第26話 持てる者・持たざる者④
祐実は、この精神世界に踏み入れる前に見た井浦の姿を思い出した。夥≪おびただ≫しく出ていた鼻血。尋常ではないと思っていたが、あれが死にかけている状況だったと言われれば、納得できた。
しかし、一方でもの凄く心に引っ掛かったものがあった。
『死ぬつもりだった』―彼のその言葉に、祐実の感情は煮え立ちはじめた。
「状況は分かってもらえたようですね。でも僕の考えには賛同できないってとこですかね。ちなみに僕は今正に、その暴走の反作用で脳が壊れ始めているんです」
「え?その精神感応が暴走したっていうと、来るまでにあちこちで人が倒れていたのは、じゃあ…」
ああ、と言って井浦は目を瞑った。祐実の“記憶”を覗いていた。
「…記憶野の映像が鮮明ですね。間違いなく僕の能力が暴走した結果ですね」
事も無げにさらりと、平然と、井浦は言った。蚊がいたから手で潰しました。そんな風に至極当然に言った。
「おそらく昏睡か、記憶障害、あとは廃人になった人もいるでしょうね。コントロールできないのでどのくらいの程度になったかは分かりませんが」
「井浦君。君は…」
祐実は絶句してしまった。
言葉に表せない気持ちが、どろっと渦巻いたのははっきり分かった。
「紺藤さん、怒ってますね。許せないんですか」
そうだ、許せない。今わたしはこの少年に対して怒っているんだ。
「自分がしでかしたことを、なんでそんなに平気な顔で…!」
彼は感覚が麻痺しているのか?
「脳が壊れ始めているんでね、きっと麻痺どころか僕という人間も壊れ始めているんじゃないかな」
自分の事すら他人事のように井浦君は言う。それは投げやりな態度だ。何もかも諦めて放り出した人間の態度。
「ははは、そんなに怒らないで下さいよ。こう見えて本人も結構参っているんです。僕だって無差別攻撃なんてやりたくないんですから。止めたくても自分ではどうにも出来ない。もどかしくて苦しいんですよ。しかも、もう死んでしまう」
彼の言葉は、どこか表面的な印象でしかなく、彼自身が壊れ始めているのは確かな事のように思えた。
「正直君が壊れているかなんて知んないけど、今わたしは君にすごくむかついてる。あれだけのことをしたのが不可抗力だっていうならそうかもしれない。それでも君の態度はわたしは嫌い。その全部丸投げしたような投げやりな姿勢が、気に食わない」
だって。この少年を心配して泣きはらした娘を知っているから。
心配してくれている他人がいて、どうか無事でいてと祈っているのに、当の本人がこんな態度でいるのが無性に腹立たしい。
何なんだ。この気持ちは。引っ張り叩いてやりたい。
「いいですよ、殴ってくれても。どうにも出来ないんですから。もう何も。なら鉄拳制裁ぐらいは受けないと、皆に申し訳ない…」
井浦はうつむき、ぼそりと呟く。
「皆…。そうだよ、君には周りに色んな人がいる。君はそうやって大事な物がいっぱいあるんでしょ」
握った拳の中で爪が手のひらに食い込みそうになっていた。
「でも、もう僕は何もできやしない」
「本当にそう思ってるの?」
「実際、取り返しのつかない所まで来ているじゃないか」
「うそ。まだ未練があるように見える」
「未練なんてないわけないだろう!」
突然、井浦は激高した。
「君の言う通り、大事な物がいっぱいあったよ。でも、僕はもうこのまま生きていくことは不可能だ。大事な人たちとかやりたかったことも諦めてこのまま消えていくしかない。僕はもう生きていてはいけない。取り返しのつかないことをしてしまったからっ…」
彼は冷静さを装っていたんだ。ここにきて胸の内を曝≪さら≫け出したみたいだった。
「死んでしまった人もいる。精神を汚染されて人格を破壊された人もいる」
虚ろな目をして彼は言う。
「もう駄目なんだ。償いきれない罪を犯してしまった…」
心が絶望で溢れていくのがわたしにもよく分かった。彼の精神領域にいるせいか、ダイレクトに彼の感情が伝わってくる。見れば彼の髪は白髪に変わっていく。絶望感が見て取れた。
「井浦君…」
言葉が続かなかった。今の彼に何て言えばいいんだろう。何もわからない。
彼は死にかけている。まだ死んではいない。なら、大事に思ってくれている人がいるんだから、もう少し生きる希望を持ってとか、最後まで諦めるなとか、そんな事しか頭に浮かばない。わたしが何を言っても他人からの押し付けがましい、ただの綺麗事でしかないように思えた。
さっきまでは彼の頬をはたいて説教の一つでもしてやりたい気分だったのに、そんなことはもうどこかへいってしまった。
わたしの言葉では彼に何もしてやれない。
彼の背後にそびえる巨木は、この白い世界を覆い尽くす勢いで、こうしている今も無限に枝が伸びているみたいだ。
視覚のせいか距離感が掴みにくいが、かなり大きな樹だ。ひょっとしたらビジネス街の高層ビルよりも大きいのかもしれない。
足元に目を向けると、大地に張った根は、なぜか地中に潜っているその先も見えていた。見ようと思えばどこまでもその根の先端まで知ることが出来る。心の世界だから、感覚や気持ちだけで何でもできるのだろう。その根の一つが行く末に、わたしは何とは無しに、彼女のことを思い浮かべていた。
そうだ。彼女なら。彼女こそ。
現実世界の保健室で倒れている彼女が見えた。彼女も暴走した彼の能力で精神汚染を受けたんだ。きっと巨大樹の枝や根は精神汚染を受けた人、一人一人の心と結びついているんだろう。理解するよりも直感でそう確信した。
一瞬目の前がホワイトアウトして再び目を開けると、精神世界に彼女は立っていた。
「夏希ちゃん」
わたしはすこしほっとした。目の前の夏希ちゃんは、きょとんとしているが、精神が文字通り破綻してはいなかった。学校で別れたときのままの綻びのない姿。精神汚染はどういうわけかここに来るまでに治癒されていたようだ。
「祐実ちゃん?」
戸惑っている彼女の手をわたしは両手で握った。ややあって、彼女から手を離した。これで彼女にやってもらいたいことは伝わった。
彼女はわたしを見て、小さく首肯≪うなず≫いた。
「井浦君は…?」
「あっちに」
わたしが視線を向けた先に、髪を真っ白にした井浦君が立ち尽くしていた。すでに保健室から元の大樹が見える所へと戻っていた。
「なんで、彼女を、水窪さんをこんなところに連れてきたんだ!?」
「以心伝心だったよね。わたしの考え少しはわかってるんでしょ」
「無茶を!大体なんで主導権を握っているはずの僕しかできないことを、君が出来るんだ!?下手したら彼女が本当に死んで―」
「わかんないよ、そんなの。出来そうな気がしたから彼女を連れてきたの」
井浦君の言葉を遮って言った。喚いている男はみっともないったらない。
「ごめんね夏希ちゃん。彼に言えるのはやっぱり、夏希ちゃんしかいないと思う」
ううん、と夏希ちゃんは首を横に振った。
そして、井浦君に向き直った。ゆっくりと彼に歩み寄っていく。
「水窪さん…駄目だ。来ないで。頼むから。僕は、僕は…君を。殺しかけたんだ」
彼女は歩みを止めない。彼の眼前にまで来て、彼の手をそっと握った。
彼の精神世界にいる以上、彼には彼女の気持ちや考えも感じ取れているだろう。
「でもちゃんと言うね。井浦君」
彼は震えていた。彼女の声も震えていた。
「井浦君は、バカです」
井浦君は視線を落とした。
「人の気も知らないで死のうとしてたんでしょ。最低です」
たぶん、夏希ちゃんは泣いていた。顔はよく見えなかったけど。
「ホントに……バカ」
夏希ちゃんはそのまま、井浦君の胸に倒れ込むようにして、握った拳をどんと打ち付けた。そのまま彼女は井浦君の胸に顔を埋めてしまった。肩が震えている。
「ごめん」
井浦君は他に言うことがみつからない様子だ。
「悪くないんだよ。井浦君は何も悪くない。…仕方のないことだったんだよ」
「でも、それでも。僕のしでかしたことなんだよ?あまつさえ、君にすら危害を加えてしまった…それに」
「どちらにしろ体は死にかけてるって言いたいんでしょ?それも仕方のないことだよね。でもね、井浦君が死にたいと思って死ぬのと、体が勝手に死んじゃうのは別だよ。全然違うの。だから、井浦君は悪くない。それが言いたかったの」
「…僕は、大馬鹿だな…本当に」
ごめん、と呟いて井浦君は夏希ちゃんを抱き寄せかけて、手を止めた。
低く呻くような、地響きにも似た音がした。
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