第16話 私のことを好きなんて、言わないよね?


 いつものサラサラ黒髪ロングは、今日はポニーテール。服装はいつもと同じカジュアル系。でもバッグはいつも見かける小さなバッグではなくて財布バッグ。


 そしてその恰好の茉莉の横にいたのは……、紘ではなくて、知らない男子だった。


「おつかれさま……」

「お疲れ様でーす」


 売上に貢献しに来たかのように、茉莉はその男子と一緒にタピオカのメニューを指差して「なに飲む?」「タピオカって一種類しかないんだと思ってた」と話している。


 黒い髪に黒縁眼鏡。グレーの迷彩っぽいティシャツにネイビーのジャケットを羽織り、ただの黒いスラックスをはいている。しゃれっ気のない、どこにでもいそうな人だった。


 なんとなく、お兄さんではなさそうだ。弟には……見えない。茉莉は他にもサークルに入っているから、そっちの知り合いだろうか。経済学部の知り合いなら紘も一緒にいるはずだし……。高校の同級生とか? それにしたって、2人で来るのは……。


「え、つか富野さん、それどちら様ですか?」


 私が気にしていたことを、山科はこともなげに、しかもなんの含みもなさそうなトーンで尋ねる。


 茉莉は「あー、こちらですね」と、えへへとでも聞こえてきそうな様子で。


「数日前から付き合ってる彼氏でございます」

「え!」


 ──彼氏、だと。


「え、マジすか!?」

「ちょっと待って待って!? 聞いてない!」


 わっ、とタピオカ販売そっちのけで屋台の中にいたメンバーが一斉に顔と意識を向けた。私だって思わず声が出た。


 あまりのリアクションの大きさに、茉莉の──彼氏は少し照れくさそうな顔で「あ、どうも……とか言ったほうがいいのかな」と頭の後ろに手を当ててみせ、茉莉もはにかみながら「いやあ、みんな、学祭準備で忙しそうでしたので」と同じ仕草をする。


「え、そもそも誰すか? 2回生すか?」

「あー、えっと、彼は神戸の経営の2回生で」

「高校の同級生なんです」


 ……高校の同級生。同い年。他大学。


「えー、マジすか」

「じゃあ高校の時から仲良かった感じ?」

「まあ、そんな感じで。夏に帰省したときに久しぶりに会ってって感じで、以来、ちょくちょくと」

「教えてくれればよかったのに」

「どうなるか分からないから、ちょっと言えなくて」

「うちのサークルの二大美人が1人彼氏持ちかー」

「いやいや、みどりちゃんのほうが断然可愛いから、私なんて」


 屋台の中にいる人達が口々に話すのを、まるでテレビの中の出来事のように見ていた。


 茉莉に彼氏ができた。顔は普通だし、背も平均くらいだろうし、体だって少し細いし、ひょろりなんて印象を受ける。紘のほうが背も高いし、いわゆる細マッチョだし、顔だってハンサムだ。大学だって、うちのほうがずっといい。高校だって、茉莉の高校は知らないけれど、県内トップクラスの男子校を出ている紘のほうがいいだろう。服のセンスだって、紘のほうがいい。


 きっと、なにもかも、紘のほうがいい。もしかしたら彼女の欲目なのかもしれない。でも、少なくとも客観的なステータスは──世の女性が列挙する条件のようなものは──紘のほうが高い、はずだ。


 大体、高校生のときから仲が良いっていったって、この間の夏休みまで疎遠そえんにしていたかのような口ぶりだった。それなら、紘と条件は変わらない。紘だって、この間の夏合宿で茉莉と仲良くなったんだから。


 それなのに、紘は茉莉に選ばれなかった──……。その事実に、どうしてか、私が立ち尽くしてしまった。


「先輩、ぜんざいおごってください」


 呆然自失とした私を現実に引き戻すように、松隆の声と腕に体が引っ張られた。「わっ」なんて間抜けな声と一緒に蹈鞴たたらを踏み、後ろ向きのままどんどん連れていかれる。視界に映る茉莉と、名前も知らない茉莉の彼氏がどんどん小さくなっていく。


「先輩、財布持ってます?」

「……セリフだけ聞くとやばいね」


 畳みかけて来る声が、私の意識を揺らす。向き直って歩き出したけれど、松隆はぜんざいを探しているらしくて私を見なかった。


「……ちなみに財布は持ってません」

「なんだ」

「なんだとはなんだ」

「仕方のない先輩ですね」

「本当に私の事をなんだと」


 自分でも分かるくらいの空元気だった。


 でも、なんで私が空元気なんだろう。別に私がフラれたわけじゃないのに。……別に、紘だってフラれたかどうかなんて分からない。紘が茉莉を好きかどうかなんて、分からないんだから。なんなら、もし、紘が茉莉を好きだったとしたら、邪魔者が消えたということになる。ショックを受けるどころか、本来はその逆だ。それなのに、なぜ──。


