第18話 生葉が俺を好きなのくらい分かってるから

「裁判離婚事由の1号、不貞ふてい行為、これをたとえばどう立証するかというと、どうです? ……現場を押さえる、なるほど、それはもちろん不貞行為そのものの証拠を得ることが可能となりますが、現実はそうはいかないわけです。多くの場合は、アパート、マンション、または俗にいうラブホに入る瞬間を写真で撮影する、そしてこれを証拠として──」


 鐘が鳴った後も、教授は暫く講義を続けた。頬杖をつき、まばらにメモを書き込んだレジュメを見下ろす。拍子に、レジュメの横に置いていたスマホがスリープから復帰した。松隆から「『Good bye my...』、昨日烏間先輩から受け取りました」というLINEが来ていた。メッセージを開いて「よかった、最近サークル行ってないから」「面白かったよ、ありがと」と素っ気ない返事をした。トーク画面を開くと、紘から「今日サークルなくなった」「家行っていい?」と2件のメッセージが入っていたけれど、既読はつけずにおいた。


「では今日はここまで」

「あー、長かったー。これ5限あったら最悪やわ」


 教授の声を合図に、隣のみどりが机の上に突っ伏すようにして体を伸ばす。拍子に、肩から背中に羽織っているマフラーがずれた。


「生葉ちゃん、今日テニスは?」

「んー、今日はいいかなあ」

「行かへんの」

「寒いからっていうのと、冬期講習バイトとで、なかなかね」


 椅子の上に丸めていたコートにそでを通す。臙脂のダッフルコートは重たく、1日分の講義に疲れた体にずしりと圧し掛かる。


「みどりは? 行かないの?」

「あたしも冬期講習バイト。今のうちに入らんと、年末入りたくないねんな」


 2人でそんな話をしながら講義棟を出ると、冷たい木枯らしが頬を叩いた。2人でマフラーを口の当たりまで引き上げ「さむ、さむっ」「はよかえろ」「帰るというか駅」「それはそうやわ」とぼやいていると「おーい」とジャージの2人組に手を振られた。烏間先輩と喜多山先輩だった。


「あー……お疲れ様です」

「みどりちゃん、おつかれさまー」

「おつかれ。空木、最近見ないなあ」


 一緒に歩き出せば、喜多山先輩はみどり、烏間先輩は私。推しメンと仲の良さとから自然に別れてしまう組み合わせだった。ただ推しメンは一方的なのでみどりは苦笑いだけれど、仕方がない。


「バイトが忙しくて。そういえば、松隆に本返してもらってありがとうございます」

「いーえ。でも先輩パシるのなんてお前くらいだぞ。……松隆となんかあった?」


 なにかあったと確信しているように、烏間先輩は声のトーンを落とす。


「……いや、何もないんですけど……」

「あ、そう? 松隆もなんもないって言ってたけど、最近お前らが絡んでるの見ないから」

「まあ、サークル行かないと会わないですよね」

「12月はずっとバイト?」

おおむねそうですね……塾も掻き入れ時ですし、私も稼ぎ時です」

「12月は出費多いもんな。クリスマスに忘年会に帰省。キツイなあ」

「……烏間先輩は彼女さんに何あげるんです?」

「まだ決めてない。つか一緒に買いに行くことにしてる。そういう空木は、大宮になにあげんの?」

「……考え中です」


 本当は、クリスマスがひとつの区切りになるかと思っていたけれど、なかなか踏ん切りはつかないままだった。


「一緒に買いに行けば?」

「……紘の誕生日のとき、そうしようかって提案したんですけど、サプライズ感がほしいっていわれたんですよ」


 別にいいといえばいいのだけれど、紘は持ち物に対するこだわりが強いので、下手にはずすくらいなら一緒に選んでほしかった。ただ、誕生日プレゼントのキーケースはそれなりに気に入っているらしい。いつも使っているのを見ればわかった。意外と気を遣うタイプなので、彼女に対する気遣いといえば気遣いかもしれないけど。


「男はサプライズが好きだからなあ。外す危険があると分かっててもサプライズで渡すことにこだわりたいのは男のエゴかもな」

「渡される側ですよ、紘は」

「だから大宮自身もそうなんだろ。危険があってもいいからサプライズがいい」

「……そういうもんですかね」

「そんなもんだって。話は戻るけど、空木、松隆となんもないんだよな?」


 ……何もない。松隆と何かがあったわけではない。ただ私が一方的に勘ぐってるだけだ。


「……なにもないです」

「松隆の家で鍋しようって話してんだけど、来る?」

「あ、すみませんバイトなんで」

「まだいつか言ってねーだろ」


 ほんの冗談に聞こえるように返事をしたつもりだったのだけれど、本気だと分かっているような反応だった。


「学祭の後から全然サークル来ないし、なにかあったんだろ。先輩が聞いてやろうか」

「だから別になにもないですけど」

「今まであんなに仲良かったのに、また大宮に何か言われた?」


 紘が松隆のことを注意したのは、10月の一度きりだ。以来、紘は松隆のことに触れない。


「紘は何も言いませんけど」

「けど?」

「……やっぱり、松隆と私は仲が良すぎるんじゃないかなって」

「そんなの今更だろ。この間も話したじゃん、空木と松隆って一緒にいるのが自然過ぎるんだって」


 セリフのとおり、本当に今更何を言ってるんだと言いたげだった。


「それでなんもないんだから、気にすることないだろ。先輩後輩の仲の良さの範囲内だって」


 “なんもない”──烏間先輩は、松隆から何も聞いていないのだろうか。


「それは……そうなんですけど……」

「松隆といえば、今出いまでさんが今月いっぱいでサークル辞めるってさ。今月いっぱいってか、もう来ないだろうけど」

「え、なんでそれと松隆が?」


 1回生女子がサークルを辞める理由が一人の1回生男子と結びつくとなれば、理由は少なくない。予想はできていたけど、つい先を促してしまった。


「学祭の後に告白してフラれたんだってさ」

「……まあ、仕方ないですね」


 今出さんは、もともとあまりサークルに顔を出しているタイプではなかった。そんなサークルと松隆と顔を合わせる気まずさとを天秤にかけ、サークルを切り捨てるのは、ごく自然な帰結だった。


「もともと松隆目当てで入ったようなもんだろ。合宿でやめるんじゃねーかなと思ってたから、やめるって意味では遅かったな」

「……松隆、今出さんのことフッたんですね」

「ん? ああ、意外?」

「いえ、意外ではないんですけど……」


 正直にいえば、1回生の今出さんは、特別可愛いわけでもなく、ごく普通だった。それこそ男子会をすれば名前は挙がらないだろう。松隆と特別仲が良い印象もなかった。


「……松隆、彼女作らないのかなと思って」

「松隆に彼女ができれば、そりゃあ大宮は安心するだろうな」


 不意に6月くらいのたこぱを思い出した。酔っぱらった喜多山先輩が「松隆、空木が推しメンなんだって」なんて言い出した夜。


「でも、松隆は彼女できないだろうなー。そもそも、俺としては今出さんが松隆に告白したっていうのが意外過ぎた。よく告ったなって」

「なんでですか?」

「空木と松隆が仲が良いって知ってるからだよ」


 幾度いくどとなくされた指摘であるはずなのに、一瞬、緊張で息が止まってしまった。


「多分、松隆と一番仲が良い女子って空木だろ。1回生の女子よりも。ってことは、1回生女子からはこう見えるわけだ、あんなに仲のいい空木のことでさえ松隆はただの先輩としか思っていないんだから、空木ほど仲良くない自分達は松隆の眼中にない──ってな」


 誰がどう見たって、私と松隆は仲が良すぎるじゃないか、と──。


「……先輩後輩として仲が良いのと、恋愛感情があるのかないのかは、また別じゃないですか」

「少なからず延長線上にあるだろ?」


 不穏な言葉に「でもただの先輩と後輩の仲の良さだって──」と反論をしようとしたのに「んじゃ、俺達はコート行くから」と無視されてしまった。烏間先輩が手を振れば喜多山先輩も「みどりちゃんもたまには顔出してねー」といいながら行ってしまった。再び、私とみどりの2人の組み合わせに戻る。


