最終話 大丈夫、浮気じゃないから
全て話してみると、少しだけすっきりした。沙那に対して釈然としない気持ちは、もちろんあるけれど、誰にも何も言えずに抱え込むよりもずっとマシだ。
「……津川先輩に振り回されたまま大宮先輩と別れてよかったんですか?」
「ん、沙那のせいで別れたって気持ちもなくはないけど。沙那にそんなことを言われたからって、彼女の気持ちを試そうとする男なんて願い下げだから、いいんだ」
口先ではそんなことを言ったけれど、本当は、紘と別れたことは寂しかった。
沈黙が落ちた。誤魔化すために紅茶を一口飲んだけれど、あまり時間稼ぎにはならなかった。
「……恋の名言っていくらでもあるけどさ」
「はい」
仕方なく、最後の気持ちを
「大学生になってから一番感動した名言は、トーベ・ヤンソンの名言。『初恋はこれが最後の恋だと思うし、最後の恋はこれこそ初恋だと思う』って」
「…………」
「……なにその顔」
「この期に及んで大宮先輩への
「名言を言っただけじゃん」
「要は大宮先輩が初恋だと思ったって言いたいんでしょ。趣味悪いですね」
「本当に私のことをなんだと思ってんの」
温かいマグカップを両手に抱えて、ほう、と息を吐きだした。
さすがに、紘への気持ちに、
それでも、気付いたときには、この気持ちは冷めてしまっているのだろう。徐々に冷えていくはずなのに、気付いたら冷え切ってしまっていた、そんなふうに、この気持ちは終わるはずだ。急速に冷やす必要などない。自然に冷えるまでは両手に抱えておいて、いつか冷え切っていることに気付いたら手放す。それでいい。
「まあ、大宮先輩が津川先輩の
「うん」
「生葉先輩はなんでうちに来たんですか?」
「え? なんでって……」
「昨日キスした後輩の部屋に1人で来るとか、馬鹿なんですか?」
ブッ、と紅茶を吹きそうになった。ゲホゲホと咳き込む間、松隆の視線を感じたけれど顔を向けることはできなかった。しかも玄関前で抑えたはずの
「いや……、あのね? 私もそれは気にしてたけどね?」
「さすがに家には来ないだろうと思って外を提案したんですけど、まさか先輩から部屋を提案されるとは思わず、正直、電話をしながら呆れていました」
「…………いや、あのね?」
コンッとマグカップをこたつ机に置いた。きちっと両膝を揃えて、松隆に向き直る。松隆はひじ掛けに肘をつき、セリフのとおり呆れた顔つきをして、横柄な態度で私を見ていた。
「そのことは、もちろん、
「さすがに襲いはしないだろうと思ってましたか。しないので安心していいですけど」
「話を聞いて!」
顔が熱くなり、真っ赤になったのが分かった。心臓がうるさかった。多分松隆にも聞こえている。……余計に恥ずかしくなって顔の熱が上がってきた。
「……約束の範囲じゃん?」
「ああ、まあ。津川先輩が大宮先輩とキスしてたんで、大宮先輩が浮気じゃないと言ったときのために先輩は僕とキ──」
「その範囲内でした出来事だから、2回も3回もする必要がないわけだから、松隆はもうしないだろうと!」松隆の口からその事実を言われないように早口で
「はあ、信頼」
なにそれおいしいんですか? とでも聞こえてきそうだった。
「じゃあ、津川先輩の思惑と大宮先輩の思惑と、そこに生葉先輩の思惑が加わったところで、もうひとつの思惑の話でもします?」
「……もうひとつの思惑?」
「言いましたよね。僕の協力が優しさだと思います? って」
──協力を申し出てすぐのことだ。松隆の真意を探ろうとした私に、松隆はそう怪しく笑った。
サッと自分の顔が青ざめるのを感じる。さっきまでの恥ずかしさによる熱が一気に引いていった。もし松隆にどこかで裏切られていたら、そう想像するだけでも怖かった。
「……でも、紘を陥れようとは考えてないって」
「考えませんよ」
「……私と紘が別れればいいとも思ってないって」
「ええ」
