第4話 大宮と富野よりお前らのほうが仲良いだろ


 そして、烏間先輩と一緒に松隆の部屋を訪ねれば、出てきた松隆は通常運転だったし、なんなら顔には「なんでこの疲れたときに先輩に合わなきゃならないんだ」と書いてあった。


「なんだ、元気そうだな。心配して損した」

「先輩はどうせ大したことないとか言ってあんまり心配してなかったじゃないですか」


 ティシャツにサークルのスウェット姿で、普段見かけない部屋着姿ではあったものの、それ以外はいつも通りの松隆だ。実際「風邪ひいてたのは本当ですよ。昨日でおおむね回復したんで、今日は念のため休んだだけです」ということらしい。


「逆に、僕が寝込んでたらどうするつもりだったんです」

「早々に帰る、伝染うつされたくないから」

「ひどすぎません?」


 文句を言いながらも、一人でいるのは退屈していたのか、松隆は「まあお茶くらい出します」と部屋に招き入れてくれる。


「ん、お邪魔します」

「え、先輩、一応松隆は病人ですよ。お茶とかいってないで」来る途中で買ったスーパーの袋を掲げて「これあげて帰りましょうよ」

「でもほら、松隆、元気そうだし」

「まあ……。松隆がいいっていうならお邪魔しますけど」

「本当にこの先輩達は……」


 松隆の部屋に来るのは夏にたこぱをして以来、2回目だ。松隆の部屋を選んだ理由はしごく単純、私と烏間先輩の部屋よりも松隆の部屋が広かったから(なんなら1Kの人が多いので、1DKの松隆の部屋は誰よりも広いと思う)。後日、松隆は「シーツからたこ焼きの臭いするようになったのでたこぱは二度としません」と苦言くげんていした。烏間先輩は「おいしい匂いに包まれて寝れるからいいじゃん」と取り合わなかったけど。


 それはさておき、松隆の部屋の様子は夏と変わっていない。ベッドにこたつ机(ただしこたつ布団はまだない)、ソファと本棚代わりのカラーボックスがあるだけで、テレビはなく、代わりにノートパソコンが部屋の隅に置いてある。「テレビは見ないしパソコンで事足りる」という理由らしいけれど、そのくせダイニングキッチンには2人がけの食事テーブルがあって、それは「床に座って食事はなんとなくイヤ」と、必要最小限の家具だけを揃えたわけでもないらしい。家具は焦げ茶色で統一されていて、ソファだけが深緑で差し色になっている、そんなナチュラルな空間であるはずなのに、ナチュラル色特有の暖かさみたいなものがなく、全体的に殺風景だ。松隆の人当りの良さしか知らないと意外だけれど、興味のないものにはとことん興味のない性格を知っていると松隆らしい。


「お茶というか、紅茶淹れるんで。適当にソファにでもどうぞ」

「お前って生意気だけどちゃんと接待はできるよな」

「え、っていうか紅茶くらい淹れるよ。松隆、病み上がりなんだから座ってな」

「いいですよ、先輩方も一応お客さんですし」


 悠々とソファに座り込む烏間先輩を残してダイニングキッチンへ行けば、松隆は冷蔵庫から紅茶の葉が入った黒い缶を取り出していた。レトルトの紅茶パックではなくて茶葉、しかもマリアージュフレールときた。


「……ふらっと来た先輩にマリアージュフレールを出す男子大学生なんている?」

「お盆に帰省したときに実家にあったのを持ってきたんです。さすがに自分で買ったりなんかしません」松隆は苦笑して「コーヒーメーカーは1人分用しか持ってないですし、そもそも多人数用のコーヒーメーカーなんて邪魔だしで、お茶を出すってなると紅茶を用意しておくほうが気楽なんです」


 理由は分からなくもないけれど、そもそも論として、大学生が一人暮らしの部屋でお茶を出すことなんて想定しているものだろうか。少なくとも私は想定していない。もしうちに烏間先輩がアポなしで来たら、私は水道水を出すことしかできないだろう。


「松隆って時々ブルジョワみたいな発想持ってるよね」

「じゃあ、これはさながらノブレスオブリージュですかね」

「病人にさえ施しを受ける私と烏間先輩、やばくない?」


 松隆の部屋には電気ケトルはなく、インテリアの一部にでもなりそうな小ぶりのケトルがある。コンロに乗ったままのそれを手に取り、お湯を沸かす準備をしようとしたとき。


「ちょっとすみません」 


 不意に、松隆の左手が私の左手の隣に並び、ハーブのような柔らかい香りが鼻孔をくすぐった。更に、私の背中に触れないよう気を付けながらも、どうしようもなく触れそうなほどに体が近づく、そんな気配を背中に感じて思わずドキリとした。


 私の背後から、松隆がキッチンの上の棚に右手を伸ばしたのだ。


 そのまま、私の頭上をこえて伸びた手が、私と松隆の身長差を教える。固まってしまった私の視線の先にあるのは、並んだ2つの左手。一見して男女であることが分かるほど、その大きさは違っていた。


 その左手がすっと引っ込められる。同時に背中から松隆の気配も離れた。振り向くと、松隆はいつものなんでもない表情で片手にポットを持っている。


「……なんですか?」

「……いや、なんでも」


 慌ててシンク側に顔を向けた。ドキドキと、さっきの一瞬のときめきの余韻が残っている。……そうだ、ときめきだ。一瞬自問しかけたけれど、さっきの感覚の正体なんて自明だった。


「先輩?」


 松隆は後輩で、そんな対象に見ることなんてないと笑い飛ばしていたのに、矛盾した自分の感覚を嗤ってしまいたくなった──そんな余裕はないけれど。


 でもさっきのは、ただの反射だ。いつもただの後輩としか思っていなかった松隆が、急に一人の男に思えて反射的に驚いただけだ。ただの、脊髄せきずい反射。


 ──じゃあ、紘が茉莉に同じ感覚を抱いても許せる? その自問への自答が、紘への裏切りのようで考えるのはやめた。


「珍しいよね、電気ケトル持ってないの」


 下手くそな誤魔化し方をしながら、慌ててケトルにお水を注ぐ。背後では少し釈然しゃくぜんとしないように感じているのが伝わってきたけれど、そこで私を問い詰めるほど松隆は子供ではない。


「まあ。最初は便利かなとも思ったんですけど、効率が悪いんじゃないかなと思いまして」

「というと?」

「なんていうか、電気ケトル単体よりも、コンロのほうが発電効率は高そうじゃないですか。だからキッチンでケトルを使ってお湯を沸かすほうが消費電力は少ないんじゃないかって」

「ああ、なるほど」


 それは確かに考えたことがなかったかもしれない。松隆は「調べたわけじゃないですよ、なんとなくの直感です」と肩を竦める。


「ブルジョワかと思ったら途端に主婦みたいなこと言うじゃん」

「家事だの電気代だのにうるさい幼馴染がいまして。実は僕が言い出したことではないです」


 そう微笑んだ松隆の横顔は、まるで楽しい思い出を人に話すことができて嬉しい、そんな表情でびっくりしてしまった。親し気な口調から、その幼馴染への信頼が伝わってくる。


 そして、“信頼”というキーワードからふと、テニスコートで烏間先輩と話したことを思い出してしまった。烏間先輩と彼女さんとの間には信頼関係がある。松隆と松隆の幼馴染だって──少なくとも彼女じゃないようだし、好きなのかどうなのかも知らないけど──そうだ。


 茉莉との関係を紘に問いただす私と、松隆との関係を私に怒ってみせる紘。私達の間には、烏間先輩と彼女さん、松隆とその幼馴染のような信頼関係がない……足りてない、のだろうか。そして、私がさっき松隆に感じてしまったものは、紘に信頼されるに足る人間でないことの裏付けなのだろうか──。


「自分の部屋で自分以外の人間がキッチンに立ってるって、変な感じですね」


 きっと私はぼんやりとしてしまっていたのだろう。松隆の声で我に返り、松隆がリビングに戻ろうとしているのを見て慌ててリビングに戻った。烏間先輩はソファを離れ、我が物顔で本棚を物色している。


「松隆、成葉なるは菖子しょうこ好きなの?」

「ええ。知ってるんですか?」

「んー、ミーハーだけどな。『Good bye my...』が何年か前に映画化したろ、あれで知った」

「誰ですか、それ」


 烏間先輩の隣に屈むと、授業の指定教科書のほかに何冊か文庫本が並んでいて、そのうちいくつかの本の作者が『成葉菖子』だった。烏間先輩が言った『Good bye my...』のほかに『Everlasting ever words』『目蓋まぶたの裏に』『君のいない夏』がある。どれも知らない。


「有名なんですか?」

「いやー、微妙? 結局、ヒットしたのって『Good bye my...』だけだよな」


 烏間先輩は肩を竦め、松隆も「ですね」と頷き『Good bye my...』を手に取る。表紙はアニメーションイラストで、松隆がそんなのを持っているのは意外だった。


「この新装版を持ってるとミーハーって言われちゃうかもしれないんですけど」どうやらもともとはありふれた文庫本の表紙だったらしい「昔から好きで、これだけアニメーション映画化されたんですよ。CMくらい、見たことあるんじゃないですか?」

