第27話 持てる者・持たざる者⑤

 最初は何が起こったか、祐実には分からなかった。

 見えていたのは、井浦が夏希を突き飛ばした瞬間、二人の間を深海を思わせる暗い色をした轟々とした水の塊が押し寄せる光景だった。

 あっという間に祐実も暗い洪水に呑み込まれた。

 息が出来ない。水流が渦巻く中で自分の体は流れのままに翻弄されているのだけは分かった。


 黒い水の中で、目を開けていたのか、脳裏にただイメージが映っていただけなのか、現れては消えるとりとめのない映像のモンタージュが見えていた。まるで嵐のように、いろんな光景が駆け抜けていく。人が死ぬ間際に見るという走馬灯がこれなのかと祐実は思った。なら自分は死んでしまうのか。それにしては見える場所や人がどこで誰なのかさっぱり分からない。


(わたしじゃなくて、井浦君のか)


 押し寄せる他人の過去の風景。見ていると、心が安らぐ気持ちになる。こういうのを幸せな気分というのだろう。息苦しさの中、祐実の中にその感触は確かに感じられた。


 見えない巨大な腕に引っ張られるているのか、押され続けているのか、体に強い力がかかるのを感じる。手足をばたつかせて水面を目指すが、今自分が下を向いているのか上を向いているのかも分からない。


 段々にモンタージュが霞んで見えてきた。完全に見えなくなるその直前、祐実は何かを叫んでいる井浦の姿と彼にしがみつくように、抱きしめている夏希の姿を、刹那、垣間見た。イメージの群れを黒い水が押し流した。


 精神世界にいたのだからこれは現実ではないと必死に考えるが、とぐろ巻く渦の中に落ちている感覚は生々しく、幻や錯覚ではないと思えてしまう。これは夢なんだと言い聞かせたくても、体にかかる水圧や水の蠢く音がそんな理性を覆してしまう。

 息苦しさが一段ときつくなる。もうすでに酸欠になり始め、体が酸素を補給しようと口や鼻を全開にしようとするのを、必死にこらえる。その繰り返しに体が数分、数十秒と保つことはなかった。次第に体全体が痙攣し始めた。

 このまま溺れたらやはり現実の私の肉体も死んでしまうのだろうか。きっとそうなんだろうなと思う。先に死んでしまっては友人達や家族に申し訳ないという気持ちが強くなる。


(もう限界…)


 肺に残っていた息がごぼりと一際大きな気泡となって吐き出された。

 体が沈んでいく。


 沈みながら、落ちていく先にあの大樹が見えた。祐実は真上からそれをぼんやり眺めていた。暗い水の中でもくっきりと見えている。大樹は幹も枝も自身が白く変色し、燐光を放っていた。真上から見たそれは、見覚えのあるものだった。探偵の助手として散々調べまわった、あの複雑な渦巻き状の紋様。

 あぁ、これだったんだ。祐実の意識が遠くなる中で、謎を一つ解明したことが妙に嬉しかった。まるで本物の探偵になったような心持で。


 轟々と唸る水中の音だけが聞こえる。それがとても寂しかった。もっと聞きたい音があったような気がするのに。いつもの声。例えば。


「…っ!紺藤ぉぉおっ」


 そう、こいつの声とか良いじゃんないかな。


「…手だ!腕伸ばせ!紺藤!」


 やけに必死だなぁ。何をそんなに…。


「引手!伸ばせ!祐実!」


 祐実ははっとして右腕を突き出した。思い水圧の中、確かな力が彼女を掴んだ。そして、手首に白いテーピングをした腕に祐実の体は引き上げられて行く。

 引手は掴んだら絶対離さない。彼はそう言っていた。

 水中から抜け出た瞬間、体は軽くなり、うっすら目を開けると、遥か遠くに天地が逆転した地平線が見え、暗くなった大地に橙色の夕日が水面に波紋が広がるように空を赤く染めて、のめり込んで姿を消した。



「紺藤!」


 勲の声に祐実は目を覚ました。

 祐実は倒れていたのか体を横たえていた。上半身を起こして辺りを見渡すとそこは元の山頂のままだった。随分長い時間、あの奇妙な白い世界にいたように思っていたが、日の高さはさほど変わっていないようだった。


「助かった〜」


 安堵の息を吐いて祐実は倒れ込もうとして、腕に支えられた。


「大丈夫か?」


 勲が覗きこんでいる。あまり心配してなさそうな表情なのが彼らしい。勲の顔を見て祐実はまた一つ安心した。彼の首にかけられたヘッドホンの特徴的なスリットには弱々しく虹色の光が明滅していた。