「で、先輩、ぜんざい食べます?」


 ……別に、お腹が空いているわけではなかったし、甘いものを食べたい気分でもなかった。


「……松隆が食べるんなら一口ちょうだいよ」

「そのつもりで聞きました。すみません、1つください」


 いつの間にか、松隆が目当てにしていたぜんざいの屋台の前に来ていて、松隆がひとつ注文した。屋台の中で、タオルを頭に巻いた男子が「はいよー」と軽い返事をする。


「つか、カップルなら手で・・繋げば50円引きっすよー。どうすか?」


 ……手を繋げばではなく、手で? 妙な言葉選びに眉をひそめて──自分の手首がずっと松隆に掴まれていたことに気が付いた。


「えっ」

「先輩、手」

「え、いや、それはちょっと」


 手と手を繋ぐのは、マズイのでは──。狼狽えた私を無視して、松隆の手のひらは──軍服コスプレの手袋越しに、私の手のひらに落ちてくる。布越しの手に、ドクリと心臓が変に鼓動した。


「松隆っ」


 慌てて顔を見ても「いいでしょ。僕の50円なんだから」と知らん顔だ。


「そんな顔して守銭奴しゅせんどか! そうじゃなくて──」


 だったら50円は払うから。いや、そうじゃなくて。


「で、いいですか?」

「めっちゃ怪しいな思いましたけど、いいですよ。そういう売りやし」


 笑いながら私達をカップルと認めたタオル頭の男子が、ボウル型の紙皿に入ったぜんざいを差し出す。松隆は右手でそれを受け取った。


「あ、先輩、スプーン貰って」

「……松隆なんかぜんざいに溺れて息ができなくなればいい」

「なんですかそれ」


 ああ、なんだか、今日はマズイことばかりしている気がする。松隆の手から自分の手を引き抜いて、そのまま額を押さえてしまいそうになり──やめた。松隆に握られた手は後ろに隠した。


「……まあ、面食らうのは分かりますけど」


 そんな不審な挙動をとり、俯き加減に歩く私を、松隆は呆れた顔で振り返った。


「結構、意外でしたからね。富野先輩に突然彼氏ができるのは」

「……意外かな」

「意外でしょ。あの人、男に興味なさそうだし」

「……そう?」

「少なくとも僕にはそう見えました」


 ……そうだとしたら、紘が茉莉を好きなのではないかと、散々疑っていた自分はなんだったのだろう。とんだピエロじゃないか。


「……ただの、友達だったのかな」

「少なくとも富野先輩にとっては、です」


 おまつり広場の隅っこで、松隆は私に手を差し出した。なんだと思ったら「スプーンくださいよ」と。屋台で貰ったプラスチック製のスプーンを差し出す。松隆はスプーンでぜんざいをほぐすようにしながら「ちょっと熱そう」と呟いた。


「まあ、でもよかったんじゃないですか」

「……なにが?」

「大宮先輩がどうかは別として、富野先輩は彼氏持ちで浮気するような人じゃないでしょ」

「……浮気……」


 そうだ、そういえば、茉莉はあの彼氏と夏休みに帰省してから距離を縮めたと話していた。それなら、少なくともこの11月に入る頃には、おそらくあの彼氏のことが好きだったはずだ。それなのに、この間は紘と2人で映画に行っていた……。


「……天秤てんびんにかけたってことなのかな」

「富野先輩が、あの彼氏と大宮先輩とをです? さあ、どうでしょうね」松隆はぜんざいを口に運びながら「富野先輩にそのつもりはなかったんじゃないですか? あの性格ですし、富野先輩の中では大宮先輩は友達だし、生葉先輩は大宮先輩と出かけても気にしないだろうくらいにしか思っていなかったんじゃないですかね」


 ……それは、そうなのかもしれない。茉莉は、人の彼氏をとろうとするような子じゃない。それは誰もが口を揃えて保証するだろう。


「ま、大宮先輩が富野先輩をどう思っていたかは、知りませんけどね」

「……いじわる言うじゃん、松隆」

「好きだと断定しなかっただけ優しいでしょ」


 深く、息を吸って、吐いた。ほんの少し、動悸どうきがしていた。


 紘は、茉莉を好きだったのだろうか。私と付き合っているけれど、私とデートをするけれど、私とセックスをするけれど。今更紘に聞いても、返ってくる答えはノーに決まっているし、今となっては聞くだけ損な話だった。


