第21話 飲み会でキスするくらいは、浮気じゃないから

 1次会でそんな有様になってしまったので、2次会はもっと混沌としていた。人数が減ったとはいえ、いるのは酔っ払いばかり。席だって、人数どおりにお行儀よく座っていたのは最初だけ。座敷内は混沌こんとんとしていて、6人席に4人しかいない、逆に6人席なのに8人いる、なんて具合に人が入り乱れている。


 紘の姿を探せば、壁際のテーブルで、所狭ところせましと人が集まった中にグラス片手に座っていた。隣には沙那がいた。


「大宮と空木が付き合ったときはびっくりしたよなあ」


 不意に自分の名前が話題にのぼり、慌てて今いるテーブルに向き直る。2次会なんて、結局仲が良いもの同士で集まってしまうので、テーブルにいるのは喜多山先輩に烏間先輩、みどりと松隆。山科がいないこと以外、大体いつもどおりのメンバーだ。


 喜多山先輩は「今でもあのときの衝撃が忘れられないよなあ」と続け、烏間先輩も「まあ、空木から話は聞いてたけど、付き合うとは思わなかったもんな」と頷いた。


「え、なんでですか」

「んー、なんとなく」


 明確に言語化できるけど誤魔化した、そんな口振りだった。


「そもそもなんで付き合い始めたんですか?」


 今まで散々口を出してきたくせに、松隆の声音からは“早く別れればいいのに”なんてものはうかがえなかった。


「空木から告ったんだよな?」


 そのせいで、喜多山先輩の問いかけに「……そうですね、二条城に出かけた帰りに……」少しだけ詰まった。


「え、で、大宮はなんて返したんだよ」

「……『俺も空木はいい友達だと思ってるよ』と」

「本当に、そういうところだよなあ、大宮!」


 珍しく酔っぱらっている烏間先輩が声を上げて笑った。普段の烏間先輩ならそんなふうに大声で笑ったりしないだろう。松隆は「本当にそんな返事するバカがいるんだ……」とドン引きしているし、みどりはまるで自分のことのように悲痛そうに顔をゆがめた。


「そこからちゃんと告白し直した生葉ちゃんはほんまに偉いよな……私やったらそれ聞いた瞬間、泣き崩れてるわ……」

「告白、しなおしたんですか?」

「……そりゃ、伝わってないと思えばしなおすしかないでしょ」

「伝わってないはずはないだろ、とぼけてんだろ」

「先輩、やめてください。冷静になった私もそう思いましたけど、やめてください」

「で、そっからどうなった?」

「……告白しなおした結果『俺も前から好きだった』と」


 よかった! そう言いたげにガッツポーズさながら拳を握りしめるみどりとは裏腹に、烏間先輩は「意気地いくじないよなあ」と鼻で笑う。


とぼけた挙句の便乗告白だろ。情けねー」

「それは先輩がイケメンだから言えるんですよ!」

「お前、いまの彼女って告白したんだっけ」

「したよ、俺から。『ずっと前から特別だった』って」

「あー、かゆいかゆい。お前は本当に告白ひとつとっても気色悪い」


 喜多山先輩は腕をひっかくふりをする。その背後から、グラスを片手に持った先輩達が「なに、なんの話?」「いや、烏間が本当に気色悪くて」「聞いといて失礼だろ」と合流する。同時に、みどりが隣のテーブルから「ねー、みどりちゃーん、あたしの話も聞いてよおー」と雑に絡まれ始める。


 ちょうどよく、テーブルの会話が途切れた。今のうちにトイレに立っておくか、と立ち上がる。


 その瞬間の、出来事だった。私が席を立とうとテーブルに手をつき、何の気なしに前方に視線を向けてしまった瞬間の出来事。そして、その出来事のはじまりからおわりまでも、ほんの一瞬だった。それなのに、まるで狙いすましたかのように、その光景は視界に飛び込んできた。


 愕然として、立ち尽くしてしまった。なぜ、このタイミングだったのだろう。私が立ったのは、偶然に話が途切れて、トイレに行こうとしたからだったのに。もしその光景に意図があるのだとしても、私が見る瞬間を狙うことなんてできないはずなのに。


 いや、タイミングなんて、それ自体はどうでもいい。今あの瞬間を目撃しなかったとしても、どうせいつか知ってしまっただろう。


 ただ……、振り回されきった私達の終焉しゅうえんが、そんな偶然で決まってしまうものなのかと、そんな失望に似たショックを受けてしまった。


 立ち上がってしまったものは仕方がなく、逃げるように座敷の外へ歩いた。ふすまを開けて廊下に出て、ふらふらと足を進め……、私達が2階の座敷を貸し切っていたこと、つまりここには他の客がやってこないことをいいことに、エレベーター横の壁を背に立ち尽くす。