 勲に支えられて祐実は立ち上がると、茂木探偵が倒れた井浦の傍に腰を下ろしているのが目に入った。何が起こったのか、祐実には分からなかった。


「ほう、彼の精神汚染を受けて無事だったのか。勲君のデバイスのお陰といったところか」


 祐実にはよく分からないことを茂木探偵は言ってきた。


「二日酔さん、何してるんですか」


 率直に訊く。


「見ての通り、井浦君を倒した」

「えっ」


 祐実は目を見開いた。


「あぁ違う違う。まだ生きている。虫の息だがね」


 祐実の表情から茂木探偵は言い直した。

 倒した、正確には気絶させた、くらいのことかもしれない。現実の体がそうやってダメージを受けた為に、井浦の心の世界に洪水が押し寄せたのだろう。


「まだ…?」


 祐実は顔を怪訝に曇らした。


「二日酔さんは、彼をやっぱり連れていくんですか?」


 ふうと茂木探偵は鼻から息を抜いた。


「事情は彼から訊いたのかね?」


 祐実は黙って首肯うなずいた。


「説明をする約束だったな。…井浦君は知っての通り特異体質の人間だ。俺の依頼人は、彼のような特異な能力を備えた人物を自分の組織に入れる役目を負っていて、まぁ俺はそのエージェントみたいなもんだ。

 彼を勧誘する際には少々強引な手を使う必要があってな。彼の能力が異常な早さで成長していたんだ。能力の急成長は能力者の脳を破壊してしまう可能性が高い。だから早急に組織に連れて行かなければならなかった。せっかくの人材を失うのは惜しい。だが、彼と最後のコンタクトを取ろうとした日に、つまり今日なんだが、彼の力は暴走した」


 茂木探偵は淡々と語るが、顔色は悪く、汗をびっしりと浮かべていた。気温だけのせいではないようだった。


「井浦君が暴走した場合にも、対処の仕方を俺は指示されていた。まぁ…彼を抹殺しろってことだな」

「なぜ、殺すんですか」


 訊きながらも祐実はそれが愚問だったと思い始めていた。分かりきった質問だと。


「暴走した本人はその止め方が分からないんだ。急成長した能力者にありがちな話だ。暴走した力は周囲を巻き込んで要らない被害を出す。それを止めるにはもはや本人を殺すしか方法がない」


 茂木探偵は首を振った。


「今までにも勧誘の仕事はしてきたが、こればかりはやってられない」


 独り言のように呟いた。

 祐実が井浦の精神世界に引き込まれる前と後で、茂木探偵の様子が随分変わってしまったように祐実には思えた。精根尽きたかのような、疲れきった顔。

「彼にとどめを刺すんですか」

 

 神妙な面持ちで祐実は茂木探偵に問い質す。


「そうだな。彼は大分脳をやられて、自我も崩壊しかけている。死にかけている。苦しく最後を待つよりさっさと楽にしてやった方が良い。だから止めは刺すさ。…彼の精神汚染を搔い潜って気絶させることはできたが、正直そこまでしか出来なかった。暴走していることを良いことに、この少年は力任せに強力な精神汚染を食らわしてきたよ。スタミナを根こそぎ使わされてしまった。それで止めを刺す体力を回復させるためにこうして休んでいたわけだが」


 茂木探偵は変わらず淡々と喋る。そうして平然とした顔で、井浦を、人を殺すと言っている。そのことに祐実は胸の内で動揺した。茂木探偵が書類に判子を押すように当たり前のようにそれをやってしまえると直感したからだ。

 ここに人殺しが、人を殺さんとする人物がいる。まだ殺してはいない。殺されようとしているのは知っている人で、同級生で、友人の好きな男の子で。

 にわかに祐実の胸の中がざわつき、落ち着きなく心臓の拍動が速まる。

 

 なんとかしなければ。

 