「……松隆。恋ってなんだと思う」

いといとしと言う心じゃないですかね」

「トンチやってるんじゃなくて真面目に聞いてるんだよ、私は」


 戀という字を分析すれば、いといとしと言う心──都都逸どどいつなんて久しぶりに思い出した。確か、中学生の頃に、塾で使っていた国語のテキストで読んだのだ。あのときは「へえ、上手くできてる」くらいにしか思わなかったけれど。


「……その愛し・・の意味が、肝心でしょ」


 囁くように嘆いてみたけれど、松隆は「別に、意味なんてどうでもいいんじゃないですか」と風情ふぜいもへったくれもない。


 女と違って、男はそんなものだろうか。愛だの恋だのに頭を抱えて悩んで時間を費やすのは女だけなのだろうか。よく聞くように、男には生殖本能があるから、相手を1人に絞ることが例外なのだろうか。烏間先輩みたいな人は珍しくて、紘は男として非常にスタンダードなのだろうか。


「……松隆がいないときに、北大路先輩と話したんだけどさ。浮気っていうことによって何を弾劾したいのかって言われちゃった」

「まあ、北大路先輩らしいといえばらしいですね」

「別に結婚してるわけでもないんだから責任もないし……。好きな相手が1人でないならば恋ではない、なんて命題はないしね」


 なんだか疲れてしまって、深い溜息を吐いた。


「それでも、大抵は1人じゃないですかね」

「なんで?」

「大抵の人間は一気に2人も好きになるほど器用じゃないし、そんな熱量もないんじゃないですか」

「……熱量ってなに」

「恋情なんて、1人に注いだら他の誰かに注ぐ力は残らないでしょ」


 そう言われると、紘が私に注いでいた恋情は1以下だったのかな。そんなことを思って笑ってしまった。


「……先輩、50円ぶん食べます?」

「……ブルジョワかと思ったらプロレタリアだった」

「分かりにくいツッコミはウケませんよ」


 差し出されたボウル型の紙皿を両手に抱えて、スプーンは使わずに汁ものを飲むように食べた。


「……甘い」

「僕が先輩にですか?」

「……ツッコミ入れる元気もないわ」


 たった200円のぜんざいのお陰で少しだけ温まった息をそっと吐きだした。


「……明日、紘と学祭まわる予定だったんだけどな」

「別にいいじゃないですか、まわれば」

「……どういう顔しようかと思って」

「どういう顔もなにも」松隆はぜんざいを受け取りながら鼻で笑って「サークルの友達に彼氏ができたことは、先輩達カップルには何の関係もないことじゃないですか」


 それは、そうなのだ。むしろ、楽観的になってしまえば、雨降って地固まるなんて言えそうな気さえする。


「まあ、もし先輩が大宮先輩と別れるというのならまた話は別ですが」

「……私が紘と別れる?」


 反芻はんすうした自分の声が、有り得ない選択を語っているように聞こえてびっくりした。確かに、紘と別れるなんて選択はできないのかもしれないと思っていたし、そう松隆に話していたけれど、いまの自分の不可解な感情をもってしてもそう思えているなんて。


「別れてフリーになった大宮先輩の動きは、別れるまでの大宮先輩の心情を推察するひとつの要素になるのでは?」

「……そんなことしたって」


 そんなことをして紘の感情や心が分かったところで意味がない、と返事をしようとして、既視感を覚えた。そういえば、この間松隆と映画を見た日の帰りにも、似たような話をした。私は、紘の浮気を突き止めて何をしたいんだろう。別れる理由を探しているわけでもないのに。