「……私を」一瞬詰まって「紘から奪おうと考えてるわけでもない、と」
「ええ、そうですよ」
頬杖をついたままの松隆は、
「……あんまり実効性がなさそうだけど……沙那がしっぺ返しを食らうところを見たかったとか」
「それは見たいですが、違いますね」
「……なに? 一体なに?」
せいぜい考えられる現実的な可能性は3つ。紘への嫌がらせ、私を
しかし、自分を嫌いな
更に、私への嫌がらせでも……ない、はずだ。松隆にそんな裏表はないはずだし、恨まれたり嫌われたりする覚えがない。
……自意識過剰かもしれないけれど、そうなると、残る可能性は、松隆が私を異性として好きで、あわよくば紘から私を奪おうとしているということだ。でも、松隆は度々その可能性を排するような言動をとったし、いまなお否定している。しかも……、なにより引っかかっていたのは、幼馴染の存在だ。私ではない誰かを好きである可能性をにおわせ続けていた。しかも烏間先輩が存在を確認しているのだから、ブラフではない。つまり松隆が私を好きである可能性は限りなくゼロに近い。
そうなると、排しきれないのは私への嫌がらせ……私を
困惑しきった私に、松隆はいつもの微笑を投げかけた。
「生葉先輩に僕を好きになってもらうことですね」
は? ……理解できない文字列に、たっぷり三拍、脳が止まった。
「なに言ってんの? だって紘から奪おうとは考えてないとか……」
当初ならまだしも、さっきまでそんな嘘を吐く理由はない。
混乱している私とは裏腹に、落ち着き払った松隆は紅茶を飲みながら「ええ、それは別にどうでもいいです」と
「一体どういう……」
「だって、生葉先輩を大宮先輩からとったって、
……なに? 松隆のセリフを矛盾なく整理しようとして……、思考回路が迷子になった。とるだけだと意味がないってなんだ。
「同じ理由で、生葉先輩と大宮先輩がただ別れても意味がありません。だから僕は別に、生葉先輩を大宮先輩から奪おうなんて考えてないし、別れればそれでいいとも思ってない」
思考回路はまだ迷子だ。なんならもうすぐショートする。
「分かりません? 順序とか因果の問題ですよ。生葉先輩が僕を好きになった、その結果として大宮先輩と別れる。そうして初めて、意味があるんです」
……私と付き合うという結果は必要ない? ただ私が松隆を好きになる状況が欲しかっただけ? これはいわゆる、
「……松隆。先輩で遊ぶのもいい加減にしなさい」
「遊んでませんよ、ちゃんと本気です」
「本気で
「違いますよ。本気で先輩が好きですって言ってるんですよ」
…………なに?
まただ。また、言葉が理解できずに脳がフリーズした。唖然とするあまり、時間が止まった気さえした。
松隆はただ、隣に座って、いつものように柔らかく微笑んでいる。……何かの冗談だ。冗談に違いない。そうでなければ、好きの意味が違う。そうだ、きっとそうに違いない。
「好きですよ、先輩」
それなのに、違うといわんばかりに繰り返されて、開いた口が、
考えた。もちろん考えた。松隆が私を好きな可能性だって考えた。だって浮気じゃない浮気をするなんて、そんなことに下心なしに協力するヤツがいるはずがない。でも松隆はそれを何度も否定したし、あたかも興味がないかのような口ぶりだった。だから違うんだと思っていたし、そう自分にも言い聞かせていた。
「……な……に、なんの冗談……そう、冗談でしょ、ドッキリで烏間先輩が出てくるとか」
「烏間先輩は僕が生葉先輩を好きだって知ってますけど」
「は!?」
そんなこと聞いてない! いや聞くはずないのだけれど。目を
「結構序盤でバレたんですよね。ほら、生葉先輩と僕、鍋でも飲み会でも、大体セットで呼ばれてるでしょ。あれは烏間先輩によるいじりです。僕に対する」
「……私達と仲が良いからじゃ」
「それもありますけど、どっちかいうと面白がってのことです。それでもってあの人、僕と生葉先輩の仲が良いとかカップルみたいだとか平気で言いますしね」
