第2話 紺藤祐実のこの頃②

 足早に階段を昇り、最上の三階についたところで廊下を右へ進むとすぐ目の前に古びた真鍮のノブが付いた観音開きのドアが見える。ドアの上には『図書館』と書かれた扁額が掲げられている。祐実が最初にそれを見たときは(図書“室”ではないの?)と不思議に思ったのだが、その扁額がどういう経緯で作られたかを知る者は誰もいないらしい。本校の七不思議のひとつと噂されてはいるが、そもそも他に不思議なことがないので七不思議として成立すらしていない。という所までがワンセットで生徒たちには語り継がれている。


 ドアを開けて中に入ると、書架が出迎えてくる。新たに入荷した書籍や、司書の教師がお勧めする古今東西の名著などが置かれている。右手には貸し出しの受付カウンターがあり、その前には大きな四角い卓が三台、縦に並んでいる。窓際に沿って並べられた卓の一番奥に向かって祐実は一直線に向かった。その卓の窓に一番近い席に一人の女子がいた。うねりのある癖毛を肩くらいまで伸ばして、二つに分けて結んでいる。線の細い、色白でそばかすが頬に浮かんだその女子は、すぐに祐実に気付くと笑顔を向けた。


「元気そうじゃん」


 祐実はその笑顔を見て少し呆れたように言った。


「まぁ、思ったよりは元気だよね」


 どこか他人事のようにして彼女、水窪夏希は言った。


「逃げ込んだっていうから、てっきりまた例の子たちがなんかしたのかと思った」


 夏希の隣に祐実は腰をかけた。


「あー、あの人たちとは全然会わないの。逃げたっていうのはちょっと現実から、ね」

「現実逃避?わたしも丁度そんな気分だった」


 くすっと祐実は笑った。


「それで何かあったの?」


 と、祐実は続けた。


「…うん、進路の話とかがちょっとね。ほら、わたし去年から色々あったじゃない?

最近になってようやく学校にもまた来れるようになったけど、周りの受験熱っていうのかな。それがしんどくなっちゃって。教室よりは図書室のほうが人いないし楽なんだよね」

「わかる~わたしも似た感じあるよ。進路希望がぜんっぜん決まらなくて。さっきまで浅木先生と面談してた。つかれたぁ~」


 大げさに祐実は体を伸ばしてみせる。


「おつかれさま。担任が浅木先生じゃなかったのはまだ良かったかも」

「なんかね、顔から出てる圧力がすさまじいの」


 と言って祐実は浅木の顔真似をしてみせる。夏希は笑った。


「夏希ちゃんは進路はもう考えてるの?」

「一応はね」

「なになに?教えてよ」


 興味深々に祐実は身を乗り出すように尋ねた。


「えー…やだ。はずかしい」


 夏希はそっぽを向いた。


「わかったよ、気が向いたらまた教えてね」


 ポンと夏希の肩を叩いて祐実は言った。


「今日はまだ残っていく?」


 祐実は訊ねた。

「うん、勉強遅れてるし今日はもう少しここでやってく」

「夏希ちゃんはえらいねぇ」


 心底感心したように祐実は言った。


「じゃあわたしはそろそろ帰るね。また今度一緒に現実逃避しにいこう」


 親指を立てて祐実は言った。笑って夏希も、


「オッケー。何するの?」


 と聞き返す。


「ケーキとかパフェとか。甘いもの食べに行こ」

「わかった。いこっ」


 夏希も笑顔で親指を立てて見せた。


 中庭を抜けて昇降口へ向かおうと一階の渡り廊下まで来たところで、柱の陰の足元に白い物がちらりと視界の隅に映った。思わずそちらへ目を移すと、そこには白い円状のものがあった。直径は三十から四十センチくらいだろうか。よく見ると、白い太い線が波打ったようにぐねぐねと曲がりながら、同心円状に中心から渦巻くような、あるいは放射線状に広がるような、まるで迷路かブロッコリーを真上から見て一筆描きしたような、複雑な模様を形作っている。それは鋭いタッチで描かれているようで模様の輪郭はとてもはっきりとしていた。


(そういえば落書きがどうのこうのって、最近噂になってたな)


 祐実はそう思った。そしてそれ以上のことは特に何も考えることもなく、すぐに他の懸念事に思考を持って行った。せいぜいが、その落書きははただの代わり映えのない日常の一部分であるというくらいにしか思っていなかった。


―――この時はまだ。

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