第22話 こういうのは、惚れたほうの負けだな

 23時過ぎ、年内最後の飲み会の熱気に包まれた軍団が、年末の冷たい風などものともせずに練り歩く。その中に静かに紛れ込んでいた私の背後から「ゆーきはぁー!」と酔っぱらった沙那がやってきて、肩を組んだ。上機嫌の沙那は、私がシラフであることなど気にも留めていないようだった。


「ゆきは、クリスマス、バッグ貰ったんでしょ?」

「ああ、うん。紘から聞いた?」

「聞いたよおー。でもって、茉莉にあげたのもバッグでしょ?」自分がリサーチに手を貸したくせに、沙那は白々しく「それって、生葉かのじょ茉莉ともだちの扱いが同じってことじゃん? 茉莉のこと大好きかよって。さすがに有り得ないでしょ」


 きっと沙那は、いま喋ったことを、明日には覚えていないだろう。


「まあ。でも、紘は私に嫉妬してほしかっただけなんじゃない」

「茉莉と仲良くして? そおかなあ、誕プレにバッグってことは、本気になったんじゃない?」


 でも、さすがの沙那も、きれいに口を滑らせることまではないから、言質げんちをとるにしても、このくらいが限界だろう。


「さあ、どうだろう」

「てか、さあ、生葉、そろそろ松隆くんと寝た?」


 沙那が、酔っぱらってくれていてよかった。そうでなければ、私の肩が震えたことに敏感に反応しただろう。


「まさか。紘と付き合ってるのに」

「別にいーじゃん、大学生のカップルなんてそんなもんでしょ」


 私がそんな風に割り切れないと、沙那は分かっていたはずだ。


「でも、松隆くんはさあ、絶対手早いのに、全然手出してこないよね。マジ、松隆くんが酒飲まないの、もったいないなー。お互い酒飲めばどうにかなると思うんだけどな」


 肩からするりと離れた腕を、視線だけで追う。上機嫌の沙那は、そのまま茉莉のところへ行った。茉莉の隣に、紘はいなかった。紘は、武田をはじめとした男友達の中に紛れていた。


「空木ィー、3次会行こうぜ、3次会」


 今度は喜多山先輩だった。ドン、なんて衝撃がきそうなほど強い力で肩を組むあたり、本当に悪い意味で女子と思っていないのが分かる。


「いや、もう疲れたんで……」

「年末だぞ! 先輩の顔も見納めだぞ!」

「喜多山先輩の顔はイヤってほど見ましたよ」

「お前は本当にそういうとこがさあ、可愛くないんだよなあ」声を上げて笑いながら「でもお前は後輩としてめちゃくちゃ可愛いからな。院試終わったら顔出すから、飲みに行こうぜ」

「……そうですね」


 喜多山先輩が離れた後、烏間先輩の姿を探した。少し離れたところで、松隆と話している。松隆が隣にいるなら、近づけない。


 仕方ない、このまま帰ろう──諦めて、するりと軍団の中を抜けたとき。


「生葉」


 誰よりも早く、紘に見つかった。振り返って目を合わせると、紘はちょっと視線を泳がせた。他のみんなは、私達が列からはぐれたことに気が付かず、帰宅するなり3次会に行くなり、とにかく先に進んでいた。


「……3次会行かねーの?」

「……うん。眠いし、疲れちゃったし」

「……家行っていい?」

「…………」


 無言の理由を、紘はなんだと思っただろう。


 月明かりとほんの少しの街灯に照らされた道に、私達2人だけが取り残されている。喧噪けんそうは徐々に離れていき、沈黙の時間が静寂に呑まれ始める。


「……だめ?」


 甘えるような、遠慮がちな声だった。


「……紘」

「……なに?」


 それでも、私が名前を呼べば、その声は精一杯優しいものに変わった。いつもそうだ。紘は優しい。知っていた。紘は、口先のわりに優しい。ぶっきらぼうだけれど、本当は優しい。……でも、それと同じくらい、弱い。


 中学生のとき、サッカー部でレギュラー落ちした。大学受験に一度失敗した。中高男子校だったというのもあるけれど、そもそも女子にモテたことなんてないし、当然、私と付き合うまで彼女ができたことはなかった。いわく、それが紘のコンプレックスだった。そして、それが私の知っている紘の弱さだった。


 その弱さを見下したことなんてなかったし、それどころか、ついこの間まで、それを弱さだと感じたこともなかった。だからこそ、そんな過去を歩んできた紘にとって、私や松隆がどう見えるか、私は考えたことがなかった。


「……沙那から、私と松隆が仲良すぎるって言われた?」


 6月、烏間先輩が冗談交じりに言っていた──松隆が私を推しメンだと言っているなんて、紘には聞かせられないと。松隆みたいな後輩が自分の彼女をお気に入りだなんて、不安になるだろうからと。


「えー……。……言われたっけな……」


 曖昧な答えは、なんの裏付けにもならない。


「じゃあ、沙那に、私を試してみようって言われた?」


 紘の顔色が、ほんの少しだけ変わる。


「茉莉と仲良くして、私がどう思うか。試したらいいんじゃないって」


 ──紘は、きっと、松隆の存在が不安だったのだろう。テニスが上手くて、大学受験もストレート、いつでも女子に騒がれるほどの完璧な容姿。非の打ち所のないステータス。そんな松隆こうはい彼女わたしの傍にいることが怖くなったのだろう。


 そんな心配に駆られるほど、そしてその心配を私に伝えることができないほど、紘は弱かった。


 だから、沙那に利用されるんだ。


「……別れよう、紘」


 たったその一言を口にするために、どれだけかかってしまったのか。吐き出すように、苦しい喉の奥から絞り出した声は震えていた。必死に堪えていた涙があふれてしまった。別れを切り出す側なんだから泣くべきじゃないと思っていたのに、理性でおさえられるほど小さな感情ではなかった。


「……そう」


 紘は、理由を聞かなかった。理由を聞かない理由が、私への気持ちが冷めているからなのか、沙那と画策して私を試したと分かっているからなのかは、分からなかった。


 でも、分からないままでいいと思った。私達は、踏み込めば分かったはずの相手の気持ちを、ずっと手探りで済ませてきたツケを払うべきだ。


 紘の子供っぽい目がうるんだように見えた。


「……こういうのは、れたほうの負けだな」

「私だって好きだったよ!」


 このに及んで、紘は、私が紘を心底好きだったと自信を持つことができないのだ。その事実を、見栄だか虚栄きょえいだかなんだか分からない、あたかも自分だけが好きだったかのようなセリフに突き付けられて、思わず叫んでしまった。


 それでも、そんな偉そうなことを考えながらも、分かっていた。紘に当てはまることは、大体私にも当てはまることだった。紘は、わざと、そして執拗しつように茉莉と仲良くしていたとはいえ、その姿を見て心配に駆られたのは私も同じだった。その結果、私は、紘にとっての茉莉の立場を松隆に求めた。


 あたりは静寂に包まれていた。たまに車の音が聞こえていた。その中に、私が必死で涙をこらえる、出来損ないの嗚咽おえつが混ざっていた。


「……ごめんね、紘」


 その謝罪で、どれだけのことが伝わったのか分からない。


 結局、私と紘は似た者同士だった。






 家に帰って、シャワーを浴びた。ダムが決壊したように、シャワーに打たれながら泣いた。でも、シャワーで全身が温まる前に、涙は止まっていた。きっと、私が泣いていたのはものの数分間。それが誤魔化しようもない事実だった。


 その事実を頭の片隅で捉えて、私の紘への気持ちは、その程度になっていたのかもしれない、なんてことを思った。

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