 理屈ではなく。ただ心がそう思う。

 真剣な眼差しで祐実は茂木探偵を見据えた。


「彼の記憶を垣間見たんですよ、わたし」


 祐実の声に茂木探偵は、首を小さく傾げた。


「二日酔さんと井浦君の会話でした。井浦君は自分を組織に引き渡した後に、彼の家族に二日酔さんが手を出すと言ってました」


 あの洪水の隙間に見た光景を思い出していた。

「それは本当だったんですか」

「どちらでも構わないだろう。君の知ったことじゃない」


 否定はしない口ぶりに祐実は顔を険しくさせた。


「それじゃあ、井浦君がこのまま死んでしまった場合はどうなるんですか」

「欲している人材が死亡してなぜ周囲の人間を口封じする必要がある?」

「そうですか…。じゃあ、二日酔さんを止めます」


 くくく、と茂木探偵は喉の奥で笑った。


「俺を止めてどうする?彼を病院に連れていく気かね?病院でどうにかできるレベルの症状じゃないぞ、彼は。それに言っておくけど、俺を止めるなら俺を殺すしかないんだぜ」


 さあどうする、と茂木探偵は祐実を促す。

 人殺しを止めたければ、自分に人殺しになれと彼は突きつける。


「二日酔さんは殺しません。わたしは人殺しになりません。そんなの出来ません。とりあえず、こっちは勲とわたしで二人。二日酔さん一人、しかも疲れきっている様子のあなたには負けません。それに早く病院に連れて行けばまだ助かるかもしれない。言っておきますけど」


 言葉を切って祐実は一呼吸して言った。


「わたし、二日酔さんのこと完全に信用しているわけじゃないので」


 唖然として茂木探偵はしばし祐実を見ていたが、途端に笑い出した。


「そうかそうか、信用出来ないか。これは、また意外だったな。君はただのお人好しかと思っていたよ。なるほどね。俺が嘘を吐いている可能性もありと踏んだわけか。良い考え方だよそれ」


 顔色を悪くしたまま茂木探偵は腹を抱えていた。


「それじゃ、一つ提案しよう。ここに薬がある。劇薬だ。ただの人間が飲めば毒になるが、瀕死の人間には劇的に回復を促すという代物だ」


 ショルダーバッグから茂木探偵は缶ビールを取り出した。


「俺が愛用している薬だ。これを君に進呈しよう、紺藤君」

「どういうことですか」

「言った通りだよ。彼を助けたいんだろう。ただし、一つ条件がある。彼を助けたい理由を訊かせて欲しい」

「理由…そんなの」

「その理由如何では薬はやらない。井浦君の命も止めを刺す」

「ふざけるな」


 成り行きを見守っていた勲が一歩踏み込かけて、茂木探偵が薬の缶を握った手を突き出す。


「下手に動くなよ勲君。今の俺の握力でもこの缶ぐらい握りつぶすのは簡単だ」


 勲に向かって警告する。憔悴していても、彼の言葉には有無を言わせない威力があった。


「これは紺藤君に対する交渉だ。俺が納得するに値する答なら彼は助かる。よく考えて答えろよ。君の発言に人の命が懸かっているぞ」


 茂木探偵は不敵に口の片端をつり上げた。


「嫌らしい人ですよね、二日酔さんて」


 眉間を険しくさせて祐実は吐き捨てるように言った。


「そうやって時間を稼いで井浦君が事切れるのを待つ作戦ですか」

「そんな事言ってる暇はあるのかい。本当に彼が死んでしまうよ」

 

 答えに迷ったままでは井浦君が死ぬ。下手なことを言ったらやはり彼が死ぬ。あるいは自分も殺されるかもしれない。

 何と言えば良いのか分からなくなった。

 プレッシャーに呑まれて上手く舌が回らないような気がする。回らないのは頭の中もそうだった。

 

 何故彼を助けたい?答は分かっている。彼には死んで欲しくない、生きていて欲しいと願っている人がいるからだ。

 彼らの気持ちを無視して井浦君は死のうとしていた。現に今死にかけている。

 彼を生かす。

 それは本当に彼の為なのだろうか。周りの人間、どころかわたしだけの独りよがりの願望に過ぎないのではないか。

 彼の能力が暴走したことで、少なからず死者も出たに違いない。彼は無差別殺人者になってしまった。おそらく彼が法廷で裁かれることはないだろう。超能力を使ったとか、そんな原因が今の警察や検察に通じるとは思えない。けれど、彼が殺人という罪の意識を抱えたまま生きることになったとして、それは本当に彼の為になるのだろうか。

 いっそここで死んでしまった方が彼は楽になれるのかもしれない。

 死者が出たなら、殺意があろうとなかろうと、その人達のためにも償いや贖(あがな)いを続けるためにも生きなければならないだろう。そんな理屈も分かる気がする。…でも。


 それも本当に彼の為なのだろうか。

 そもそもわたしが他人の生殺与奪の権限を握るのがおかしい。無茶ぶりもいいところだ。ここでわたしが引けば彼は死ぬのだし、それはわたしが彼に止めを刺して殺したも同然になる。


 祐実は胸の内で自分の考えを巡らせながら、夢現≪ゆめうつつ≫の白い世界の最後の様子を思い起こす。

 こうしている間にも井浦の命は果てようとしている。もたついている暇はない。

 ふと勲の方を見た。勲も祐実を見据えて、首肯≪うなず≫いた。


「大丈夫だ」


 勲は声にこそ出してはいなかったが、そう言ったように思えた。

 祐実は茂木探偵に向き直った。


「茂木さん」

「考えはまとまったかな」

「彼は助けます。死んではいけない人ですから」

「そうか。じゃあ君は彼が死者を出した事実に苦しみながらも生きろというんだね」

「それは…彼にしか分からない問題です。でも彼にはそれ以上に生きていくべき理由があると思います」

「ほお。それは何だね」


 祐実はほんの少し口をつぐんで、黙って考えこむように顔をうつむいた。


「わたしは何もないんですよね」


 ややあって顔を上げて祐実は続ける。


「将来の目標とかやりたいこととか、そういう生き甲斐みたいなものとか。まぁ趣味はありますけど。でも彼は、井浦君は持っているんですよ。色々と。教師になるっていう目標とか好きな子とか。そういう大事な物がいっぱいあるんですよ。何よりも」


 言いかけて言葉を飲んだ。ふとあの刹那に見た井浦の姿が思い出された。

 彼は叫んでいたのだ。彼の心の世界で。まさしくその心奥から、嘘偽りのない、混じりけのない彼自身の思いを。


「彼が『生きたい』と願っているからです」


 轟音の中で彼の叫ぶ姿がありありと浮かんだ。

 茂木探偵は満足げに首肯いた。


「約束だ。薬を」


 そう言って、茂木探偵は薬を置いてその場から数歩下がった。手出しはしない、という意思表示だ。

 祐実は井浦に駆け寄った。

 勲と協力して、息も絶え絶えな井浦を仰向けにさせ、その口にゆっくり缶の薬を流し込んでいく。気を失っているためにほとんどが飲み込まれずに口からこぼれるが、それでもわずかに井浦は飲みこんだ。それはすぐに効きだした。弱かった呼吸が正常に動きだし、少しずつ薬を飲むようになり、さらに体が回復していった。

 血の気の失せた白い顔に赤みがさしていく。

 井浦の目が覚めるまで、それから十分もかからなかった。

 おぼつかない様子で体を起こそうとする井浦を、勲と祐実は両脇から支えてやる。


「…気分はどう?」


 祐実の問いにすぐには答えず、井浦は周囲を見回した。


「水窪さんは…?」

「夏希ちゃんは、ここにはいないよ」

「そうか…。体はまだ、学校なんだ。…紺藤さん」

「なに?」

「…ありがとう。助けてくれて」


 生気の乏しいままの目で井浦は祐実を見て、素直にそう言った。


「そんな。わたしこそ、井浦君に辛い思いをさせてしまうんじゃないかって…」


 不安げに瞳を揺らす祐実に、井浦はいいや、と首を振る。


「僕が願ったことだから。それに、お陰で大事な仕事が出来る」


 井浦は勲に肩を借りて立ち上がった。


「とりあえず、顔拭けよ。すげぇことになってるぜ」


 ハンドタオルを井浦に差し出しながら、勲が言った。


「あぁ、鼻血か。ごめん、ありがとう」


 素直に顔を拭くと井浦の顔は、いくらか綺麗になった。


「何をする気なの」

「アフターケアだよ。さすがに死んでしまった人たちは…」


 井浦は言葉を詰まらせた。自分の意図する所ではなかったものの、自身の能力のせいで人が死んでしまったことはやはり彼に罪の意識を与えた。


「けど、生きている人たちにはせめてものことをしなきゃいけない。それにこれは紺藤さんが


 井浦は全神経を研ぎすます。自分の中心にエネルギーを溜め込む感覚で意識を集中する。今ではもう慣れ親しんだ、スイッチが入るあの感触がする。

 彼の耳の奥で、パチンと音がした気がした。


 井浦の眼前にビルのように大きな巨木がそびえ立っている。枝はどこまでも伸びて天を覆い尽くさんとしている。下に目を向ければ、根は地中深くどこまでも張っている。その無数に別れている枝や根の先端一つ一つが精神汚染を受けた人々の心と繋がっているのが、今の井浦にははっきりと感じ取ることが出来た。


 学校の先生や級友、いつもの駅の駅員、電車の乗客、道で倒れてしまった人、エアバッグに頭を埋めたままの人、至る所にいる人々。

 汚すことができるなら、その逆もまたできるはず。

 井浦は巨木の幹に手を触れた。

 様々な人々の心に染み付いた“汚れ”を一気に引き抜く。

 枝を通し、根を駆け巡り、幹を伝って“汚れ”が井浦の元に戻ってくる。やがて彼の手中に入り込んでそれは消滅した。いや、元の持ち主の一部へと戻った。

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