第20話 井浦の逃避行④
井浦はまっすぐ家には戻らず、人気のない公園のベンチに座ってしばらく考えていた。
あの探偵はやはり信用できない。探偵は気付いていないようだったが、井浦はずっと感覚をオンにしていた。相手の思考の声は聞こえはしなかった。それでも井浦には相手が嘘をついているかどうかは分かっていた。
“声の気配”とでも言うべきか、相手の心境をなんとなく察することができるようになっていた。本当につい先日に身に付いた感覚だったので探偵はそこまで知り得なかったようだ。
まず依頼人と機関の話だ。これはどちらとも言えなかった。真実と嘘が織り混ざった感じだった。嘘が混じっている時点でアウトだ。能力の暴走の話。これは真実。メリット・デメリットの話も真実。嘘はついていなかった。そして依頼人に会ってから結論を出しても良いと言う話。これは嘘だった。井浦が会ってから答を決めたいと言った時、探偵からせせら笑うような気配が伝わってきた。ポーカーフェイスを装っていたので尚更その気配ははっきりしていた。
相手は結論がどうであれ、依頼人と会う時点で恐らく自分の身柄は向こうのものになってしまうに違いない。相手はこちらの家も学校も知っている。その気になれば強引にでも連れて行くのだろう。あるいは家族を人質にして機関に参加するよう脅してくることも考えられる。どちらにせよ、道は一つしかないのだ。今こうして平穏に居られるのは執行猶予期間みたいなものだろうか。次に会うときまでに、別れの挨拶を済ませておけと、そういうことなのだろう。
何分、何時間そこにいただろうか、自分でもよく分からないくらいに井浦はベンチに座っていた。空を見上げてため息をついた。どう考えてもやはり道は一つしかなさそうだった。謎の組織に入るしか助かる道はなさそうだ。自分が、ではなく家族や、友人、それにあの子が、だ。自分はこの先どうなってしまうのだろう。
「せめて、手は出さないように念を押しておくしかないのかな…」
力無く呟いて、井浦はベンチから腰を上げた。
その日井浦はいつものように学校に向かった。探偵と約束した日を翌日に控えていた。
いつもと代わり映えのない、普通の朝の光景。駅を降りて緩やかな上り坂を歩いていく生徒たち。自転車で追い越して行く生徒。校門で挨拶をしている生活指導の先生の姿。
朝のホームルームで聞く担任の声。教室の中の他愛ない会話。授業中の教科書をめくる音。ノートの上を走るシャーペンの音。時折表から聞こえてくる、ひび割れて間の抜けた古紙回収業者のアナウンス。窓から入る、少しじとっとした風。井浦には色々な景色や音が、ここ数日はとても新鮮なものに思えていた。
別段家族や友人には何も話さなかったし、伝えずにいた。誰にも言わず、ある日こつ然と姿を消した方がまだ良いのではないかと彼なりに判断したからだ。親はきっと悲しむだろう。友人はどうだろう。あの子は、彼女は、悲しむだろうか。
頬に違和感を覚えて、井浦はふと我に返った。汗がつうと頬を伝っていた。手の甲で汗を拭いながら、随分冷や汗をかいてることに気付いた。夏風邪でも引いたのかもしれない。そういえば頭が熱っぽい気がする。けれどそんなにしんどいわけではない。放っておいても大丈夫だろう。井浦はそう思って、もう受ける事のないだろう授業に集中しなおした。
その日の最後のホームルームが終わり、井浦が帰り支度を済ませたところで声を掛けられた。
「井浦君だよね」
知らない女子と、隣には背の高い男子が一人。どちらも顔なら見かけた事はある。同じ二年生なのはわかるが、やはり面と向かって話した事はない。男子の首にかけたヘッドホンはスリットのようなデザインがあり、そこがキラリと光っている。
「そうですけど、どちら様?」
自然と警戒の色が出ていたと井浦は自覚した。
「わたしは紺藤祐実って言います。こっちは緒方。夏希ちゃんの友だちで一年の時バトミントン部で一緒でした。少し訊きたいことがあるんだけど、ちょっとだけ時間良いかな」
紺藤と名乗ったその女子はそう言ってきた。
力強い人だと井浦は思った。喋り方とかではなく、雰囲気でそう感じた。きっと眼差しのせいかもしれない。彼女の瞳は何か力がたぎっているようにギラギラしていた。
「まるで刑事みたいですね。何の話ですか」
水窪の名前が出たことで井浦は内心で身構えていた。
「君、霧島クリニックて知ってるよね。どこか悪いの?」
クリニックの名前を聞いて井浦は不審に思った。この二人もどこかの回し者かもしれない。
「場所を変えてもらえませんか。ここじゃ落ち着かないんで」
