第29話 紺藤祐実の日常、再び①
校門へ向かって祐実は歩いていた。放課後の、至る所で始まる部活の気配がする祐実のお気に入りの時間帯だ。以前に比べて活気が少なく感じられるのは、まだ復帰していない生徒も多いからだろう。
事件、と祐実は勝手に呼んでいるが、あの岩家の山頂での出来事からしばらくの間、市内全ての学校は休校状態になった。あの時の精神汚染は広範囲に作用していた。その後の報道では富河市のほぼ全域に被害が出たことを知った。一人の人間の力が街を丸ごと昏倒させていたのだ。たった一人の力はそれほどまでに強力な物だと、茂木探偵は後に祐実に語った。
祐実達の高校も例外なく、被害が出ていた。全校の生徒、教師は皆精神汚染を受けて昏倒、意識不明状態に陥っていた。その数十分後には皆意識を取り戻し、幸いにして校内で倒れた中には軽傷者は出たものの、死者はいなかった。けれど学校だけではなく地域全体で同じ現象が見られたため、調査などの目的で休校が一週間以上続いた。そして学校が再開したのが今日だった。
部活動は、健康面の懸念もあり様子を見ながら徐々に活動を取り戻していくことになった。不調に思ったら無理をせず病院へ行くべしと教師たちは口をしょっぱくして繰り返し生徒たちに伝えていた。その割には授業は平気で通常通りに進行していたことに不満を抱く生徒も少なからずいた。課題もいつものように出され、イレギュラーな生活は、そうやって以前のような日常生活に引き戻されつつある。
祐実もいつもなら夏休みが終わって学校が再開する時などは寂しい気分にもなるのだが、今回ばかりはいつもの生活に早く戻れたことが嬉しかった。事件の中心に居合わせてしまった手前、被害にあったそれぞれが、一刻も早く回復してくれることを願わずにはいられなかった。
そういう祐実の気持ちからすれば、学校がずっと休校状態になっていた方が良かったとぼやく生徒たちは、吞気なものだと思えてしまう。自分たちも被害者なのに、と。
被害者。今回の件ははっきりと原因と結果が存在する。
井浦淳也という少年が精神感応の能力を暴走させてしまった故に起きた事件だ。そのことを知る者はあの山頂にいた者たちだけだ。茂木探偵の依頼主ももちろん知っているらしい。それを含めても世間にその真相を知る者はほとんどいない。警察も消防も、特別に立ち上げられた調査委員会も、真相は知らない。
それなのに連日の報道ではとある企業が郊外に構える化学工場からの排気ガスに、人を昏倒させる成分が含まれており、それが大量に市内へ流れ込んだことで発生した事故だったと説明がなされていた。本来なら外へ漏れる事のない物質が排気設備の故障により漏洩してしまったということらしい。そういった内容が瞬く間にメディアで伝えられ、最初こそは原因不明の怪事件として奇異の眼差しで取り上げていた全国の関心は、因果関係がはっきりしたことで急速に薄れていった。同時に世間は、海外の紛争や経済問題などもっと自分たちの生活に関係してきそうな危機問題にまた目を向けるようになった。そうやって世間も日常へと戻っていった。
祐実は茂木探偵と再び会った時、この報道内容は何なのかを問いつめた。茂木探偵は「大人の都合だ」と事細かに説明するのが面倒くさそうに、そう一言で片付けた。
それでも祐実が納得しかねる様子でいたので、「そうやって原因不明にするより原因と結果を明確にした方が人間は納得するものだ」と言った。そして「報道されているデータとかは全部でっちあげだ。しかし矛盾がないように根回しはされているから問題はない」のだそうだ。
吹奏楽部の、何の楽器なのか祐実はよく知らないがどこかのんびりして優しい音色に、演劇部の発声練習の声、グランドで交わされる野球部の活気のある掛け声、体育館から響くシューズと床のこすれる音、いくつものボールをつく音。いくつもの音は夕方前の景色を色づいて見せる。そんな音に耳をすましてみようと、祐実は立ち止まってみる。
井浦にはこういう鼓膜を伝わってくる音の他に、人の心の声が聞こえていたという。それがどんな心持ちになるのか。聞きたくもない他人の醜い思考が頭の中に入ってくる、そんな状況になったことがないから、本当に井浦の気持ちを理解するのは難しい。ただ厭な気分にはなるに違いないというくらいしか祐実には想像出来ない。
不意に後ろから通学用のリュックを叩かれた。振り向くと勲がいた。
「リュック叩くなって言ってんでしょ」
「よぉ」
祐実の呆れた口ぶりは無視して、勲は左手を上げて挨拶した。その手には白いテーピングがしてある。首元にはいつもの黒いヘッドホン。
「今帰りか」
「勲はまだ怪我治らないの?」
「まだかかるなあ。自主トレとか筋トレはしてるけどさ。んで、立ち止まって何黄昏れてたんだ?」
