第19話 井浦の逃避行③

「君、井浦淳也君だね?」


 学校帰り、最寄りの矢津橋駅から自宅に戻る途中で男は声をかけてきた。知らない人物だ。当然井浦は怪訝な目で相手を窺う。

 四十過ぎの中年の男。強い癖毛で頭が膨らんだような髪型で大きめのショルダーバッグが目を引いた。


「いえ、違いますけど」


 迷いなく嘘をついた。不審な人間に正直に答えてやるほどお人好しでもない。それにこの体質の事もある。変な人間がアプローチしてくることもあるかもしれない。そう思っていたのでなお井浦は警戒心を強め、声を聞く時の感覚のスイッチを入れる。


「人違いしたかなぁ~」


 男はこめかみを掻いて困った顔をした。あまりにも芝居がかって嘘くさい。


「すみません。失礼します」


 そう言ってその場を後にしようとする。


 スイッチは入れたはずだった。けれど声は聞こえて来ない。周囲には人気はなく、今この場にいるのは自分と男だけだ。何かがおかしい。この男は警戒しなければ。とにかくまっすぐ家に帰るのは避けるべきだ。回り道をして駅に行き、学校に戻るか…。


 歩きながら井浦は模索した。

 背後から男が微かに笑う気配がした。


「てっきりこの先の杯田町3丁目211番地の井浦さんとこのご長男、淳也君と思ったんですけど。間違えましたかねぇ。県立羽塚≪はつか≫高校2年7組出席番号2番の」


 井浦はきっと男を睨んだ。この男はかなり警戒しなければいけない。全て把握している。自宅と家族構成も知っているような奴だ。おそらく今の発言は、その気になれば家族に危害を加えることもできる。そう暗に警告してきているのだ。また学校も知っている。どこに行っても逃げられないと、これも暗に示している。


 危険な男だ。自分はどうするべきか。


「だったら何ですか」

「あぁよかった。やっぱりご本人だった。なんだか話も聞いてもらえそうだし。立ち話も何ですから駅前のカフェとかで、どうですか」


 男は軽く笑った。


「ついていくしかないんでしょ。どうせ」

「話が早くて助かります。ぜひそうしてください」


 二人は連れ立ってカフェに向かった。

 カフェの小さな卓を挟んで二人は向かい合って座った。

 男は注文したマンゴーラッシーを一口飲むと、


「やはりイチゴシェイクの方が美味いと思うんだがな」


 ぼそりと呟いた。井浦はそんな男の言動は一切無視した。


「それで、ご用件は何ですか」


 ぶっきらぼうに井浦は訊いた。今も受信のスイッチは入れたままなのだが、やはり男の声は聞こえない。他の客の声は聞こえているのに。そんな体質がひょっとしてあるのかもしれない。自分が知らないだけで。


「まあ落ち着いて。まだ自己紹介もしていない。俺は探偵をしている者でね」


 男は名刺を一枚取り出し井浦に差し出した。


「茂木酩次郎さん…。変わった名前ですね。それで?」

「ある人から君を捜し出して欲しいと言われていてね。それで手掛かりを追って今こうして面会にこぎつけたわけだ。で、用件なんだがね、井浦君。君、その特異体質を世の為に活かしてみないか?」


 井浦の目がまた厳しくなる。やはりこの男は精神感応の体質について知っていた。


「そう怖い顔をしなさんな。君の体質については既に把握している。精神感応だってね。私生活も大変だろ。常備薬は手放せないし、人が多くいる所も億劫になってくる。家族とだってまともに生活できるか将来的にも不安になる。大変だろう?」


 なにせ人の心の声が聞こえてしまうから。人の聞きたくない声。人が聞かせたくない、聞かれて欲しくない心の声。そんなものが否応なく聞こえてしまうから。大変、などと簡単に言える程生易しくはない。

 本来ならば。


「でも今はそうでもないですよ。慥かに薬は常に持っておかないと不便ですが、症状は僕自身でだいぶコントロールできるようになったので、もう問題ないです」


 さっさと切り上げたい。けれどこの男は自宅も知っているし、学校も把握している。情報を集めているようだから、おそらく他にも色々知っているだろう。厄介だ。自分がこの男を引き離す為には何をすれば良いのか。


「そう、本当に制御できているようだね。君の一年の時のクラスメート、奥村さん、尾野さんだったかな。君が精神操作した女子二人。様子を拝見させてもらったけど大したものだ。こんな短期間にあそこまでの技術をみにつけるとは。驚愕だよ全く。でもね、まだまだ未熟だ。初心者としては良い線いってるが、プロから見ればまるでなってないな」


 茂木探偵は小馬鹿にするような目をして言った。

 やはり自分に関する事は何でも情報を集めていたようだ。


「未熟と仰いましたけど、何がいけなかったんでしょうね。結構自信あったんですけど」


 言いつつ、井浦は立ち上がりつつ素早く手を茂木探偵の眼前で横一線、薙いだ。

 手応えはあった。これでこの探偵はしばらく自失状態だ。その間に記憶野をいじってみよう。上手くいかなければ、最悪廃人にするしかないが、それもやむを得まい。


 井浦は眼前の男を凝視した。探偵は目の焦点を失って、口が半開きになりかけている。


「あなたには悪いけど、記憶をいじらせてもらいますよ」


 意識をぐっと鋭く集中させて、指先を探偵の額へと近づけようとして、その腕を掴まれた。

 井浦はぎょっとして咄嗟に腕を引っ込めようとしたが、相手の力はかなり強く、引き離す事が出来ない。ふと見れば探偵と目が合った。しっかりとこちらを見据えている。


「なんでだ。手応えは慥≪たし≫かにあったのに…」

「甘いね。相手の特異体質が分かっていながら何の対策もせずに近づくと思っていたのかい?」


 腕を絞るように掴まれて、井浦は微動だにできない。


「精神干渉を防ぐ手段てのもあったんですね。そんなこと知りませんでしたよ」


 余裕さを演出するため、いや、悔し紛れに落ち着いて話すものの、それとは裏腹に体は悲鳴を上げ始めていた。こめかみを冷や汗が伝っていくのが、やけに生々しく感じられた。


「知らない、ということは別に悪いことじゃないよ。少し言わせてもらえれば」


 ぱっと腕を放して探偵は言った。「まぁ座りなよ」と井浦に着席を促す。黙って井浦は座りなおした。


「君の甘さはまだある。例えばその制御力だ。おそらくその体質に変異…その手の業界じゃ発芽と呼ぶが、そうなった日からおそらく二、三ヶ月だろう。そんな短期間でここまで出来るようになるのは驚異的な成長だ。しかも独学なのだから。けれど、それは一時のものだと思った方が良い。今は君自身が能力に馴染んだだけで、うまく制御できるように思えていても、近いうちに反動で力が制御を押しのける、分かりやすく言えば暴走状態に陥る可能性が高い。君のように突発的に能力を身につけるケースは暴走しがちなんだよ。特に」


 掴まれていた腕をさすりながら、井浦は油断なく相手の様子を観察する。


「暴走するって穏やかじゃないですね。実際そうなったらどうなるんです?」

「君の場合なら周囲の人間が精神を汚染されるだろう。コントロールが利かないから廃人にさせることも十分考えられる。君はもう把握しているだろうが、その特異体質が影響を及ぼす範囲があるはずだ。その範囲が一気に拡大するかもしれない。そうなれば被害は甚大だ。そして君自身も放っておけば脳に超負荷がかかり、死亡する」

 はったりだと思う。まるっきりの嘘の可能性もある。怖がらせるようなことを言って自分の思うようにさせようとしいている。だがやけに真実味があると思ってしまっている。

「甘い点は他に何があるんですか」

「その負けず嫌いな性格、かな。プライドが高いとも言えるか。今も自分の能力が通じなくて悔しさでいっぱいなんだろ?そこをつけこまれる。そしてそこが弱点となる。相手にバレバレではこの先やっていけないぞ。大人になるための教訓とでも思ってくれ」

「肝に銘じときますよ。それで、世の為にどうとかって仰っていたのはどういう意味です?」


 胡散臭いとしか言いようがないですよ、と井浦は言った。


「そのままの意味だよ。依頼人は国際的な医療保健機関の人物で、君のような特異体質の人間だけが参加するプロジェクトを率いている。そこに参加して、治療困難な病気や怪我を治す手助けをして欲しい。まぁ細かい話はともかく、要は依頼人に一度会って欲しい。そういうことだ」

「僕に医者になれってことですか。返事は今すぐですか?」

「いいや。ちゃんと考えてから返事をしてもらって大丈夫だよ」

「どうも怪しいんですよね」


 井浦は背もたれに体を預け、わずかだが距離を取った。遠くから相手を観察するように見据える。


「国際的な機関とか言うなら、あなたみたいな探偵を雇ってアプローチするとは思えないんですけど。大学病院とか厚労省とかそういう所を介して連絡が来そうなものなのに。どこの機関なんですか」


 茂木探偵はくすりと笑った。苦笑い、のようにも見受けられたがどうも違う。


「いや、よく見ているな。感心したよ。依頼人の事は多くは話せない決まりでね。守秘義務というやつだ。依頼人の所属する機関というのも名前はまだ明かせないが、秘密の組織だと思ってくれ。ちなみに、俺は代行のエージェントみたいなものだ」

「はいそうですかと納得すると思いますか。それで」

「納得はできないだろうな。しかし事実だ。それにこの話は君の為でもあるんだ」

「どういう事ですか」

「さっきも言ったが君の体質はとても不安定だ。暴走状態になり死ぬ確率も高い。けれど機関に来ると誓約してもらえるなら、君の体質が安定するよう訓練やカウンセリングの体制を調えて迎える準備がある。機関のプログラムを受ければ余計な被害者を出さないし、君が死ぬ事もなくなる。良心的な井浦君なら悪い話ではないと思うんだが」


 茂木探偵は井浦の目を覗くように、彼の顔色を観察している。


「…だいたいこういう話ってデメリットが付き物だと思ってたんですけど。何か隠してませんか?」

「良い考え方だね。察しが良い。ずばり言うと、機関に参加すると君はもう君の家族や友人知人とは会えない。その後はずっと海外だし、仕事であちこちにいくことになるだろう。仕事であってもここに戻る事はないと思った方が良いな。」

「わからないですね。そんなデメリットがあって、かつ僕を依頼主に会わせるなら最初から拉致すればいいのでは?ここまで情報を正直に話さなくても良かったように思いますよ」

「こうやって面と向かって直接話す事が重要なんだ。機関の中には強行して身柄をさらおうとする輩も多いが、少なくとも私はそうはしない。話をして相手が考えた上で答を出すべきだ」


 僕のポリシーさ、とその探偵は付け足した。


「紳士ですね。その機関とやらに行くのは依頼人に会ってから決めても良いんですか?」

「構わないよ」


 茂木探偵はいたって落ち着いた顔つきで承諾した。


「そうですか。なら、少し考えさせてもらって良いですか」

「分かった。突然の話ですまないけど、前向きに検討してくれると嬉しいよ」


 茂木探偵は日付と場所を伝えて、そこでまた会おうと言い残してカフェを後にした。

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