第15話 水窪夏希と井浦淳也②

 2年7組の教室にその足で駆け付ける。遅れて勲がやってきた。相変わらずヘッドホンを首にかけて左手首には白いテーピングが巻かれている。

教室の中を覗き、勲が見知った顔の生徒をつかまえて、事情を話すとその男子生徒は首を横に振った。


「井浦はもう帰ったらしい。塾があるとかで」


 勲がそう話してくれた。


「仕方ないね、明日連絡とってみる」


 夏希から念のためにと、携帯電話の番号と自宅の住所を教えてもらっていたのだ。けれどそれも徒労に終わる。翌日、日曜日は自宅は留守で電話では一切連絡が取れなかった。



 月曜日の放課後、祐実は急ぎ足で自分の教室を出た。目的の7組の教室の前にはもう勲が待っていた。教室からは続々と生徒たちが出て行く。祐実は勲に目配せして教室の中を窺う。


 勲が男子に「よお」とまた友人らしき男子に声をかけた。二、三、言葉を交わすと男子は「あぁ、あいつだよ」と指を指して教えてくれた。「サンキュー」と勲が礼を言うと、二人で教室の中に入った。

 今まさに帰ろうと席を立つ彼に、祐実は声をかけた。


「井浦君だよね」


 彼-井浦淳也は突然声をかけられ、しかも相手が男女二人で、眼鏡の奥の目を丸くした。事態が分からず、すぐに何事かと警戒の色を強めた。


「そうですけど、どちら様?」


 眉間に皺を寄せて、険しい様子で井浦は聞き返した。


「わたしは紺藤祐実って言います。こっちは緒方。夏希ちゃんの友だちで一年の時バトミントン部で一緒でした。少し訊きたいことがあるんだけど、ちょっとだけ時間良いかな」


 夏希の友人というと「あぁ」と理解できたように井浦は短く言った。

 井浦は背は平均並みだが、ほっそりして華奢な印象の体格を直立させている。いかにも優等生なタイプと言った雰囲気だ。


「まるで刑事みたいですね。何の話ですか」

「君、霧島クリニックて知ってるよね。どこか悪いのかな?」


 井浦は一層怪訝な顔をした。周りを気にするように視線を巡らせて声を潜めた。


「場所を変えてもらえませんか。ここじゃ落ち着かないんで」


まだ教室に残っていた数人の生徒たちは、ただならぬ雰囲気を感じたか、奇異の目でこちらをちらちらと見てくる。


 最上階の4階は特別教室が集まるフロアで、放課後はほとんど生徒の往来はない。階段を上がりきったところの広くなったスペースに三人は移動してきた。


「で、精神科にかかるほど悪いの?」


 もう一度祐実は訊き直した。


「まぁ頭も体も全部悪いんですよね」


 井浦は捻くれた返答をした。そして眼鏡のブリッジを指で押し上げる。芝居っぽくて、いかにも頭の良さそうな人物。あるいはそう見せているのかもしれない。雰囲気、つまりは印象を故意に創ってみせているような。そんな風に祐実には見えた。


