第1話 紺藤祐実のこの頃①
――探偵は煙草をもみ消すとブラックコーヒーを口に流し込み、そして現場へと向かった。
区切りの良いところまで読んで、紺藤祐実は本を閉じた。ハードカバーの単行本である。タイトルは『霧と銃弾の交差点~鎧塚探偵事件簿③~』とある。お気に入りのシリーズ最新作だった。主人公のいぶし銀な探偵が時には推理し、時には犯人と格闘し、最後にはすべての謎を明らかにしていく、そんな物語である。いわゆるハードボイルド物だ。祐実の父親がこの手の小説を多く所蔵しており、身近にあったために祐実自身ものめり込んでしまった。
いつもの癖で祐実は前髪を片手で直した。後ろはポニーテールにしている。すぐ近くの開け放した窓から、ふっと風が吹き込んだ。露わになった首筋がひやりとして、ハンカチで拭った。
放課後の教室には、何人かの生徒がまだ残っていた。真面目に自習をしている者、用もなく友人と他愛のない会話を続けている者、そして暇つぶしに読書をしていた者。一学期の期末のテストまでまだ少し猶予があるこの時期、部活のない生徒たちはこんな風に思い思いに過ごすことが常だった。教室の中はがやがやと雑然とした雰囲気だった。皆が好き勝手に会話をしている。「来週から塾行くんだって」「まじ、早過ぎじゃん」「おめぇが遅えんだって」「大学どこ行く?」「名大いけたらいいなぁって」「頭よすぎぃ」「法学部目指すわ」「調理師なろうかな」「はい革命!」「うわ、最悪っ」「あの落書きみた?」「あ、あれ?渡り廊下の」「ずっと残ってたよな」「用務員のおじさんがさ…」「数学の課題多くない?」「コンビニいこ」「おなかすいた~」「今度アルバム貸して」「MDにダビングすんの」「プレイヤー買ったんだ?」…賑やかなゆるいこの空気感を、祐実は嫌いではなかった。しかし、他愛ない会話の中に将来の話や進学の話題があると、心がどこかざわつくのだった。
(みんなもう、決め始めているんだ…)
祐実自身はまだ決めれていない。周りと比べてしまうと自分が随分と出遅れてしまっているように感じてしまう。
ふと顔を上げて教室の時計を見ると午後三時半を迎えようとしていた。「やば」と思わず口に出しながら本を通学用のリュックにしまい、席を立った。クラス担任の教師から三時半に職員室へ来るように言われていたのだ。時間があるからと暇つぶしに本を読んでいたのがすっかり夢中になってしまっていたようだ。祐実は慌てて教室を後にした。
「紺藤ぉ~、お前進路はどうするつもりなんだ?」
担任の浅木教師は開口一番、祐実に尋ねた。いやに馴れ馴れしい口調で喋るのがこの教師の癖だった。生徒としてはそこまで仲の良いつもりはないのにその調子なので疎ましく思われている。彼は現国担当の四十代後半で柔道部顧問である。いつも見開いたような目をしており、顔もやけに大きく、顔だけで威圧感があると生徒たちの間ではネタにされている。つまりは尊敬されるタイプの教師ではなかった。
敬遠されるのは彼が何をおいても国立大へ生徒を導きたがるからだった。地元では進学校として評判の高校であるが、国公立の大学へ進む者は半数にも及ばないのが近年の傾向だった。ニーズがないのに国立大を勧めてくるこの教師は傍迷惑な存在とも言えた。
職員室の一角、担任教師の机の前で祐実はクッションの死んだ丸椅子に腰かけて、浅木教師と膝を突き合わせるような形で向かい合っていた。体の前に置いたリュックを抱えて祐実が答えに窮していると、浅木教師はさらに話しかけてきた。
「もう一学期も半分過ぎたぞ。高二の段階で進路が真っ白なのはなぁ、焦った方が良いんじゃないかぁ?」
(言われなくてもわかってるよ、そんなこと)
祐実は胸の中で言い返す。これまでに何度か高校卒業後の進路についての意識調査というものが行われてきたが、二年生に入ってからは祐実は、そのほとんどを白紙のままにしていた。一学期も終わりが見えてきたこのタイミングで、一度しっかり話をしようと浅木教師は考えたようで、授業後に祐実を呼び出していた。高校二年生ともなれば、目標とする進学先によってはこの夏休みから本格的に受験対策をしなければ間に合わなくなる。そういった危機感もあってのことだった。しかし、そういう時期にきていることは祐実自身も理解していることで、なおのこと焦る気持ちも自覚していた。
「本当に、何も考えが浮かばいんですよね…。どうしたら良いのか全然わかんないです」
「う~ん、今どきは大学は出ておいた方が絶対良いけどなぁ、お前の成績だと国公立狙うのは今から対策しないと難しいぞ~」