「……それは紘があれこれ言うから」
「それも僕へのいじりです。忘年会で幼馴染の話をしたのだって、生葉先輩の前で僕がどう出るか試してたんですよ」
「そうだ! 幼馴染!」
松隆が私を好きである可能性を排除する、もうひとつの要素。冗談みたいな告白を受けて、一瞬忘れていたけれど。
「松隆、その幼馴染にずっと片想いしてるんじゃないの!?」
「ああ、その話ですか」
ふ、と小馬鹿にしたような表情をする。
「あれは男です」
「嘘!」
「本当です。料理上手で、家計にうるさく、まあどっちかいうと可愛い系の、男です」
「だって烏間先輩も学祭で会ったって……」
松隆が彼女を作らない理由、つまり松隆の好きな相手は誰かという文脈だったのだから、当然にその幼馴染は女子だということがテーブルでは共通認識だったはずだ。だから烏間先輩が口を挟んだということは、当然に烏間先輩が会った“幼馴染”は女子となるはず。
「言ってましたけど、僕も烏間先輩も、それが女だとは一言も言いませんでしたよ?」
……烏間先輩がすべてを知っていたとなると話は別だ。烏間先輩と松隆がぐるだったとまでは言わないまでも、松隆の真意を知りながら試そうとしたのだとすると……。
「だから言われましたよ、3次会の前。『お前、空木の前で幼馴染は女ってことにして空木の反応見たかったんだろ』って」
「あの腹黒カラス……!」
私と松隆、まんまと2人揃って遊ばれていたようだ。全てを知っている先輩というのは、なんとも
「……じゃあ……えっと、つまり……?」
「要約すると、こういうことです」松隆は笑みを浮かべたまま「僕は先輩を好きになりましたけど、先輩にはすでに
「……つまり今までのは嘘?」
「僕はなにひとつ、嘘は吐いてませんよ。先輩が勝手に
ただ別れさせるだけではなく、ただ横取りするのではなく、私自身が松隆を好きになった結果として紘と別れる選択をさせたかっただけ。
「言ったでしょ、僕は結構健気ですって」
「こうも言いましたよ。甘く見てもらっちゃ困りますよってね」
言葉遊びのような、それは、嘘だ。まごうことなき嘘だ。
「お前……本当にいい加減に……」
「そうですね、いい加減に大宮先輩の愚痴も聞き飽きました。そろそろ僕と付き合いません?」
いつかの夜のように、松隆の手が私の手に伸びてきた。今度は捕まるまいと引っ込めようとしたのに、
「いや、でも……、ほらその、松隆は、私に松隆を好きにさせたかったんでしょ。お
「だいぶ好きでしょ、僕のこと」
「…………まさか」
私はまだ紘が好きで、松隆への明確な恋心はないと、そう思っているのは本心だった。
「ふぅん、別に、好きじゃないと」
「……そうですけど」
実をいえば、ほんの少し。ほんの少しだけ、松隆に揺れている自覚もあった。
一番意識したのは学祭かもしれない。髪に、手に、触れられた瞬間、
でもあくまでそれは揺れ程度だし、紘のことが好きで別れられなかったのは事実だ。なにより、紘の行動に散々目くじらを立てておきながら、実は自分はコロッと手近な後輩を好きになりましたなんて、そんな背徳的な事実を認めるわけにはいかなかった。
「じゃ、なんで幼馴染の話を出したんです?」
「……忘年会で? いやだって松隆は幼馴染に片想いしてるもんだと思ってたから、そういう話題になれば幼馴染の話は出すでしょ」
「僕の好きな人が気になったからじゃなくて?」
ただ手が絡まっていただけだったのが、いつの間にか恋人繋ぎに変わる。手のひらを、親指がつうと撫でた。その二重のくすぐったさに体が震えた。
「違います! ただの文脈です、文脈!」
「ここ最近僕を避けてたのは? 意識してたからじゃなくて?」
「バイトが忙しかったの!」
「昨日キスされたのにのこのこやって来たのはイヤじゃなかったからじゃなくて?」
「やめなさい!」