「そういうことじゃなくて」


 祐実の中で井浦の第一印象は、どこかいけ好かない奴になっていた。

 同じ学年なので、顔は見たことはあったが、話してみると正直とっつきにくい。

 夏希は普通の人だと言っていたが、祐実は胸の内でどこが!?と叫ばずにはいられなかった。


「冗談ですよ。病気というほど大層な物じゃなくて、悩み相談のようなことをしていただけです」


 井浦は聞かれたことだけに答える。余計な会話を避けてるようでもあった。


「そう。それじゃあ、この写真のものに見覚えはある?」


 携帯電話の画面に落描きの写真データを表示させて、井浦に見せる。


「…いえ、ないですね」


 画面を一瞥して井浦は答えた。


「なぁ井浦君。その落描きが増えてるんで、うちらは描いてる奴に止めてもらおうとしてるだけでさ、別に取って喰おうとかそういう話じゃないんだ」


 勲は力の抜けた調子で言った。今も一歩引いたような位置で祐実と井浦のやりとりをみている。


「何を思われてるのか知りませんけど、僕はこの焼き印みたいな物、知らないですよ」

「そうか。じゃあいいんだ」


 そう言ってあっさり勲は引っ込んだ。


「ごめん、あと、うちらの学年の綿貫わたぬきくんと鷲坂くん、奥村さん、尾野さんて知ってるかな?」


 祐実はすかさず質問を継いだ。


「まぁ一応は。同じクラスでしたし。彼らがどうしたんですか」

「その四人が今病欠で学校来てないのは?」

「何となく聞いてはいますけど」

「君、四人が休んでる理由知らないかな?」

「僕が?知りませんよ」


 知るわけがない。そう言わんばかりの否定だった。


「えーウソだ。夏希ちゃんに四人はもう学校に来ないって断言してたんだって?そんなこと言えちゃうくらいなんだから、何も知らないなんてことないんじゃない」


 まくしたてる祐実に井浦は呆れたようにため息をついた。


「僕を糾弾しに来たって感じですね。僕が彼らに何か言って学校に来させないようにしたって言いたいんですか?」

「う…ん、まぁ、そういうとこかな…」


 逆に詰め寄られて祐実はたじろいでしまう。


「慥かに奥村さんや尾野さんとは、彼女たちが休む前日に少し立ち話はしましたけど、僕が何か傷つける事を言ったとかそんなことはないですよ。むしろ僕が何故だか文句をぶつけられたくらいだったんです」

「その時、何を話してたんだ?」

「水窪さんのいじめの件ですよ。彼女たちが関わっていたのは知っていたので。そのことで少し」

「少し?何を?」


 ずいと祐実は井浦に詰め寄る。


「それは悪いんですけど言いたくないです。水窪さんのことにも関わってくる話だから、何でもかんでも話す事はできないですね。彼女の友達だからと言って話したくないことだってありますよ」


 井浦は冷静に反論する。祐実はぐっと押し黙ってしまった。黙らされたと言うべきだったかもしれない。何か言い返したくなったが、うまく言葉が出て来なかった。


「おい紺藤、俺たちが知りたいのはこいつが落描き犯かどうかってだけで、こいつがいじめっ子たちをどうしたかとかは、正直どうでもいいんじゃねぇのか」


 肩を突ついて勲が祐実に進言する。これも正論で祐実はわかった、と小声で首肯いた。


「…僕からも訊いて良いですか。なぜ僕がさっきのマーク、落描きですか。それのことを知っていると思ったんですか」

「あーそれはね」


 祐実は少し言い淀んだ。どこから説明したものかと逡巡する。それを見かねて勲が


「ざっくりと説明するとだな」


 と説明役を引き受けてくれた。みささぎ駅周辺で見つかった複数の落描きを調べていくうちに霧島クリニックに行き着いたこと、そこには水窪夏希が通院して、そして井浦の存在を知ったことなどを掻い摘んで勲は話した。