 一体、どこまで──。


 パンッと、襖が開く音がした。廊下に座敷の喧噪があふれてくる。振り向けば、暗い廊下が、座敷の明かりで少し照らされていた。


 ピシャリと、襖が閉まった音がした。座敷の喧噪との間には薄い壁ができる。廊下は再び暗くなっていた。


「……なにしてるんです、先輩」


 どうせ松隆なんだろうということくらい、分かっていた。……こうして、やってきてくれるのは、どうせ紘じゃないと。


「……トイレに行こうと思って」

「なにを見たんですか?」


 問答無用、答えを知るためだけの突き刺すような鋭い問いかけに、どうしようもなくて、笑ってしまった。別に笑える場面でもなんでもないのに、あまりにも自分がどうしようもなくて。


「……見たくないもの」


 溜息と共に、壁にもたれた。見あげた松隆は検討もつかなさそうに眉を顰めていた。


「……なんで私がなにか見たって分かったの」

「あれだけ強張った顔を見たら否が応でも分かるというか」

「松隆もタイミングが悪いな……」

「慰めに来れることを考えると、逆にタイミングがよかったのでは?」


 確かに、それは難しいところだ。でも、このに及んで後輩に慰められるなんて、いい加減に先輩の威厳いげんが消え失せるとおりこして逆転してしまう。


「……で、何を見たんですか?」

「……松隆が有り得ないって言ってたこと」

「…………」

「飲み会の場だからって、有り得ないことですよって言ったことだよ」


 10月、風邪のお見舞いと称して烏間先輩と一緒に松隆の家に押しかけたときの話。どこからが浮気か、なにをされたら別れるか、なんてくだらない話をした日のこと。


「……飲み会だからって、偶然にキスするなんて有り得るのかな?」


 ぎゅっと拳を握りしめる。爪が食い込んで掌が痛かった。


 紘にとっても、不意打ちではあったのだろう。目を閉じていたのは沙那だけだったから。キスは、沙那から紘にしたのだろう。仮に、あの瞬間を目撃せず、後日、紘か沙那から聞かされたとしても、きっと沙那が不意打ちで紘にしたのだろうとは考えるだろう。……そうだとしても、その意味で紘に非がないとしても、それは理屈の問題であって、感情に変化をもたらすものではない。


 松隆は溜息を吐いた。ほら、早く別れないから、遅かれ早かれそのくらい予想できただろうに、そう呆れ果てているのが手に取るように分かった。


「……忘年会が終わってから、別れようと思ってたんだ」


 だから「ちゃんと別れるつもりだったんだよ」と言いたかった。言い訳じみていると分かっていても、そう言わずにはいられなかった。


「忘年会が終わった後に、別れて、年末年始を冷却期間にすればいい。ついでに、その間にサークル内で別れたことが広まればいいなと思って」


 誰かが地雷を踏むのは避けるべき・・だ。だから忘年会の直前で別れるのは避けようと思った。ついでに、忘年会が終わってしまえば、すぐに授業も終わり、冬休みに入る。そうすれば、みんなが、私と紘は別れたのだと知るための期間は、たっぷり2週間ある。つまり、冬休みは冷却期間になると同時に拡散期間にもなる。


 なんなら、年が明けたら、すぐに1年記念日がやってくる。それまでにはなんとしてでも別れなければいけない。決心がにぶりそうだったから。


「……思ってたんだけどね」


 忘年会が終わった後、次の日か、その次の日に、紘に言おう。なにもかも、タイミングはちょうどいい。年内の大掃除のように、紘との関係を年内にきちんと清算することができるのだから。


 そんな風に思っていた。紘と沙那のキスを見るまでは。


「紘だって、このタイミングで別れを切り出されたら、さすがに『沙那とキスしてたからだ』って考えるでしょ。で、きっと、沙那にもそう話すでしょ。それがしゃくだなって思うんだよね」


 紘が浮気をしているかどうかなんて、どうでもいい。紘の気持ちが茉莉にあっても私にあっても、もうそんなことはどうでもいい。


 馬鹿馬鹿しい、と思ってしまった。松隆が「第2の富野先輩」といったように、誰かに振り回される紘に振り回されるのが馬鹿馬鹿しいと気付いてしまった。


 だからせめて、その馬鹿馬鹿しさゆえに別れるのだということくらいは分かってほしかった。紘が浮気をしていると考えたからではなくて、一緒になって振り回されることが馬鹿馬鹿しくなったからだと。