祐実の通う県立羽塚(はつか)高校は地元では偏差値高めの進学校として通っている高校である。祐実は入れたものの、成績は常にやや下の方だった。周囲は出来の良い人間で溢れている。また進学校を謳っているために、日ごろから教師たちの意識は生徒をいかに一人でも多く難関大あるいは名門校へ送り出すかという点に向けられがちだった。その中でもとりわけ浅木教師は国公立大への進学に固執していた。
「成績はでもまぁ、今から手を付ければなんとか挽回できんこともないが…それよりも大学選びだよなぁ。全くの白紙のままではどうすることもできないし、何かないかね?興味のある仕事とか学問とか」
「えーと、そうですね…あ!仕事なら探偵とか、興味はあります」
これといって就きたい仕事を深く考えたことがなかったので、思いついたことを率直に祐実は言ったが、浅木教師はあからさまに困惑と残念そうな顔をした。
「そうか、探偵か。まぁそういうのも悪くないよな、うん」
自分に言い聞かせるように浅木教師は頷きながら言った。探偵なら大学行く必要性はない…とでも思ったようだった。
「まぁ、その、自分に何があるのか、一度じっくり考えてみたらどうだ。何事もな、中途半端にならんようにやり切った方がいいぞ。あ、それとな進路希望調査の紙、なるべく早めに出しておけよ」
これ以上は長々話すのも面倒になったと見えて、浅木教師はそう言って面談を切り上げた。
はい、と体裁だけの返事をして祐実は席を立った。そんなに大したやり取りをしたわけでもないのに、この担任教師に祐実は苛立ちを覚えていた。だからさっさとこの場を勝手に終わらしてくれて内心ほくそ笑んだ。
「最近不登校の生徒が増えて…」「何をしとるんでしょうな」「」「…例の変な落書き、なかなか消えないとか」「用務員のヨネさんが嘆いてましたね」「見に来る生徒も増えてきて」「落書き程度でそんなに見に来るようなもんですか」「ところで来週の生徒指導の…」「資料は会議で…」
授業後で人気の多い職員室のガヤガヤとした中で、そんなやりとりがどこからか聞こえてくるが、気に留めることもなく祐実は職員室を後にした。
自分には何があるのだろうか。廊下を歩きながら祐実は改めて自問した。浅木教師から投げかけられた、なんてことのない問いが心の中で引っ掛かっている。
高校二年にもなると、大学受験を意識させるような雰囲気がより濃くなったと祐実は思う。教師たちは日ごろから受験を意識したことを会話の端々に挙げているし、同級生たちも予備校に通い始めたり、また予備校に通う者同士での結託も盛んになっている。そんな現実を見るにつけ祐実はげんなりしていた。
(まぁ、進学校だから当然と言えば当然なんだけどさ)
ふぅ、と祐実は小さく息をついた。
「わたしには何があるんだろうね」
今度は小さく声に出して呟いた。
今、将来何になりたいか、何の職業に就きたいのか、そう訊かれても具体的に答えられない。これだと思える仕事がイメージできない。周りの子たちがそうするように、大学への進学を考えてはいるものの、それも、あぁこのまま大学に進むんだろうな、それが妥当かなぁ、とぼんやり考えただけの話で、つまりは流されているだけである。
確固たる目的がないので大学進学を希望してもどの学部を受けるかまでは、まだ決められないでいる有様だ。得意な科目で受験できる所、という選び方しかできなくなりそうで、それも如何なものか。祐実は悩む。
将来を考えるとき、小さい頃に抱いた夢を追いかけるとか、自分の趣味や好きなこと、得意なことを活かせる仕事に就きたいとか、そういう指標が真っ先に思い浮かぶだろう。祐実はそれもぴんとこなかった。確かに彼女も小さい頃、ケーキ屋や花屋、看護師に憧れたこともあったが、高校生になる頃にはそのどれもがいささか自分の性質とは合わないように思われた。向いていないんじゃないかと思うようになっていた。向き不向き、自分と他人の比較をするくらいには祐実は現実を知るようになっていた。
絵を描くのは得意ではあったが、美術部員には敵わないと感じ、絵で生計を立てるという生き方にさほど興味は湧かなかった。部活動でスポーツはしていたが一年の終わりでケガが原因で退部したし、趣味の域を出ない。ちょっと痩せられるかも、くらいに思って始めたくらいだ。やはりスポーツに特化した道も、首を傾げることとなった。
「我ながら中途半端だなぁ」
もう一度ため息をこぼした。ピコンと電子音がポケットの中でした。祐実が携帯電話を取り出すとメールが一件入っていた。≪図書室に逃げ込んだ≫。差出人は≪夏希≫とあった。
高校に入ってできた最初の友人だ。
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