「んー、見覚えがあるような、ないような」

「てか、もうすぐ金ローでやるんじゃなかったっけ」

「え、そうなんです?」


 珍しく松隆が驚いた声を出し、スマホて調べ始める。よっぽど好きらしい。


「どんな話なんですか? この『Good bye my...』って」

「一言でいうと、テーマは愛のかたちかな」

「…………」

「俺が言ってるんじゃないって、世間的にそう言われてるって。な、松隆」

「ええ」松隆はスマホから顔を上げずに「魔女が人間の孤児を拾って育てる話です。魔女には、いわゆる人間らしい愛情が欠如しているという設定なんですけど、まあ、孤児を通じて愛情の与え方を知っていくというか、そんな話ですね。人間の愛情と魔女の愛情のすれ違いが描かれているんで、テーマを一言でいうなら愛のかたち」

「松隆がオタクに見えた」

「コイツは結構そういうところあるよ」


 急に饒舌じょうぜつになった松隆は「あ、月末にあるんですね」と金ローのスケジュールを確認し、お湯が沸いた音でキッチンに引っ込んだ。紅茶の淹れ方なんて知らないので松隆に任せよう、と私はそのまま『恋を定義するなら、君のいない夏』を手に取る。背表紙のあらすじをざっと読めば、タイトルのとおり恋愛ものだった。松隆がそんなジャンルを読むなんて意外だ。……なんだか、さっきから松隆の意外な一面ばかり見ている気がする。


「愛とか恋の話が多いんです?」

「いや、そんなことないよ。それこそ『Everlasting ever words』はSFで、恋愛要素はないし。『目蓋の裏に』は短編集だっけな」

「なるほど」キッチンを振り向きながら「ねー、松隆、この『Good bye my...』借りていい?」

「いいですよ」お湯をポットに注ぎながら「原作のほうがいいんで、金ローを見る前にぜひ」


 忘れないうちにとカバンに文庫本を突っ込み、キッチンに戻って松隆を手伝う。さすが高級品、マグカップに注ぐにはもったいない香りが漂ってきた。


「人生で飲んだ中で一番高級かも」

「それはよかったです。でも未開封のときより香りが落ちちゃってるんで、そこは申し訳ないですね」

「大丈夫、どうせ分からないから」

「そんなこと言ってると先輩にはあげませんよ」


 そんな話をしながらマグカップとポットを持ってリビングに戻ると、ソファに座り直した烏間先輩が笑っていた。


「なんですか?」

「いや、お前らカップルみたいな会話してるなと思って」

「そうですか?」

「そりゃ、大宮が怒るわけだよな」

「先輩!」

「大宮先輩が?」


 その話はまだ松隆にはしていない! 慌てて烏間先輩を止めたけれど、時すでに遅し、大宮先輩は紅茶の注がれたマグカップを手に取りながら「え、松隆は知らない……?」とばつの悪そうな顔をした。ソファに座りながら私は額を押さえる。不幸中の幸いなのは、松隆が「ああ、いつものことね……」とでも言いたげな顔をしていることだ。


「ごめん、空木のことだから松隆本人にも話してるものだと」

「さすがに話しませんよ!」

「僕と仲が良すぎだとでも言われたんですか?」ぴたりと言い当てながら「よかったじゃないですか、大宮先輩に嫉妬されてますよ」なんて飄々ひょうひょうとしている。


「……いや……そういう単純な話じゃ……」

「そういう単純な話じゃなくて?」

「……まあ、単純な話かもしれません」


 紘は私と松隆の関係に嫉妬するけど、私が紘と茉莉の仲に嫉妬することは許されず、浮気の定義はどこからなのか日々悩んでいます──そんな馬鹿正直な気持ちを先輩に吐露とろすることはできなかった。


「あ、烏間先輩、いいですよ。生葉先輩と大宮先輩の関係については日々色々と生葉先輩ご本人からうかがってますんで、生葉先輩に気を遣って烏間先輩が口をつぐむ必要はありません」

「お前は私に気を遣え!」

「じゃあ遠慮なく話すけど」

「先輩も私に気を遣ってくださいよ!」

「大宮と富野よりお前らのほうが仲良いだろ」

「えっ」

「光栄ですね」


 困惑してしまった私とは裏腹に、松隆は、本心なのかそうでないのか分からない、ただ適切なコミュニケーションとしてそう答えただけのような声音だ。松隆のリアクションは流すことに決めた。

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