周囲の目も気になったが、少し様子を探るべきかもしれないと井浦は考えて場所を移動することにした。
4階のなるべく人気のない場所、階段の上がったところで井浦は二人と対峙した。
ここに来るまでの間に井浦は感覚をオンにするつもりだった。けれどスイッチは何度やっても入らなかった。少し体調を崩しているせいかもしれない。
感覚が働かなければ相手の嘘も見破れない。そう思うと、言い知れない不安がこみ上げてきた。あの探偵に出会った時から、否、あの医師に精神感応の体質と告げられた時から、井浦は常に不安だった。
彼は極度に人を警戒するようになっていた。自身でも気付かないうちに。
今までなら能力を発揮できれば相手が何者かは看破できたし、それで人をむやみに警戒したり恐れたりする必要はなくなったのだが、能力のスイッチが入らない今、目の前の相手が何を思っているのかが分からない事がひどく恐ろしいことに思えて仕方がなかった。
他人の思考がはっきりわからないという、人として当然のそのことに、彼は最早順応出来なくなってしまっていた。声として他人の思考を聞いてしまったが為に、彼は普通の人間との生活に能力無しでは適応できなくなっていた。
そのことも踏まえてあの探偵は、自分のことを連れ去ろうとしているのだろうか。きっとそうだろう。井浦は不思議と確信めいたものを感じていた。
精神科にかかるほど悪いのかと、紺藤は改めて訊いてきた。とぼけならがらも井浦は悩み相談に、いわばカウンセリングのために通ったのだと説明した。
実際、クリニックではカウンセリングもしている。水窪がそうしているのは聞き知っていたのだし。水窪から聞いているのなら当然、そのことも把握しているだろうし、嘘ともばれにくいだろう。
「そう。それじゃあ、この写真のものに見覚えはある?」
紺藤が携帯電話を突き出して見せた。画面にはあの紋様が映っていた。見覚え?当然あった。自分が霧島クリニックに言った際、まだ能力の制御がうまく出来なくて突発的に能力を発動させてしまった時のものだろう。
「…いえ、ないですね」
そして緒方からその写真の紋様がたちの悪い落描きで、彼らはそれを描いている人物を突き止めようとしているのだと説明された。
なるほど、彼らはあの紋様がただの落描きだと思っているわけだ。話から察するにあの探偵のような、どこぞの怪しげな組織の使い走りではなさそうだ。
井浦はそんなものは自分は知らないと言った。緒方はそれで納得したのか、突っかかる事なく大人しく退いた。
「ごめん、あと」と紺藤が付け足すように切り出して、
例の四人の名前が出て、井浦は胸の内でまた警戒心を強めた。やはり来たか。
井浦は一応知っていると答えた。一年生のときは同じクラスだったのだ。隠す必要もない。
一問一答のようなやり取りの、紺藤は井浦に彼らが休んでいる理由を知っているのではないかと、強い確信があるように訊いた。
水窪に自分が思わせぶりなことを言ったからだろう。彼らはもう学校に来ないだろう、と。それを彼女の友人である紺藤が聞いて、こうして本人に直に確認、いや尋問をしに来たということだ。まさかこんな形で探りを入れられるとは井浦は思わなかった。計算外だった。この辺りが井浦の未熟さとも言えた。
井浦が「知らない」と言っても水窪から証言を得ている以上、簡単に彼女は退いてくれない。紺藤はまくしたてるように話して「何も知らないなんてことないんじゃない」と詰め寄った。
井浦はそんな彼女の様子に、やや呆れながら説明した。もちろん本当の事は話さずに。綿貫ら男子二人に精神干渉をしているところを見られていたら、少々誤摩化すのに手間がかかっただろうが、幸いそこは知らないようだった。
とにかく井浦は奥村たちとは立ち話をしたこと、それは水窪のことについてで、結果なぜか自分が罵られる状態になっていたことを説明した。
それでも紺藤は井浦にその時何の話をしたのかと執拗に訊いてきた。これ以上事細かに、とは言わなくても多少事情を説明すれば、この紺藤と言う女子はまた何かしら突っ込んでくるだろうと思われ、またそのことで自分の体質の事を誤摩化しながら説明するのが億劫に思われた。
そうして井浦は彼女に対して適当にあしらいながらこの話題を切り上げようとした。しばらく黙って話を聞いていた緒方が、紺藤に助言をしたことで、彼女はこの話題を終わりにしてくれた。
「僕からも訊いて良いですか。なぜ僕がそのマーク、落描きですか。そのこと知っていると思ったんですか」
すかさず井浦は別の話題に切り替えた。