 ……みどりに、私と松隆との間にあった話はできなかった。


「……さっき烏間先輩が言ってたんだけど、1回生の今出さん、やめるらしいよ」

「あー……松隆くんにフラれたから?」

「知ってるの?」


 驚いたけれど「沙那ちゃんから聞いてん」と納得の情報源だった。


「今出さん、松隆くんに一目惚れしてサークル入ったらしいから。フラれたら、そりゃ辞めるよなあって」

「一目惚れ……なんだ」

「松隆くんはほんまにイケメンやし、しゃーない」まるで自分に言い聞かせるように頷きながら「でもあの松隆くんに告白するって、今出さん頑張ったな思うわ」

「まあ、ハードル高いよね、あのイケメンは」

「松隆くん、なに考えてるか分からんしなあ」

「分からないのが分かる」


 思わず食い気味に頷いてしまった。でもみどりは「え、生葉ちゃんも?」と意外そうな反応をする。


「生葉ちゃんくらい仲良いと分かるんやと思ってた」

「仲は良いけど……」あ、やっぱり私ってそんなに松隆と仲良く見えるんだ、なんて思いながら「最近の松隆は何を考えてるか分からないっていうか……結構素直なタイプなんだけどね。基本的には分かりやすいし」

「松隆くん、生葉ちゃんには懐いてるから生葉ちゃんにだけ素直なんちゃう」


 また、自分の顔が強張ってしまうのを感じた。でもみどりは気付かない。


「……まあ、懐かれてる、よね……たぶん……」

「松隆くん、生葉ちゃんのことめっちゃ好きやんなあ」ドクンと心臓が跳ねたけれど、やはりみどりは気が付かず「いつか松隆くんに彼女ができたら、生葉ちゃんめっちゃ嫉妬されそう」

「……それは、気を付けないと」

「そうなったら松隆くんも気を付けるかもしれへんけどな。松隆くん、絶対彼女のことめっちゃ大事にするタイプやで」

「……そんな気はする」


 ただの先輩である私にさえこんなに優しいのだから。松隆から返事が来ているのだろうスマホを握りしめながら、そんなことを思った。


 駅に着いた後、紘からの連絡に「ごめん、今日バイト。21時くらいに帰る」と返事をすれば、バイトを終えると「その後行っていい?」と返事がきていた。断る理由はなくて「いいよ」と短く返事をした。


 紘からの返事は早くて「行くー。いまどこ?」「もうすぐ駅」「迎え行く」なんて遣り取りをしているうちに、家に帰る前に合流してしまった。


「お疲れ」

「ありがと。紘、今日はバイト入ってないの?」

「中旬以降が忘年会の3次会でめちゃくちゃ忙しいから、いまは嵐の前の静けさって感じ。生葉は?」

「こっちは冬期講習で12月いっぱいはガッツリ入る予定」

「……クリスマスは?」

「バイト入れちゃった。人足りないみたいだから」


 本当は入らずに済ませることもできなくはなかったけれど、人が足りないらしいのは事実だし、そこまでして紘とクリスマスを過ごす意味は見いだせなかった。


「紘もクリスマスバイトでしょ?」

「まあ、ずらせんことはないけど、生葉がバイトならバイトするか」


 あーあ、とでも聞こえてきそうな声音だったけれど、ごめんの一言が言えなかった。


「晩飯は?」

「バイト前に軽く食べた。まさか紘、待ってた?」

「いや、俺も食ったんだけど、聞いただけ」


 家に帰って、テレビをつけて、流行りのドラマを「これなんだっけ」「刑事ドラマ。春にもやってたやつのシーズン2」私だけ見て、紘はその間隣で一緒に見たりスマホを見たり、私にじゃれてみたり。


「紘、お風呂出たよ」

「んー」


 私と交代で紘がお風呂に入った間にスマホを見る。松隆とのLINEは「面白かったよ、ありがと」という昼間の連絡で止まっていた。スリープにしてドライヤーを取り出しながら、真っ暗なディスプレイを見つめる。


 学祭が終わって1週間と少し。もともと松隆との連絡は、用事があればそのついでに雑談をする程度だったし、特別疎遠になったわけではない。……それなのに連絡がないのが気になるのは、なぜか。


『良くも悪くも予想の範囲内でした』


 ……なにが良くて、なにが悪いのか。それが分からないせいなのか、頭の中であの時の松隆の顔とセリフが何度もリフレインする。


 髪を乾かした後、ぽふんとベッドに倒れ込んだ。スマホの画面は真っ暗なまま。松隆から続きの連絡はない。『Good bye my...』の本を返したのだから「魔女ラシェルの決断、どう思いました?」くらい言ってくれてもいいのに。