 それなのに、タイミングを見計らっているうちにこの有様だ。涙は出なかった。代わりに溜息が出た。


「本当に、しゃくだよね。なんなら、別れを切り出したときに『飲み会でキスするくらいは浮気じゃない』なんて言われようもんなら……」


 引っぱたくくらいはしてしまうだろうか。でもそんな思い切りのよさが自分にあるとは思えなかった。そのくらいの思い切りの良さがあるなら、もっと早く紘と別れている。


「……まあ、いいや。年内には別れとかないといけないし、そのための吉日でも選ぼうかな」


 なんてうそぶいて壁から背中を離そうとしたとき……、松隆の体の影が、私の体に覆いかぶさった。


 抱きしめられたわけではない。もちろんいわゆる壁ドンでもない。それどころか、体と体は触れ合ってなどいなかった。


 ただ、その瞬間の私達の距離は、ある一点を捉えればゼロだった。


「……大丈夫ですよ、先輩」


 その一点越しに感じたのは、ほんの少しの焦燥しょうそう。きっと、彼はいつもどおり余裕に振舞っていた。それなのに、いつもと違って、それが振る舞いに過ぎないと……ただ余裕そうに見せているに過ぎないのだと、気付いてしまった。


 私の背後に手をついていた松隆が、ゆっくりと離れた。


「飲み会でキスするくらいは、浮気じゃないから」


 なにが起こったか、理解していた。硬直していた唇が戦慄わなないた。確かめるように唇に触れようとした手も、震えていた。


 ドン、と背中が壁にぶつかった。足に力を入れる方法が分からなくて、腰から崩れ落ちてしまいそうだった。


 のろのろと、彷徨うような目つきで松隆を見返したとき、髪の奥に隠れた目が、なにかのに揺れた。


「……え」


 辛うじて、蚊の鳴くような声でただ一音だけを発した私を、松隆が静かに見下ろす。


「……なに……」

「なに、って。協力してって、言ったでしょ?」


 私にとっての茉莉が、紘にとっての松隆になるように。


 だからキスした。それ以上でもそれ以下でもない、そう告げる一言だった。


 でも紘がキスしてたのは茉莉じゃなくて沙那じゃん? ──同じことだ。私達の合意の根本は、紘の行為を弾劾だんがいすることにあるのだから。たとえ相手が茉莉でなく沙那だとしても、「キスくらい」と開き直る可能性がある以上、同じことだ。


 それでも、同じじゃない。私がさっき見たキスと、いまのキスは、同じじゃない。


「……だって、これ……」


 でもそれは、私だけの事情だ。それを分かっていたから、続く言葉をぐっと飲み込んだ。


 ほんの少しの沈黙が落ちいたとき、スルッと、少し離れた襖が開いた音がした。まさか紘──なんて焦燥と恐怖の入り交じった感情で様子をうかがえば……、座敷のほうからやってきたのは烏間先輩だった。


「座敷の外で喋ったら迷惑だろ。中入りな」


 酔っているのが分かる、ほんのりと赤い顔。でも顔つきとは裏腹に、その声は静かで、アルコールに理性まで侵食されていないことは明白だった。


「そうですね。すみません」


 松隆は肩をすくめただけ。そういえば松隆はシラフだった。


「先輩困らすなよ」


 その松隆の肩を軽く叩いて促しながら「ほら、空木も。用事ないなら中入れよ」と顎で座敷を示す。松隆はすぐに廊下から消えた。


「……すみ、ません……」

「……あのさぁ、空木」


 その様子をうかがった後、烏間先輩は──打って変わって申し訳なさそうな顔になった。


「……多分、俺も・・やりすぎた・・・・・。ごめん」


 一体、なんの話をしているのか。呆然と先輩を見つめながら「……まさか」と小さな声が零れた。


「……まさか、先輩が、沙那と……」

「いや、俺は津川とは関係ないよ」含みのある言い方を問いただす前に「関係ないけど。……ま、ちょっと手を出し過ぎたなと思って」


 烏間先輩は、誰のなにをどこまで見ていたのだろう。


「……その罪滅ぼしってわけじゃないけど」烏間先輩はぐしゃぐしゃとその真っ黒い髪を掻き混ぜて「もし、サークルでお前に何か言うヤツがいたら、そんなヤツは俺が黙らせてやる。俺が守ってやるから……、まあ、恋愛なんて、個人の自由なんだから。他人がとやかく言うことじゃない。好きにやれよ」


 烏間先輩は、私と松隆のなにに気付いて……、なにを知っているのか。


「……先輩」

「うん?」

「……お願いがあるんですけど」


 そんなことよりも、私自身が知らなければならないことがあった。

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