウンドの裏のお店が浮かんだ。


「分かった、ちょっと待って」

「ん」


 ラケットケースを肩にかけながら、紘と最後に2人でご飯を食べたのっていつだっけ、なんて、ついつい考えてしまう。松隆と仲良すぎるんじゃないのって言われた日以来だから、2週間前か……。LINEはしていたとはいえ、同じ大学のカップルってこんなもんなのかな。少し素っ気ないような気もするけど、サークルで2日に1回は顔を合わせているし、3人以上で話すことはいくらでもあるし、たまたま夕飯を食べるタイミングがなかっただけだ。うんうん、と自分に言い聞かせる。


「お先に失礼しまーす」

「お疲れ様ですー」


 紘と揃って挨拶をすると、振り向いたメンバーの中にいた松隆と目が合った。次いでその口角が意味ありげに吊り上がる。


『浮気じゃない程度に、仲良くやりましょう』


 あのセリフが脳裏によみがえってしまい、慌てて顔ごと目を背けた。紘の隣を歩きながら「ご飯食べるの久しぶりじゃない?」「そうか? そうか」と意識を紘に向ける。


「今さあ、木曜にオムニバス形式の授業入ってるんだけど」

「この間言ってた、芸能人とのツーショット写真が1回目の授業だったやつ?」

「そうそれ。最初はなんだこの授業、オッサンの自慢話かよって思ったんだけど、今日の授業は意外と経済の話になってさ──」


 久しぶりに2人で歩く私達の話題は、面白かった授業の小話。


「この間、馬口まぐちが同心社の子をデートに誘ったんだって」

「あの馬口が? 同心社なんてそもそも知り合わないだろ」

「ほら、馬口ってもう一個、インカレに入ってるじゃん。そこで知り合ったらしいんだけど、デートの報告会みたいなことしてたら、実は理学部の先輩の元カノって発覚したらしくて」


 サークルのメンバーのちょっとした失敗談。


「ジャンプで新しく始まった連載、読んでる? 『ブラック・マジック』ってやつ」

「あー、読んでる。ダークヒーローものでしょ? 結構好き」

「マジ? あれ、ジャンプらしくなくない? どうせすぐ打ち切りだと思うんだけどなあ」


 最近新しく気になった漫画の紹介。


 夕食を食べに行く間も、食べている間も、いつもどおりの会話で、違和感はなかった。松隆絡みのいさかいなんて忘れてしまったか、もとからなかったかのように。


 ……実際、あの日は沙那に煽られただけで、紘はあんまり気にしてなかったのかな。


 沙那のする話なんて、大抵は針小しんしょう棒大ぼうだいだし、それでもって話を聞く側も乗せられてしまうし、「生葉、あわよくばイケメンの後輩を狙ってるんじゃない」くらい言ったのかもしれない(ここまでくれば、もはや悪意があるけれど)。


 紘と茉莉の関係はともかくとして、松隆との関係をとやかく言われてもあんまり気にすることはなかったかもな──。そう考えると、少しだけ気分は軽くなった。


 ただ、私が松隆とのあの話に乗ったのは事実だし、それを撤回するつもりにはなれなかった。


 夕食を食べ終えて席を立つ前、ふと見たスマホには『TeiKyu Club:きたやま 打ち上げの出欠、今日中でお願いしまーす』というグループメッセージが表示されていた。


「紘、飲み会の出欠、連絡入れた?」

「あー、なんだっけ、それ」

「学祭の打ち上げだよ。っていうか、紘、学祭来るの?」

「いや、俺はサッカーのほうに顔出すから。生葉は手伝うんだっけ」

「んー、ちょっとだけね。客引きくらいはしようかなって」


 お店を出た後、私達はごく自然に私と同じ方向に歩き出す。


「なんかアイス食べたくない?」

「食いたい。コンビニ寄って帰ろ」


 家の近くのコンビニで「抹茶の気分」「私はチョコ。あー、いつものチョコバーがない」「この板チョコのやつは?」なんて他愛ない話をして、私の家に入りながら、紘が「ただいまー」と自分の家のように振る舞う。