 不意に、紘のスマホがブーッと振動した。


 そういえば、紘は一度もスマホの画面を隠そうとしたことはなかったな……。浮気をしている男にありがちでそして当然の行動といえば、スマホでの連絡を隠そうとすることだけれど、紘はいつだってテーブルの上にスマホを置きっぱなしだ。通知もディスプレイに全て出るし。その意味では……やっぱり、茉莉とは決定的な浮気まではなかったんだろうな、やましいことがないからスマホをこうして無防備にできるわけだし……。


 そんなことを考えながら紘のスマホに視線を遣った。見ようと思ったわけではなく、音がした方向を見てしまった、その程度のことだった。


 ディスプレイに表示されたのは「津川沙那:ちゃんと愛されてるって分かってよかったじゃーん」。


 それは、浮気をほのめかすメッセージではない。なんなら、おそらく私と紘の関係に言及したものだった。


 でもなんだ? そのメッセージには、奇妙な違和感が湧く。“ちゃんと愛されてるって分かる”って、どんな話の流れで出てくるんだ? 紘は、どんな状況から、私に“愛されてる”と確認するのだろう。ベッドから半分だけ体を起こした状態で、その意味を考えて動けなくなってしまった。そんなことをしているうちに、紘のディスプレイはまた暗くなった。


 じっと見つめていても沙那からの追撃はない。そうしてスマホを見守っているうちに、紘がお風呂から上がってくる。


「あったまったー。冬のお風呂好き」

「冬のお風呂と冬のお布団は至高だからね」

「それな」


 言いながら、紘が私の横に転がる。スマホを手に取ることはせず、ただのんびりと、風呂上りの熱気を冷まそうとするように転がっている。


『ちゃんと愛されてるって分かってよかったじゃーん』


 そのメッセージが、脳内で沙那の声で再生された。なんなら、沙那が目を細めて口角を吊り上げながらポンッと紘の肩を叩く、そんな様子まで容易に想像できた。


 愛されてるって分かる。愛されてると確認できる。対外的に分かる愛、恋。内心に隠れているそれを確認する方法、は。


「……紘」

「んー?」

「……私、松隆と仲良すぎかな」


 隣にいる紘の空気に、変わった様子はなかった。ただ、会話をするための必要最小限の回路だけを回し始めたような、そんな気配の変わり方をした。


「まあ、仲良いなとは思うけど」

「……けど?」

「……別に、そんだけじゃん」


 隣から、肩に半分のしかかるようにして抱きしめられる。


「生葉が俺を好きなのくらい分かってるから」


 ……分かっているというのなら、なぜ、あの日の紘は、私と松隆の仲が良すぎるととがめたのだろう。私の紘への気持ちを疑っていないのであれば、私と松隆の仲が良すぎたからといって、紘が心配することはなにもない。そしてなぜ、いまはそれを咎めなかったのだろう。


 私の気持ちが分かっているというのなら、分かったのは、一体いつからだったのか。紘は私の気持ちを疑ったことがなかったのだろうか。付き合ってからずっと、紘は私の恋情の向く先を確信し続けていたのだろうか。


 確信し続けることが、できていたのだろうか。


「……紘、髪乾かしなよ」

「……あとで」


 唇が、触れた。


 でもそのキスには、奇妙な違和感があった。紘とキスなんて数えきれないほどしてきたはずなのに、まるで別人とキスしているような、そんな違和感。その違和感に思わず表情を変えてしまったけれど、キスの瞬間にお互いに目を閉じる慣行が幸いした。


「……今日生理」


 ゆっくりと身体を押し返す。


「そんな時期だっけ」

「ちょっとズレたっぽい」

「キスくらい、いいじゃん」

「したくなったら困るから」


 したくなったら、困る。だってさっき感じた違和感の正体は──……。


「ちぇっ」


 拗ねたように起き上がった紘がドライヤーを手に取る。その体の向こう側にあるスマホにもう一度視線を向ける。


『ちゃんと愛されてるって分かってよかったじゃーん』


 沙那の松隆へのお気に入り具合は、どの程度だろう。

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