よくもそんなセリフを恥ずかし気もなく口にできるものだ。真っ赤になった顔は隠しようもなく、辛うじて空いている手で額を押さえる。
松隆に心が揺れたのは事実で、それは認めざるを得なくて、だからこそ今日、松隆の部屋へ行くのに
だから、紘から貰ったばかりのバッグを選んだ。いざというとき、バッグを見て、自分が紘と別れたばかりだという事実を意識するために。
「いや……もう本当に冷静に考えて。昨日まで紘と付き合ってたのに、今日になって松隆を好きですなんて切り替えができるわけが……」
「女性は切り替えが早いというのが一般論ですが」
「いくら早いったって別れて12時間かそこらでしょ!」
いいから手を放せ、と腕を引っ張ったけれど、手は離れなかった。男の力は強い。
「大体──大体、それっていうことはなに? 忘年会のキ……スは、紘と沙那がキスしたからじゃなくて……」
「ああ、下心です」
「真顔で何言ってんの!?」
「僕は勝率の低い賭けはしない主義なんですが。ここ最近の先輩の言動と、忘年会の例の幼馴染の話とでだいぶ勝ち目が見えてきたと思って。つい」
「ついじゃないでしょうよ!」
「大宮先輩と津川先輩がキスをしていたという言い訳も立ちましたし」
「言い訳とか言うな! それが私達の約束の本分でしょ!」
ふむ、と松隆は空いているほうの手を顎に手を当てた。
「まあ、あれこれ言いましたが、あれだけ大宮先輩を好きだった生葉先輩がそんなに簡単に落ちてくるとは思っていませんし、完全に落ちたとも思ってません。その意味では僕の思惑は半分
ほらみろ──と言いたかったけれど、色々ツッコミどころがあったので黙った。
「なので引き続き続行しますかね」
「……いやいいよ、もう私は紘と別れたんだから」
「それは先輩側の事情で、僕には関係のないことです」
いけしゃあしゃあと言ってのける、その綺麗な顔面を殴りたくなった。この後輩……!
「協力するって言ったくせに実は自分のためだったとか!」
「だから言ったでしょ、これが僕の優しさだと思いますかって。大体、下心を疑わないほうがどうかしてる」
「お前ッ……!」
「安心してください、近くにいるからって襲ったりしませんから」
そういう問題じゃない──と噛みつこうとした矢先、掴まれていた手が力強く引っ張られた。驚いて声を上げる余裕もなく、気付けば倒れ込むようにして松隆の体の上に乗っていた。
顔が赤面するのと体を持ち上げるのと、どちらが早かったか。バッと両手をソファについて起き上がるけれど、まるで私が組み敷くかのような体勢になった有様で、片手に後頭部を抱き寄せられた。
昨日と同じ一点の、ゼロ距離。
思わず息を止めてしまっていたことに気付き、唇が離れると同時に、ハッと息を吐き出した。そのキスには、まるで心臓を
「……襲わないって言ったじゃん!」
「“襲う”の定義にキスを含むと言いましたか?」
「
「まあまあ、先輩、落ち着いて」
逃げるように起き上がれば腰に手が回った。顔を背けようとすれば頬に手を添えられた。あまりにもひんやりと冷たいその手に、自分の顔がゆでだこのように熱いのだと知った。
「大宮先輩と別れたいま、生葉先輩が僕と何をしても、道理も倫理も
手から逃れられないのは、物理的な力関係のせいじゃないと理解していた。今から何をされるか分かっていても「やめてよ」のたった四文字すら口にすることができなかった。
このままキスを受け入れたら、それは、松隆に浮気していたことと同義なのに。
そんな私の内心を見透かしたように、松隆は口角を吊り上げる。顔が近づき、目が伏せられる直前、その理知的な瞳が、昨晩と同じように恋情に揺れた。
「大丈夫、浮気じゃないから」
大丈夫、浮気じゃないから。 宵 @Anecdote810
★で称える
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