「水窪さんの友達だっていうから、まぁそんなことじゃないかとは思いましたけど」


 井浦は得心したようだった。


「あーそうだ。ついでに訊くんだけど、さっき悩み相談してる言ってたじゃん。何の悩み?それは解決したのか?」


 と、勲が訊ねる。


「まぁね。一応は解決しましたよ。悪いけど相談の中身は言いたくないんで言いませんよ」

「そっか。まぁ解決済みなら良いじゃない。ところで大丈夫?」


 不意に祐実が心配そうに井浦の顔を覗きこむ。


「何がですか」


 祐実の唐突な問いかけに、井浦は訊き返した。


「顔色が悪そうだし、冷や汗も」

「え?あ、あぁ。ちょっと暑くて。大丈夫ですよ」


 井浦は慌てた様子で額を手で拭った。言われるまで気づかなかったように見えた。


「まー無理すんなよ。紺藤、行こうぜ」


 井浦の肩をポンと叩いて、勲はじゃあな、と言って階段を降りていく。祐実もそれじゃ、と一言残して勲を追った。

 井浦は階段を降りて行く二人の背に、「実は」と声をかけた。


「綿貫君や奥村さんたちが学校に来ないのはね、超能力で精神を破壊されたからなんですよ」


 階段の踊り場で振り返ってこちらを見上げてる二人の顔は、特に祐実は呆然としていた。勲は片眉を上げて不可解そうな顔をした。


「あ、あ。そうなんだ。へぇー」


 曖昧に返事をして祐実は階段を降りて行った。勲は黙って彼女に続いた。見送る井浦は、勲が首にかけていた黒いヘッドホンの、ハウジングの丸みに入ったスリットがキラキラと光彩を放っていることに気付いた。だが特に気に留めずに、先ほどから噴き出る汗をハンカチで拭い続けた。


「井浦君は、彼は大丈夫なのかな。ちょっと危ない感じがしたんだけど」


 歩きながら祐実は隣の勲に意見を求めるように視線を送る。


「まぁ変わった奴だよな」


 勲はそっけなく言った。

 井浦のことなど別にどうでもいいと言わんばかりだ。


「あーでも。もーどうしよう」


 祐実は思い出したように嘆いた。

 グラウンドを横目に校門までの道を行く。いつもと変わらず、運動部や吹奏楽部の出す色々な音が帰り道の光景を彩っていた。けれど今の祐実の気持ちはそれを味わう余裕がなかったようだ。


「勲、どうしよう?落描き犯、結局分からず終いだよ。うちの生徒であのクリニックに行ってる人なんてそういるとは思えないんだけどなぁ。他にいるのかな?」


 腕を組んで、祐実は眉間の皺を一層深くさせた。


「皺、消えなくなるぞ」

「う」


 呻いて祐実は額を手で隠した。


「たぶん、井浦だと思うぞ。落描き犯」


 え、と祐実は隣を歩く勲を振り向いた。


「なんで?知らないってさっき…あ、ウソ吐かれたってこと?」

「そういうことだろ」


 勲はそっけなく首肯いた。


「でもなんで分かったの」


 んー、と勲は唸って言った。


「あいつさ、落描きのこと焼き印だって言ってたじゃん。紺藤が見せてた落描きの写真て商店街のとこのやつだろ?」


 祐実は携帯電話を取り出して、先刻井浦に見せていた写真をもう一度表示させた。商店街近くのアスファルトに描かれた物だ。黒いアスファルトの地面に、白く描かれている。黒地に白。


「あぁ、そうかっ」


 思わず声が大きくなってしまう。


「わたしたちは最初これを見た時、落描きだと思ったのは、これが白いペンキとかスプレーで描かれたものって思ったからだ。なのに井浦君は」

「なんでか“焼き印”だと言った。ちょっとおかしいだろう?」

「そうだよ、おかしいよ。近所のおばさんやこれを消そうとしてたおじさんも、これは描いた物だって思ったのに、写真を見ただけの彼が焼き印を連想するのは違和感があるわ。これをかいた本人でしか思いつかない…井浦君にもう一回問いつめてみる。あ、あと二日酔さんにも連絡しとかなきゃ」


 すぐに携帯電話で電話をかけようとする祐実の手を、勲が止めた。


「ちょっと待った」

「え、どうしたの?」

「お前も言ってたじゃねぇか。あの探偵が落描き犯見つけて本当にそれだけか?ってさ。あのおっさんに教えて本当に大丈夫なのか?」

「ああ、うん。でも落描きしてるだけで、彼がそんなに悪い目に遭うのかな?ま、彼が認めないことには二日酔さんに連絡するのも気が引けるし。ちゃんと 」


 確証を得たら探偵に連絡しよう、と祐実が言いかけて、その言葉は掻き消された。

 悲鳴がした。傾いた空に吹奏楽部の本調子ではない練習の音だけが、やけに間抜けに響いている。

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