 私達のやりとりは、はたから見ていたら、面白さも何もない平淡な会話だ。楽しそうかどうかでいえば、きっと、後輩の山科と喋っているほうがよっぽど楽しく聞こえる。


 みどりからは「夫婦みたいに落ち着いてていいね」と言われたことがあるし、年齢相応か、それ以上に落ち着いた関係が少し誇らしく思えていた頃もあった。でも、紘が茉莉と仲良くなって以来、その言葉は不安に変わった。


 紘にとって、私の存在が当たり前すぎて、他の異性と一緒にいるほうが楽しく思えるんじゃないだろうか、と。


「生葉、明日ひま?」


 そんなことを考えながら、アイスを食べるべくスプーンを持ってきた私に、紘が不意にスマホを見せた。スマホに映っているのは『八城やしろここのの事件簿:case1』というタイトルが斜めに入ったウェブページ。『八城九の事件簿』というのは、紘が私に勧めてくれた推理小説で、去年の夏にアニメ化されていた。


「なに? 八城九シリーズ、映画やるの?」

「そう。脚本は忍名おしな竜胆りんどうじゃないけど、一応、監修についてる」


 忍名竜胆は、言わずもがな『八城九の事件簿』の作者の名前だ。


「case1からcase3まで、ショートフィルムやるんだってさ」私の手から抹茶アイスを受け取りながら「case2の上映が来週から始まるから、忘れないうちにcase1見ようと思って。行かね?」


 私の存在が当たり前すぎて、他の異性と一緒にいるほうが楽しく思えるんじゃないだろうか──。


「行く」


 そんな不安が吹き飛んで、思わず食い気味に返事をしてしまった。私の気なんて知らない紘は「そんな見たかったの」なんて笑っている。だって、最近の紘は、何をするにも茉莉と、そうじゃなければ茉莉と沙那とセットだったから。でも八城九シリーズの映画には私が誘われた。茉莉じゃなくて、私。


 あ、こんなこと考えてるなんて、私、醜いな──。自分を呪うと同時に自嘲する。


 よかった、私が誘われた、なんて、「彼女」のポジションで考えることじゃない。たとえるなら、本当は自分が1番だなんて信じている愛人の考えることだ。


「何時から?」


 感情と思考を必死におさえながら、平静を装ってデートの話を続ける。


「午前午後どっちがいい?」

「午後じゃない? 午前って大体10時半とかからだし、河原町まで行くのに20分くらいって考えるとちょっと慌ただしい」

「じゃあ昼食べてから行くか。13時10分の回、これは?」

「おっけー。あ、この間ポイントカード作ったから、チケットとっとく」

「さんきゅ」


 アイスをかじりながら、スマホ片手に映画館のホームページにアクセスする。紘と映画を見に行くなんて、いつ以来だろう。そもそも、最後にデートしたのはいつだっけ、なんて頭の中にカレンダーを思い浮かべたけれど、後期に入ってからは初デートかもしれない。夏休みの間は、私と紘が入れ違いに帰省したり、紘がサッカーの合宿でいなかったりとあまりまとまった時間はなかったから。


 そしてなにより、紘が茉莉と今みたいに仲良くなったきっかけは、サークルの夏合宿だったから──。脳裏には、夏合宿で借りた宿の宴会場の光景が浮かぶ。畳の部屋で、4、5人ずつのグループに分かれて、みんなで好き勝手に駄弁だべっていたとき、紘と茉莉と、武田と沙那とがひとつのグループになっていて──。


 思い出している途中、ぽすっと、背後から抱きしめられた。抱きしめられたというか、紘の体の中に私の体が収まった。もうすっかり慣れたものだから、胸がどきどきすることはない。


 ただ、その行為のせいで、脳裏の光景は一瞬で刷新さっしんされ、昨日、私の部屋にいた松隆の姿が浮かんだ。私に覆いかぶさるように手と膝をつき、怪しい笑みで私を見下ろす後輩の姿が、写真のようにはっきりと浮かぶ。あまりにも生々しい光景に、心なしか脈が速くなった。


 紘は、そんな私の動揺に気が付かず、ただ甘えるように私の肩に頭を乗せる。


「……どうしたの?」


 なんとか絞り出した声は、辛うじて震えていなかった。


「んー、なんかデートするの久しぶりだなと思って」

「だよね、私も思ってた」頭の中に残っていた光景を振り払おうとするように口を動かして「夏休み、あんまり出かけなかったもんね」

「帰省して合宿2回行ってサークル行ってバイトしてたら終わったからなあ」

「お陰でまだ全然京都に詳しくなってない。この間、お母さんから、そろそろ京都の案内できるようになった? って言われたんだけど、結局清水寺と二条城くらいしか行ってないもん」


