二日酔い探偵と助手と謎の落書き事件
きゃぶ
第0話 プロローグ
締めきったブラインドの隙間から午後の光が差し込んでいる。薄暗い室内のテーブルの上で携帯電話が着信音を響かせていた。気怠さを引きずって、彼は寝ていたソファから体を起こして携帯電話を掴んだ。頭がずきずきと痛む。昨夜は飲みすぎたようだ。
『私だ』
通話をオンにするとこちらの応答を待たずに向こうから切り出す。いつものことだ。
相変わらず、少年のような威厳のある大人の女のような、いわく正体の掴めない声だ。
「どうもどうも。ご依頼で?」
寝起きの頭を掻きながら彼は訊いた。髪は生まれながらの癖毛で、寝起きがさらに髪のうねりを倍増させていた。
『今回は“野良”を見つけてきてほしい』
電話の相手は簡潔に伝えてきた。これもいつものことである。
「野良、ですか。じゃあ最悪の場合も想定されてると思っていいんですね?」
寝ぼけ眼をこすりつつ、彼は確認する。空いた片方の手でテーブルに置いてあったマグカップを手繰り寄せ、中を覗くが中身のコーヒーは空だった。心の中で舌打ちする。
『もちろんだ。分かっているだろうが目的は生け捕りだ。前金はいつもの口座に入れておく。死体だったら後金は無しだ。良いな?』
「えぇ、それで問題ありません。ただねぇ…」
彼は言葉を濁した。電話の相手は金払いは良い。その分、最悪のケースが発生した時の対処が億劫なのだ。それを言いかけて、ぼやきじみた事は依頼主には言うことではないと口をつぐんだ。
『どうした?』
「いえ、なんでもありません」
『“同盟”の中に潜り込ませた“犬”からのリークだ。奴らより先に確保したい』
「急がれるほど芽のある人物ですか」
『我々は見込みありと判断している。その野良を引き入れられたら我々は当該地域で大きなリードを取れる』
「これはまた…随分ご執心されていらっしゃる」
『知っているだろうが、この国における主導権の争奪戦は加速し続けているからな。今回はその一端と自覚したまえ』
「私みたいな半端者には荷の重い話ですなぁ」
と、責任感を微塵も覚えていないような口調で彼は応えた。それを聞いて電話の向こうでフッと鼻で嗤う音がした。
『嫌なら依頼を撤回するが?』
冗談とも本気ともわからない声のトーンで電話の主が告げる。
「いえいえ、いつも御贔屓にしてくださってますから。ここで断るわけにはいきませんよ」
おどけた調子で彼は言った。
「誠心誠意、務めさせていただきますよ」
携帯電話を片手に彼はその場で丁寧にお辞儀をした。
『詳細といつもの薬は追って届けさせよう。今回も期待している』
こちらの返事を待たずに電話は切れた。これもいつものことであった。
久しぶりの大口の仕事が入った。彼はその事自体は歓迎するのだが、この依頼主の仕事はいつも体力を使う。決まって体の調子が悪くなる。それは体質の問題で、薬を併用することで乗り切ることができるので支障はないのだが、それでもぐっとくるあの気分の悪さは、なかなか慣れない。
体をまさぐって開襟シャツの胸ポケットに煙草の箱をしまっていたのを思い出した。一本取り出すと口にくわえて、一緒にしまっていたオイルライターで火をつける。オイル独特の匂いがふわっと鼻腔に立ち込める。深く息を吸い込み体の奥へニコチンを送り込んで、ふーっと煙を吐く。ソファに身を沈めて吐き出した紫煙が室内の天上を漂う様をしばし眺める。二日酔いの痛む頭がすっきりしたような気になる。酒の飲みすぎに喫煙、この上なく体に悪いことをしている自覚はあるが、この感覚が癖になってやめられない。どうにもならない中毒性だ。それにこれで全く問題ないと彼は常々思っていた。
テーブルに置いてある灰皿で煙草をもみ消し、おもむろに立ち上がると、窓のブラインドを全開にしていく。窓の外には道の向かい側、さびれた雑居ビルが立ち並ぶ風景が初夏の陽光を受けて白っぽく見えていた。
「さてと」
一人呟いて彼は仕事の準備に取りかかる。愛用のショルダーバッグを持ち出し、部屋の奥にある冷蔵庫から缶ビールを取り出してはバッグへしまう。しかしその缶にはラベルの類が一切なかった。三本、四本とその数は増えていく。バッグは缶ビールのようなものでいっぱいになった。
「野良が大人しいやつだと良いんだが…殺しは苦手なんだよなぁ」
仕事の詳細が送られてきていないかラップトップのパソコンを開きつつ、彼は癖毛で膨らんだ髪を掻きながらぽそりとこぼした。
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