「……そんなことしたって、別れてしまったら意味がない、ですか?」


 ……軍人コスプレの薄ら笑いというのは、どうにも不気味に見える。片手に持ったぜんざいの間抜けさは、その不気味さを相殺するには足りない。


「……まるで、別れないなんてどうかしてるとでも言いたげじゃん。私と紘に別れてほしいの?」

「いえ、別に、別れてほしいというわけではないですけど」


 なんだ、そういうわけじゃないのか──。ストンとその感想が胸に落ちた。気がした。


「別れないなんてどうかしてるとは思いますよ。大宮先輩と付き合ってる理由が理解できない」

「……今日の松隆は言葉が強いなあ」


 お尻を地面につけないように気を付けながら屈みこんで、膝の上に両肘をついた。両手で自分の頭を支えるようにして、瞑目し、ほんの少し首を傾げる。


「付き合ってる理由なんて、“好き”だけじゃだめなの?」

「聞き方が間違ってました。大宮先輩のどこが好きなんですか?」


 恋人の好きなところを列挙できるのであれば、それは、同一の条件を満たす別の相手で代替可能である。そう言ったのは、誰だったか。


 でも、好きな人の好きなところと、その人を好きである理由とは全く別のものだ。


「……笑ったところとか、照れ隠しをしちゃうところとか、言葉は強いくせにお人好しなところとか……、そういうところが……好きなんだよ」


 それなのに、どうして私はいま、一瞬、止まってしまったのだろう。


「……そうですか」

「……満足ですか?」

「ええ、まあ、良くも悪くも予想の範囲内でした」


 良くも悪くも──。私が紘のどこを好きだといったって、それが松隆にとって関係のないことで、良いだの悪いだの評価されることはない──はず。


 不意に、その・・可能性・・・に思い至って、体に妙な震えが走った。後輩の前だというのに、今の今まで自分のことばかりで、その・・可能性・・・を頭ごなしに、無条件に排斥はいせきしていたことに気が付いてしまって、恥ずかしくなるとともに動揺した。手袋越しで伝わりもしなかったのに、松隆の熱が指に残っている気がした。慌てて膝の上で腕を組み、手を腕の下に隠した。


 いまのたった一言に、私と松隆の関係に小さなほころびを作られた気がした。


「……良くも悪くもって、なに?」


 口先では、その・・可能性・・・に気が付かないふりをした。


「別に、深い意味はないですよ」


 浅いも深いもない、意味があることに意味があるのに。


「まあ、次のデートでも考えておいてくださいよ」ぜんざいを食べ終えた松隆は、カランッとプラスチックのスプーンを紙皿に投げ入れて「第2の富野先輩が現れるかもしれないわけですし」


 松隆は、私を、好きではない。仲は良いけれど、懐かれている自覚はあるけれど、それでも松隆が私に向ける感情は恋ではない。松隆は彼氏がいる女に横から手を出すような男じゃない。松隆がそんな男じゃないと、知っている。


 ……なぜ、私は、そんなふうに確信していたのだろう。恋人である紘の心さえ確信することができないのに、なぜ、ただの後輩の松隆の心だけ──。少なくとも、その洗脳めいた確信で自分を守ってきたことは確かだった。


「……別にこれからだって茉莉と出かけるかもしれないじゃん」

「そういう話はしてないんですけど、別にいいですよ。その度に僕とデートしてくれても」


 その言葉が、綻びをつつく。


「とりあえず、残り時間も楽しみます?」


 手袋をはめなおした松隆が、エスコートでもするように手を差し出す。その手が、綻びを広げる。


「……いや、模擬店に戻ろう。コスプレも、チケット売りのためにやってるわけだし、こんなところで油売ってちゃ怒られる」

「そうですか。残念です」


 残念そうに聞こえさせようとしているかのような、残念ではなさそうな声音が、私を惑わせる。


 躊躇ためらいなく引っ込んだ手は、ポケットの中へ。まるで、その真意まで隠してしまうかのように。


「……松隆」


 いつも通りに名前を呼んだつもりだったのに、いざ耳に届いた自分の声に躊躇いを感じた。


「なんですか?」


 その微笑にはそれが隠れているのか、いないのか。


「……松隆は、私と紘が別れるといいなんて思ってないんだよね?」

「ええ」


 その微笑の裏に本音を隠し、嘘を吐いているのだろうか。


 そんなはずがない。松隆は、そんな嘘は吐かない、はず。


「……松隆は」


 私のことを好きなんて、言わないよね? ──そう言質げんちをとることができたなら、どれだけよかっただろう。


 そんな卑怯なことができるわけがないし、そんなことを考えることさえ卑怯だった。別れるといいなんて、と聞くだけでも十分に卑怯なのに。


「心配しなくても、僕は大宮先輩から生葉先輩を奪おうなんて考えてませんよ?」


 それなのに、口に出せなかった懸念を、穏やかな微笑が塗り潰す。


「……そう、だよね」


 安堵あんどなんかしない、なにもに落ちない。それどころか、つい数秒前に期待していたとおりの言質をとることができたはずなのに……、その言質をとることの意味が見いだせなかった。


「松隆は、そんな子じゃないよね」


 それでも、そう聞かずにはいられない。まるでその言葉を免罪符にするように。


「ええ。甘く見てもらっちゃ困りますよ」


 分かってる。松隆がそんな子じゃないって分かってる。分かってる、けど。


 一度可能性に気付いてしまったら、それがゼロだと確信できるまで、思考は止まらない。

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