 大学は4年間あるからいいか、なんて思っているうちに2回生の秋を迎えてしまった。紅葉くらいは見たいなと思っていたけれど、ただでさえ人が多いのに、紅葉の時期になれば身動きが取れないほどになると考えると、なかなか腰を上げる気にはなれない。


「映画見たあと、どっか行く? まだ紅葉には早いか」

「まだ早いね。紅葉はまた今度かな」

「観光客が多いんだよなあ」


 私の肩の上で、紘は溜息を吐いた。あまりデートらしいデートをしていない理由は、私も紘も出不精でぶしょうで、まあ部屋でのんびり映画を見るのでもいいか、と思ってしまうから。付き合ったばかりの頃は浮かれてあちこち行ったけど、半年も経てば、そこまでの浮ついた気持ちはなくなる。


 背後の紘が頭を上げ、私を少し振り向かせてキスをする。


 紘と夕飯を食べたのは2週間ぶり。紘が家に来たのは1週間ぶり。当然のように、キスは1週間ぶり。


「……紘、お風呂は?」

「……後で」


 浮気がどうのこうのと検索しているときに「手をつなぐと相手が浮気をしているかどうかが分かる」なんて迷信じみた記事があった。でも、もしそれが本当なら、私も紘と手をつなげば、紘が浮気しているのか分かるのだろうか。


 キスをしながら、ゆっくりと紘の手の位置を探って、指先で触れる。待っていたかのように、紘は指先を絡める。でも、私がしたかったのは手のひらと手のひらを合わせることだ。指先なんて、どうでもいい。でも座ったままの体勢では無理がある。


 仕方なく、手をつなぐことは諦めた。ベッドに放り投げられた後、服を脱がされながら、脱がしながら、紘の背中に腕を回して、キスの続きをする。


 なんでキスの最中は目を閉じるんだろう。キスをしながら、そんなことを考えてしまった。決まったルールがあるわけでもないのに、なんで私達が想像するキスシーンではみんな目を閉じるんだろう。なんで私もそうしているんだろう。


 キスの合間、下着を脱がされるとき、目を開けた。キスをしてないのに目を閉じておくのは、なんだか間抜けな気がした。実際、普段も目を開けていたと思う。


 ……なんで、私、紘とセックスができるんだろう。松隆とあんな話をしてから24時間経っていないのに。紘は私じゃなくて茉莉が好きなんじゃないかって思ってるのに。紘がシャツを脱ぎ捨てたあそこに、松隆が座っていたのに。


 紘に身を任せているのに、どうして私は、ずっとこんなことを考えているんだろう。普段、セックスのときって何を考えてたっけ。そもそも何か考えてたっけ。考えながらセックスってできるものなんだっけ。そういえば、男性と違って、女性はセックスの間も冷静だって聞いたことがあったな。それにしたって冷静過ぎる。私ってサイコなのかな。


 あれやこれや考えていたせいもあってか、セックスは作業か義務のようだった。「したい」とは思えなかったけど、かといって拒む理由は思いつかなかった。しいていうなら「気分じゃない」くらいの曖昧あいまい我儘わがままな感情以外に理由はなかった。でも恋人とセックスをする「気分じゃない」なんて、まるで相手への恋愛感情を失ってしまったかのようで口には出せなかったし、そうだとしたらそれを認めたくもなかった。


 その作業か義務か分からない行為を終えた後、布団を口の当たりまで引っ張りながら、隣の紘を見た。いつものように、枕に顔を埋めてすんやりと寝息を立てている。何も言わなかったから、きっと何も思わなかったんだろう。そう思って、天井に視線を戻した。


 私と紘が付き合ったのは、今年の1月。いまは、付き合って9ヶ月と少し。もうすぐ10ヶ月を迎える。


 1年を迎えるのは、今年の冬休みが終わった後。私達は、ちゃんと1年を迎えられるのだろうか、なんて紘の隣で考える。

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