「あーそれはね」と紺藤は話そうとして、視線を泳がせた。どうも上手く説明ができないようだ。そこを緒方が代わって説明してくれた。水窪から話を聞いたこと、落描き犯は霧島クリニックの関係者、恐らく同じ学校の生徒でクリニックに通っている、通っていた人物だろうということを彼は教えてくれた。
掻い摘んだ説明だったが、よくわかった。緒方の説明に横でなんども首肯したり、先の話し振りからしてもやはりただのお人好しが落描きを止めさせるために奔走しているのだと、井浦には思えた。
一通り話した所で、紺藤が不意にこちらを覗き込むようにして「大丈夫?」と訊いてきた。
井浦も何を訊かれたのか分からず「何が?」と訊き返す。
「顔色が悪そうだし、冷や汗も」
言われて井浦は腕で慌てて額を拭った。また知らぬ間に冷や汗をかいていた。
「え?あ、あぁ。ちょっと暑くて。大丈夫ですよ」
井浦は自分でも驚いてしまっていた。
「まー無理すんなよ。紺藤、行こうぜ」
井浦の肩をポンと叩いて緒方は階段を降りていく。祐実もそれじゃ、と一言残して勲を追った。二人を見送りながら、井浦はふと思いついた。ここで話してしまっても良いかもしれないと。冗談のように受け取られる程度だろうし、どうせ明日以降、自分が彼らと関わることはないのだ。冗談としてでも良い。誰かに自分の秘密を話しておいても良いんじゃないかと、そう思った。
彼ら、特に紺藤になら聞かれても良いとも思ったのだ。この少女は別段怪しい組織にいるわけでもないようだし、彼女なら特に害はもたらさないように思えた。
そして「実は」と階段を降りて行く二人に声をかけた。
「綿貫君や奥村さんたちが学校に来ないのはね、超能力で精神を破壊されたからなんですよ」
案の定、あっけにとられたような顔をされてしまった。
昼間よりも熱が高くなっているような気がした。本当に夏風邪を拗≪こじ≫らせてしまったようだ。
この時はまだ井浦はそう思っていた。
靴を履き替えて昇降口を出ようとした所で井浦は激しい目眩を覚えた。目の前の光景がぐにゃりと歪んだかと思うと、視界がぼやけたり、元に戻ったりして、足下が覚束なくなっていた。
よたよたと歩いていたせいか、いつの間にか昇降口の外に出ていた。背筋を何かが這い上がって来るような感触に寒気がした。倒れないように昇降口のガラス戸に手をついて息を整えようと、深呼吸を繰り返す。
「ぐぁっ!」
井浦は低く呻いて、咄嗟に耳を塞いだ。
一瞬。ほんの一瞬、ライブ会場のスピーカーのすぐそばで音を聞くような大音量で、たくさんの人間の声が井浦の頭の中で反響した。
精神感応がオンになっていたのだとすぐに分かったが、井浦にはスイッチを入れた自覚はなかった。気付かないうちにそれは作用していた。通常の時よりも他人の思考の声は音量が大きく、まさにノイズだ。
呼吸も落ち着いて視界が元に戻り始めた。
人の足が真っ先に目についた。寝転んでいる?いや違う。倒れていた。井浦は跳ねるように頭をあげて周りを見渡した。
何人も生徒が、男子も女子も関係なく倒れていた。
『近いうちに反動で力が制御を押しのける、分かりやすく言えば暴走状態に』
すぐにあの探偵の言葉が思い出された。
これが、暴走状態、というものだろうか。自分で疑問視しながらも井浦はすでに確信していた。
『周囲の人間が精神を汚染され…』『…廃人にさせる』『範囲が一気に拡大…』『被害は甚大だ』『そして君自身も…死亡する』
次々と探偵の言った言葉が蘇ってくる。今井浦の目の前に広がる光景が、探偵の言っていたことなのだ。話した事もない生徒が倒れている。精神汚染だ。井浦が奥村や尾野ら四人の生徒に施した精神干渉よりも強力に作用した状態だ。思考回路、人格、記憶、およそ人の心に結びつく領域全てを破壊しかねない過干渉。自分が、自分の異能の力が無関係の人を傷つけてしまった。
膝が笑っていた。冷や汗がだらりと頬を垂れて地面に落ちた。
どこかで悲鳴が上がっている。すぐに他の生徒たちが駆けつけてくる気配がする。助けを呼ぶ者の大声や足音、ざわめき、金管楽器の練習する音色、いろんな音は遠いところで聞こえている。それが能力の副作用や後遺症なのか、頭から血が引いていたからなのか、井浦には分からなかった。ただ、怖い、とだけ思った。
自分の特異体質が御しきれないことがこんなに怖いものとは、思っていなかった。井浦は奥の歯がうまく噛み合ない、不安定な気持ちになっていた。そして。
彼はその場に背を向けて走り出した。
彼が走り去った後には、あの紋様がくっきり残っていた。紋様はどこか禍々しく見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます