第16話 水窪夏希と井浦淳也③
甲高い悲鳴。女性のものだとすぐに察せられた。
祐実と勲が声のした方に駆けていった。正門とは反対方向、校舎のある方だった。一番近くに職員室などが入っている本館校舎がある。その裏手だろうか。とすれば、多くの一般教室がある中校舎の昇降口の前か、二つの校舎の間にある中庭に続く道か。そんなことを思いながら祐実が本館校舎を過ぎたところに来ると、すでに五、六人の生徒が集まっていた。昇降口の前だ。
生徒が、数人倒れていた。男子も女子も。取り囲んでいた生徒の中には、職員室や保健室に駆け出す者や、倒れている生徒たちを介抱しようと、意識を確認するためか必死に声をかけている者もいる。
自分も何かしなければと、祐実が人垣の中に行こうとした時、その場を駆け出していく人影が視界の隅をかすめた。引っ張られるようにそちらに顔を向けると、男子が一人、裏門の方へと走り去っていくところだった。華奢な体格、さっき会ったばかりの井浦だ。まるで逃げるような。しかし、祐実は追うことはできなかった。倒れている生徒の方が心配だった。
すぐに教師たちがやって来て、程なくして救急車も次々と到着し、倒れていた生徒たちは病院に搬送されていった。にわかに学校が騒然となった。やってきた教師たちの中に浅木教師もいた。右腕を怪我をしている割には、ずいぶんと速く駆けつけてきたようだった。数人の生徒に状況を尋ねていたようで、そのやり取りが少し離れたところにいた祐実たちにも聞こえた。
「目の前を歩いていた子が急に倒れて」「他の子もほとんど同時に」「頭を打ったみたい」「意識がなく」「全員検査だが…」
話す生徒の中には、パニック状態になったのか過呼吸になった女子生徒もいた。
全員が搬送され、その場が収まってから勲が肩を突いてきた。
「どうしたの」
「こっち」
昇降口のすぐ前まで来て、見てみろよ、と勲が指さす。そこにはあの渦巻のような複雑な紋様がくっきりと、これまで見てきた物よりやや大きく、地面に描かれていた。
祐実はしゃがんでその紋様に、恐る恐る、指先を伸ばしてみた。「熱っ」反射的に手を引っ込めた。これは―。
「焼き印、ね」
「出来立てを知らなきゃ、焼き印の発想はねぇよな」
「井浦君はどうやってこれを焼き付けたのかな…。焼ごてなんて持ってるはずもないし」
焼ごてはそれ自体じゃ使えない。慥か、火とか電気で熱しなければいけないはず。去っていく彼の後ろ姿を思い浮かべても、そんな大掛かりな物は持っていなさそうだった。それに彼が走り去ったのと、生徒が倒れていたのは何か関係があるんだろうか。祐実は思考を巡らす。分からないことだらけで、頭がこんがらがる。
興味本位ではあったが、自分は何かできるのだと証明したい気持ちから始めた落描きの調査は、もしかしてひどくややこしい事件に繋がっているのではないか。そんな気にだんだんとはまっていく。泥沼に足を突っ込むのはこういう気分なのかもしれない。祐実はそう感じていた。
「紺藤、今日はもう帰ろーぜ」
勲は疲れきった様子で嘆くように訴えた。
「うーん、こんな状況だしなぁ。帰ろうか」
慥かに、人が倒れるという状況に居合わせたお陰で精神的にも疲れていた。井浦には明日の朝一にでも話を訊きにいこうと祐実は考えた。しかしその考えは甘かった。
落描き犯を捜し出す、という
翌朝、誰よりも早く登校してきた祐実は、これもなぜか祐実が電車に乗る時間を知っていたのか、改札で待っていた勲と共に井浦のクラスへやって来た。しかし、朝の予鈴がなっても井浦は現れなかった。休み時間になって訊ねてみてもおらず、勲がそのクラスにいる友人に訊くと今日は朝から来ていないということだった。張り込みは徒労に終わった。
「このタイミングで休みって絶対何かあるよね」
「そーだろうなぁ。あからさまに怪しい」
「夏希ちゃんなら何か知ってるかな…。後でまたあの子のところに行ってみるよ」
そう言ってそれぞれの教室に戻っていった。
そして昼休み。この日は保健室にいると夏希から返信があった。祐実が保健室に顔を出すと、夏希はぼんやり窓の向こうを見ていた。
「夏希ちゃん」
声をかけると、夏希はぎこちない様子で振り向いた。その目は不安げで怯えているように見えたが、祐実の姿を認めるとほっとしたように和らいだ。
「夏希ちゃん、どうかしたの?」
夏希の不安げな様子に、自分の訊きたいことはとりあえず二の次にした。
「昨日の夕方、何人か生徒が倒れたんだって。知ってる?」
うん、と祐実は
「その人たちの容態も聞いた?…みんな、意識が混濁してるんだって」
「え、ウソ…」
祐実は絶句した。朝のホームルームで担任の浅木教師は、昨日搬送された生徒は全員怪我もなく無事だったが、まだ検査があるので全員が入院することになったと説明していた。原因も不明だと言っていたし、意識混濁ならば慥かに検査もするだろう。
なるほど、浅木教師は嘘はついてはいない。余計な事を言って生徒たちにあまり心配させることを憂慮しての説明だったのだろう。学校としては当然の対応だと思えた。
「どうしよう、祐実ちゃん。わたしどうしたら良いんだろ」
夏希の目がまた不安に駆られて、落ち着きがなくなってきた。
「夏希ちゃん、どうしたの。落ち着いて。ね」
祐実は夏希の両肩を掴んで、正面から夏希の顔を覗いて言葉をかけた。
「順番に教えて。何があったの」
夏希の潤んだ目は今にも決壊しそうだ。
「あのね、昨日人が倒れた後の事だと思うんだけど」
夏希がそう説明したのは、事件か事故か、それが発生した時夏希はすでに帰宅していたからだそうだ。
「電話がかかってきて。井浦君からで彼の様子が少しおかしくて、何か声も震えていたし、それで。井浦君が、もう学校には戻れない、わたしとももう会えない、ごめん、て言ってこっちが喋ろうとしたら電話切っちゃって。かけ直しても出なくて、それからずっと連絡取れないの」
「なんで井浦君そんな電話をしてきたの?昨日の事に井浦君が関係しているってこと?」
夏希は口をつぐんだ。ややあってうつむいて小さく首肯いた。
「たぶん、井浦君だと思う」
小さな声でそう答えた。
「井浦君が昨日のあれをやったって?そんな、一体どうやって?」
祐実にはにわかに理解できなかった。意識混濁させる程のガスか何かでも井浦は仕込んでいたのだろうか。そうでもなければ、複数の人間を昏倒させるのは無理だろう。動機もありそうにもない。動機は不明であったとして、やはり手段が思いつかない。そんなことは魔法か
「エスパーでもないと無理じゃない」
冗談半分、その場を和ませるつもりで言った。しかし夏希は意に反して、こくりと首肯いた。
「井浦君は、たぶんそういうのだと思う」
「え。そんな事…。ほんとに?」
冗談かと祐実は疑って夏希を見据えた。夏希は深刻な面持ちのままだ。
「前に言った話覚えてる?女子二人が休んだ日、井浦君が言っていたこと」
「慥か、もう彼女たちは学校に来ないから安心して、っていう話だったよね。井浦君が何かしたんだろうって。でもそこは分かんなくてっていう…。」
「そうだったんだけど、実はわたし見たの」
「何を」
祐実が思わず訊き返す。
「井浦君を。井浦君が、奥村さんと尾野さん二人と一緒にいるところ…。誰もいない時間にちょっとだけ、教室に入ってみようと思ってそこへ行こうとして、その途中で。二人と何か話してたみたいで、彼女たちは井浦君が何か言う度に声を荒げてた。
少し離れた所って言うか柱の陰から見てたから、何を話してるかまでは分かんなかった。そのうち、彼がこう手をさっと彼女たちの前で振ったら、彼女たちは急に静かになってそのまま昇降口の方へ歩いていった。何してたのか全然わかんかったけど、井浦君の顔が」
―怖かった。
夏希は短く呟いた。
井浦の目がぎらつき、怒りに満ちたような、例えるなら鬼のような形相だったという。
夏希は、それが昔から知っている井浦ではない、知らない誰かに思えてしまい、逃げるようにその場を離れた。声などかけられる余裕などなかった。それでも翌日に会った井浦はいつもの彼だった。だから前日に見た彼は、怒気に満ちた彼は、気のせいだったのではないかと思ったそうだ。
「いや、そう思い込みたかったのかも…」
本人を前にして前日の出来事を問い質すのも怖じ気ついてしまい、夏希は訊くに訊けなかった。
「きっと井浦君、何かをしたんだよ。それで昨日のこともきっと彼が何かをしたんだ。だって、そうでなきゃ、もう会えないとか言うはずないもん」
喚くように一息にそう言って夏希はついに顔を手で覆った。塞き止めていたものが溢れて、嗚咽が漏れた。
「どうしよう、どうしよう。何か抱えてたんだよきっと。もう会えないとか、もしかしたら…」
涙まじりに、夏希は言った。祐実は彼女の肩をさすってやった。
もう会えない。そんなこと言うのは小説の中ではいつだって死を覚悟した人物ばかりだ。夏希も井浦がもしかしたら自殺するんじゃないかと、その可能性を思っているのだ。そのことを考えると居ても立ってもいられなかったのだろう。
しばらく祐実は夏希を幼い子どもをあやすように抱きすくめていた。次第に落ち着くのを待った。
「井浦君の家には電話したの?」
「うん…でも昨夜は友達の家に泊まるって言って家に帰ってなかった」
涙を拭って、夏希は細い声で言った。
「とりあえず先生たちにはわたしも言っておく。家出したかも知れないって。捜索願とか家族の人がひょっとして出してるかもしれない。大丈夫だよ。きっと見つかるよ」
大丈夫、と祐実は繰り返した。
「わたしも捜してみる。彼にはあの落描きの件でまだ確かめなきゃいけないこともあるし」
元々、夏希に井浦の行方を知らないか訊きに来たのだ。分からなければ捜すしかない。落描きの件に絡んで井浦はもはや重要参考人だ。また夏希が心配しているように、自殺の可能性だってある。ならば早急に動いた方が良い。
小説のような俄かには信じられない事件が起きている。だが現実の話だ。今起こっていること、自分にできること―祐実は現実離れした事柄を何とか現実のものとして捉えようと必死だった。祐実の思考が目まぐるしく働く。
居場所が分からない人間。その関係者。夏希。彼女もまた一連の出来事に関わっている、重要な人物。今最も井浦と繋がりのある人。
「ねぇ、夏希ちゃん」
「何…?」
「井浦君のこと、好きなんだよね?」
「え…と?」
唐突な祐実の質問に、夏希は目を
しかし、祐実は真剣そのもので夏希の返事を黙って待っている。
「え?えーと、…はい…」
逡巡して、夏希は小さく答えた。うつむいてしまったが、耳まで赤くなっている。
「わかった」
一言、祐実は得心がいった様子で言った。
「今は細かいことは訊かないでおくね!」
今度はいたずらな子供のように満面の笑みだ。
「祐実ちゃん…やめてよぉ、何よもうこんな時に」
顔を赤らめたままの夏希が抗議する。ふふふ、と祐実は笑う。
「こんな時だからだよ。それじゃあ、夏希ちゃん。井浦君が行きそうな場所どこか心当りはない?」
また唐突に祐実は訊ねる。
「え?えっと、どこだろう」
「二人でどこか遊びに行ったりとか、そういう思い出の場所的な?」
「
「ほうほう」
わざとらしく、しかし祐実本人は真面目そのもの、携帯電話のメモに入力していく。
夏希が言うには、遠足や友人たちとグループで訪れた場所らしく、二人きりで行った場所ではないが、二人なりの思い出があるのだそうだ。
「他に行きそうな場所、思いついたらメールして」
そう言って祐実は保健室を後にしようとした。
「わたしも、行く」
夏希の言葉に祐実は振り返ったが、
「大丈夫。助手はいるし。それにほら、夏希ちゃんは捜査本部の参事官みたいなもんだから」
言ったところで、その手の知識がない夏希は首を傾げるしかない。
「あっ、だからね、夏希ちゃんは学校にいて。それか自分の家に。何かあったら携帯電話以外でも連絡の取れる所にいた方が良いから」
慌てて説明し直して、そして保健室を出た。
「で、どこから捜すんスか」
勲が面倒くさそうな声で言った。手にした彼の携帯電話には祐実から送られてきた、井浦が行きそうな場所のメモがあった。
「二カ所ともここからじゃ遠いぞ。どうする?」
祐実と勲は学校から抜け出して、ひとまず駅の方へと歩いていた。午後の授業はボイコットだ。夏希が挙げた井浦の行きそうな場所の二カ所へはどちらにせよ、電車移動しなくてはならない。歩きながら作戦を立てることとなった。
「うーんんん」
眉間の皺を思い切り寄せて祐実は思案する。
夏希の憂慮するように、井浦の生命が関わってくる可能性もあるのだ。考え過ぎとも思えるが可能性が捨てきれない以上、やはり迅速に動かなければならない。けれど、プラネタリウムも灯台もここからでは移動時間がかかってしまう。手分けして捜したとしても、そのどちらにもいない可能性だってある。圧倒的に人手が足りない。
「こういうのは大人しく警察に任せて良いんじゃねえかな」
警察なら大規模な人海戦術が使えるから、任せた方が
学校を抜け出す前に担任や学年主任の教師に、井浦が家出している可能性があるので、警察や彼の家に連絡して欲しいと、話はしておいたが警察が動き出すまでもまだいくらか時間はかかるだろう。できればもっと迅速に捜し出したい。ならば、どうする。
どうする?
「あっ」
祐実は思い付いて携帯電話を取り出した。
「どうしたんだよ」
祐実の行動は時として唐突だ。次は何をしでかすか分からない時がある。自然、勲は身構えてしまう。
「二日酔さんに連絡してみる」
「やっぱするのか?昨日は気が引けるとかなんとか言ってたじゃん」
「うん、だけど、井浦君が落描き犯?なのはまぁほぼ確定でしょ。それに探偵なんだから人捜しもお手のものじゃないかな」
「それにあのおっさん、信用しきって大丈夫なのか、お前も心配してたろ?」
「いい。今は。緊急事態だから。二日酔さんのことだから落描き犯も分かってて居所も突き止めてるって可能性もあるじゃん。訊くだけ訊いてみる」
勲が納得しかねる様子で、でも首肯くのを見て、祐実は電話をかけた。
携帯電話の向こうでコール音が鳴っている。
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