第21話 井浦の逃避行⑤

 井浦はひたすら走った。なるべく人がいない所を目指した。これ以上、自分の精神汚染の被害者を出すわけにはいかない。道中人が少しでも視界に入ると、井浦は必死に自分に『こらえろ堪えろ』と言い聞かせた。幸い、途中で誰かが倒れることはなかった。


 体力が持たず、井浦は走るのをやめて歩いた。学校からではどの道を行こうと、ある程度人の行き交うエリアを通ってしまう。そのことで井浦は少し諦めかけていた。

 歩きながら、学校で倒れた生徒たちの姿を思い起こしてしまう。これは意識せずにはいられず、さっきから何度も頭の中でリピート再生されてしまう。そしてその度、井浦は恐怖や不安や罪悪感に搦め捕られていた。

 

 ポケットの中の携帯電話を手にして、逡巡する。電話をすべきか、何も言わないままでいるべきか。歩きながら何度も考えを巡らして、井浦は携帯電話を耳にあてがった。携帯電話を握る手が、震えを堪えて余計に力が入った。

 一回、二回とコール音がしたところで相手が出た。


『もしもし?井浦君?』


 彼女の声はいつ聞いても優しい声だと思う。


「水窪さん、あの…」


 なかなか次の言葉が出て来ない。声も少し震えている。怖がっている自分が情けなく思えてきた。


『どうしたの?』


 水窪の促す声に、言うしかないんだと踏ん切りをつけて続けた。


「あの、俺もう学校には戻れない…。戻れないんだ。それで、君とももう会えない。ごめん。それじゃ」


 言い終えて水窪の何か言う声がスピーカから漏れるが、井浦は通話をオフにした。その時、この世の何もかもと、関係が断ち切れたような気がした。

 もっと何か言うべき事があったと思えて仕方がないが、あれ以上余計な事は言えなかった。あれが、あれだけが井浦の精一杯だった。


 井浦は歩き続けた。国道を渡ると、次第に民家も少なくなる。通りは車がひっきりなしに走って行くが、他に人と出くわす回数も減った。前方にはこんもりとした森が、暗くなり始めた空を背に鬱蒼として巨岩のように鎮座していた。あの森なら夜は人が来ないだろう。とにかく人のいない所に身を潜めたかった。


 その森、もとい小さな山なのだが、そこの頂上は荒れた岩山の上に観音像があり昔からの名所だ。井浦には中学の頃に遊びに来た時以来だった。当時はクラスメートの何人かで、山の近くにある自然公園で遊んだ。公園と併設で小さなプラネタリウムがあって、そこへも立ち寄った。一年生の頃だ。あの時、水窪もいたんだったと井浦は山頂の岩に腰を下ろして思い出していた。懐かしさもこみ上げてくる。けれどそれも明日までだ。その後は自分がどうなるか分からないのだから。この街には戻ってくることはないのだろう。あの探偵の言う事が本当ならば。


 遠くに寂しく街の灯りが見える。街そのものは大きい都市の部類に入るのだろうけど、これといって目立って何かがあるとも言えない、そんな街だ。

 何かがあるようで無い、中途半端な街だと、そんな感想を井浦に限らず、彼の周囲の人間は大なり小なり抱いているようだった。


 初夏でも夜は冷えそうだ。吹いて来た風の温度が思ったよりも涼しかった。考えてもみれば自分は途中まで走り通しだったわけだし、しかも今日は体調が悪くて冷や汗もたくさんかいていたのだと、井浦は体にへばりついたシャツを引っ張りながら思い出していた。当然、汗で余計に体は冷えてしまうはずだ。


「段ボールか新聞紙でも探しておけば良かったかなぁ…」


 山頂に安置された観音像の近くには用具入れのような小さな物置があった。井浦はその陰に隠れるようにして腰をおろした。ここなら幾分風が遮られる。

 明日、最後の行動を取ろう。

 

 そう自分に言い聞かせて井浦は目を瞑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る