第18話 井浦の逃避行②
幻聴がまた聞こえた。
最寄りの矢津橋駅の近くまで来たところで、複数の声が聞こえた。子供、老人、大人、見渡す限り、自分の近くにいる者たちの声だった。その声と喋っている口の動きがチグハグで、すぐに例の幻聴と分かった。壁の向こうの会話みたいにくぐもっていた声が、次第に明瞭になってきた。井浦は咄嗟に耳を手で塞いだ。けれど塞いだでけでは意味がなかった。
頭の中に響いてくる声はとても厭な感じがした。気持ちの悪いこと、蔑みや怒り、後悔、卑猥で下衆なことを平然と言っている。仕事のことや学校のこと、家に戻ってやらなければいけないこと、普通のことを言うものもあったが、それらの声を聞いてると、冷や汗や頭痛に襲われた。気づくと道端で屈みこんでいた。
しばらくその場で深呼吸をしたり、目を閉じたりしてとにかく心を落ち着かせようと努める。
幸い、程なくして幻聴は治まった。
そのまま学校に向かうべきかと、悩んで、水窪とのメールを思い出した。みささぎ駅から歩いたところにある精神科のクリニック。そこへ行ってみようと井浦はすぐに電車に乗った。
その間にも何度も幻聴に悩まされながら、井浦は霧島クリニックに辿り着いた。
「幻聴…ではないかもしれないね」
院長の霧島医師は一通り問診した後、歯切れ悪くそう言った。
「どういうことなんでしょうか」
井浦には幻聴でなければこの症状が何なのか、腑に落ちない。幻聴ではないという意見がすでに予想に反している。
「精神感応って言葉知ってるかな?」
白髪まじりの頭髪で六十代ぐらいだろうか、霧島医師はゆったりとイスの背もたれに体を預けて訊き返した。
「テレパシーという、あれですか?超能力に挙げられる」
うんうんと満足そうに霧島医師は
「それだね。君の場合、それの可能性が高い。だから君が聞いたのは、他人の思考だろう。心の声というやつだ」
超能力のことを持ち出して、この医師はふざけているのかと井浦は訝しんだが、当の医師はごく真面目な表情だ。
「…根拠は何なんでしょうか」
怪しい医者かもしれないと思いながらも、彼なりの理論があれば聞いておこうと井浦は思った。霧島医師はデスク上のパソコンを操作して大きなモニターに画像を表示させた。
「こんな紋様、見覚えあるでしょ」
言われるまでもなく、井浦は思い出していた。自室にあった小さな渦巻に似た紋様。モニターに映し出されたそれは自室にあった物とデザインや色、大きさも異なったが、十分に同類だと見受けられた。多少の差異はあったが波打ったような複雑な渦巻状のデザインはよく似ていた。
「このマークがテレパシーの根拠ってことですか」
「その通り。精神感応、僕らの業界では突発性精神波長過剰感応症候群、て言ったりするんだけど、要はテレパシストのことだね。でこのマークは発症したばかりのテレパシストによく見られる物だ。この画像は過去に君と同様の症状を出した人のものだけど、君が見たと言うのはどんな物だったかな?」
「良く似ています。自宅で見たものと」
井浦はこの医師のことを信頼して良いのかもしれないと思い始めていた。
「ここに来るまでにも声が聞こえたってことだけど、多分その場所にもあるはずだよ」
「このマークは一体何なのですか?」
「人は電磁波を放っている。微弱なものだけれど。精神感応を発症すると、多くは発作的だが、電磁波が変異して足下や手が触れている所なんかを焼くんだ。それがこの紋様になる。紋様の造形に違いがあることから、個人差はあることが分かっている」
筋肉は動く時に電磁波を出すことや、人体からは赤外線が出ていることは知っていたが―。
「そんなことになっていたんですね…。先生、この病気は治るんですか?」
井浦にはそこが最も大事なことだ。誰だってそうだろう。人の声が勝手に耳に入ってくるのだ。発症する度に気分を悪くして体調を崩してしまうのでは、まともな生活など送れるはずがない。
「はっきり言うと完治は難しい。世界でも何人もいない症例で、まだ完治した例はない。症状を和らげる薬はあるから、それを出して様子を見てみよう。それと、今日は一人のようだけど次来るときは親御さんも一緒に来て下さい」
症状が症状なだけに、治療も長引くし家族ぐるみで取り組む必要があるからと、霧島医師は説明した。
井浦は処方された薬をもらいその日は帰宅した。親には説明した。親にはにわかには理解しがたい話だったので近いうちにクリニックに揃って行くことになった。
井浦が出て行った後、霧島医師は受話器を取るとどこかへと電話をかけた。
「私です。発芽した人物が現れました。ええ、野良です」
霧島医師は手短にそう報告した。
出された薬のお陰か症状はあまり出なかったが、それでも発作は完全に治まらなかった。
少しはましになったのは発作が起こる直前に、「来る」と分かるようになったからだ。そんな時にすぐ薬を出しておけば、早く服用することが出来、症状を早く抑えることが出来た。
医師の言う通り、症状が出た時、自分の足下にあの紋様が焼き付けられているのも見た。
翌日、井浦は違和感を覚えた。症状が出る気配を感じて、声が聞こえてくる。いつもそのボリュームはすぐ近くで話しているように感じていた。その時もそうだった。いい加減煩わしくなり、もっと声を落とせと心の中で叫んだ。あるいはミキサー卓のつまみでボリュームを下げるイメージが浮かんだからか、声は小さくなった。
こんな風に井浦は急速に症状をコントロールできるようになっていく。日を追うごとに、いや時間を追うごとに新たな気付きがあり、自分の症状が単なる病気ではなく、正真正銘の超能力だと確信するようになった。
声のボリュームは相手との距離に相対するようになった。相手が離れていれば声は小さく、近ければ大きくなる。声が聞こえる範囲にも限度があると気付いた。おおよそ半径5メートルくらいだろうか。あまり離れると声が聞こえなくなってしまうのだ。任意の相手の声だけをピックアップするように聞くことも出来るようになった。
また声を制御出来るようになってからは、あの紋様は出現しなくなっていた。
この
それでも声を聞く状態になるにはまだやり方が掴めずにいた。スイッチのオン・オフが分からないのだ。学校にいるときでも勝手にスイッチが入ることもあった。その度に人気のない所に避難しなければならなかった。
再び霧島クリニックを母親と一緒に訪れた時には、症状は苦になっていなかった。その事を霧島医師に伝えると、今度大きな病院で精密検査をしてみようと提案された。井浦としてはこれを治すのはもったいなく思えた。ここまで馴れてくれば逆にこの体質を使って何か役に立つことが出来るのではないかと考えるようになっていた。
親の心配もあったので検査は受けることにし、その日程は後で報せてくれることになった。
その後日、井浦はさらに新たな発見をした。声が聞こえるだけではなく、自分の思考を、心の声を相手に届けることも可能になったのだ。
井浦は考えていた。自分は今、他人の思考を声としてキャッチ、受信するアンテナのようなものだ。ひょっとしたら、その逆も可能ではないのか?受信ではなく送信を。そう思って、学校で試してみた。
朝、校門から昇降口までのストロークは登校する生徒がぞろぞろ歩いていく。自分の前方を歩く生徒の背中に向かって、心の中で声をかけてみる。意識を鋭い針にするようなイメージが湧いた。相手はびくっと後ろを振り返った。井浦は目を合わせないようにして、それとなくその生徒の様子を窺った。彼女は首をひねった。横でその友人らしき生徒が「どうしたの」と訊いている。「うん、誰かに後ろから声をかけられたと思ったんだけど」「何も聞こえなかったよ」そんな会話が聞こえた。
実験は成功した。しかも、スイッチの入れ方も分かった。これは大きな収穫だった。
井浦はほくそ笑んだ。上手くいった。では次だ。次にすること。井浦はすでに考えをまとめていた。
男子生徒が二人、並んで歩いている。道順からしてこの先の体育館か部室棟だろう。二人はバスケ部員だから、部活の練習に向かおうとしているのだろう。彼らから少し距離を置いて井浦は後を追って歩いた。井浦の他、近くに生徒はいない。
「おい。綿貫、鷲坂」
声に立ち止まって、二人が振り向いた。井浦は手を二人の顔の前で横に振った。
一陣の風が吹いた。
二人は、呆然として立ち尽くしていた。ただ目は虚空を見つめて、焦点も合っていなかった。
「明日から学校、来ない方が良いと思うよ」
井浦がそう言うと、二人は「ああ、そうだな」「そうしないとな」と呟くようにいって踵を返して去って行った。二人が去るのを見届けてから、ほう、と安堵の息をついた。
翌日から二人は学校に来なくなった。
精神感応と霧島医師は言っていた。相手の思考を受信出来る体質。試してみればその逆である送信も可能だった。送信、つまり、相手の精神、心に自分から働きかけて影響を与える行為。
おそらく、このまま修練を積めば、人の思考を把握できるどころか、精神を破壊することも可能になるだろう。またその逆に、心を閉ざした人間の精神に干渉して回復させたり、記憶に干渉して記憶障害などの治療に使うことも出来るはずだ。
綿貫と鷲坂には、精神を破壊することまではしなかった。やったのは不安を「植え付ける」こと。二人の心には絶えず不安感、恐怖感が起こってくるはずだ。理屈は分からないが、出来そうな気がしたのでやってみたらちゃんと出来た。
精神干渉は言ってしまえば強力なマインドコントロールのようなものだ。相手の心に精神干渉すれば、ある程度行動を操ることが出来る。仮説を立てての実行だったが思いのほか上手くいった。あとは数週間か数ヶ月したら二人に植えた不安や恐怖の要素を取り除けばいい。水窪の受けた辛さを思えば、彼らには多少苦しむ時間があってしかるべきだ。そう考えていた。
そして井浦はいじめグループの残りのメンバー、女子二人にも接触を図った。
要領は男子二人と一緒だったが、背後から黙ってやるのではなく、一度正面から水窪の件をどう思っているか、問い質すことにした。彼女らは反省しているのか。グループの中では女子二人の方が格上、主犯的な立場にあったのは、井浦はすでに知っていた。だから尚更、訊きたかった。
二人の返事は「そんなもん知るか」「勝手にあいつが休んでるだけでしょ」そんな言葉だった。
逆に井浦を
自失している二人に帰るよう命令して、井浦はその場を離れた。心の奥で塞き止めていた怒りが顔面に這い上がってくるのが分かった。何もかもが憎くなった。あの四人に植え付けた物を解除するのもやめてしまおうか。そんな考えも浮かんできた。
保健室で自習する形で学校に復帰し始めた水窪に、もう安心して良い、と伝えた。
その後日だった。探偵を名乗る男が現れたのは。
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