「あ、ああ、いや。井浦君も大変だったなぁ、て」
いざ聞かれると間抜けな答えしか出てこない。
「まぁ、そうだよな」
勲のほうは特に気に留めもしていないように、素っ気なく同意した。
二人は並んで歩き出した。
「あいつの見舞いに行ったんだろ?どうだった」
「思ってたより元気そうだったよ。でもやっぱり怪我人とか死んだ人がいることにショックは受けてた」
事件の(世間的には事故の)調査が進むと、死傷者の数も明らかになった。市内各地で五十人が死亡、七百名以上が怪我をし、意識不明の重体になった者も百名近くも出たのだ。
茂木探偵はこの街の規模から言えば死者五十人はまだ少ない人数なのだと後に語る。
人数がどうあれ人の命が消えたことに変わりはなく、そのことで井浦が負い目を覚えるのは分かりきっていた。
郊外の大きな総合病院。フロアは10階までありその最上階の端に井浦の病室はあった。祐実は夏希と連れだって見舞いに来た。個室のその病室を訪れるとベッドのリクライニングを少し起こして、彼は横になっていた。
夏希はベッド脇の椅子に腰をおろして、井浦の体調を窺ったり学校の様子を話して聞かせる。祐実は挨拶をするくらいで二人の様子を眺める。
会話の中で、井浦はテレビニュースか新聞か、彼は事件の死傷者数を聞き知っていたようだ。彼の顔色が暗くなる。祐実も夏希もかける言葉が見つからない。けれど井浦は、しばらく考え込むように俯いていたが、
「何ができるかは分からないけど、僕なりにできることをやって、せめてもの償いをしていく」と顔を上げて言った。悲嘆と暗い色を顔に浮かべつつも、彼の言葉には力があった。
井浦がこの先どうすべきか、正解など誰にもわからない。ただ、祐実や夏希にとっては、今の彼の言葉が一番正しいことのように思われた。
夏希は黙って彼の手を優しく包むように握った。あの特異な力が暴走したせいか彼の腕も手も数日で痩せ細ったように見えた。
夏希は柔らかい笑顔で井浦を見つめ、井浦も弱々しくも微笑んで見せる。
雰囲気の良い二人を残して、祐実は病室を一足先に出た。病院の一階までエレベーターで降りたところで茂木探偵がいた。祐実を見つけると「よぉ」と軽薄な笑顔で片手を上げて挨拶をする。
フロアにはチェーン店のカフェが入っており、入院患者や付き添い人、見舞客などが利用している。そこの一席へ茂木探偵と祐実は座った。
茂木探偵はアイスカフェオレにキャラメルソースをトッピングして、さらにガムシロップを三、四個、次々とかけている。甘党なのだろうとは思っていたが、ここまでとは―と祐実は引いた目で見る。茂木探偵は視線に気づいたが一向に構わない様子で、ガムシロップをかける手を止めない。
「戦闘で疲れた心と体を癒すには糖分が必要でね。覚えておくと良いよ」
「それでどういうご用件ですか?」
茂木探偵の言葉をきっぱり無視して祐実は話を促す。
「井浦少年のことで伝えておこうと思ってね」
そう言って、茂木探偵は井浦の処遇について語りだした。
井浦は今現在、能力を失った状態である。茂木探偵曰く、一度暴走した能力者が延命できた場合、能力を失うのがほとんどなのだそうだ。それが薬によって一命を取り留めた直後に広範囲に渡って能力を使用したことが、稀少な事例だったとされ検査と安静とを兼ねての入院となっている。
「ここの病院は僕のいる組織ではないが、まぁ同業他社の管理する病院でね。彼のような人間を治療するには丁度良いところなんだ」
茂木探偵はそう付け加える。そしてこう続けた。
井浦は能力が再発する恐れがある。過去に、井浦と似た状況にあって、その後能力が再発した事例があったのだそうだ。
「彼に能力が戻ってきたら、また彼のことを脅したりして連れて行くんですか」
祐実は茂木探偵を睨んだ。対して茂木探偵は柳のようにその視線をいなし、快活に笑う。
「そんな強引な手はしやしないよ。チャンスがあるなら交渉はしたいがね。ま、そんなチャンスは来ないと思うが」
というのも井浦少年については、二つの組織が共同で監視しているのだそうだ。うち一つは茂木探偵とその依頼人が属する組織、一方は対立関係にある組織で、今回の井浦の一件で水面下で交渉が持たれて異例ではあるものの、共同での監視という形に落ち着いたらしい。だから井浦少年をどちらかがその身柄を隠したり匿ったりはできない。そういうことらしかった。
「ま、井浦少年だけじゃなく、富河市を中心にした近隣の地域全体が監視対象なんだがね」
面倒なことだよ、と茂木探偵は言った。
組織の存在は表からでは決して分からない。二つの組織はそういうものだそうだ。祐実からすれば組織だの会社だのその兼ね合いや関係性というものがよく分からないから、あまり興味もない。とにかく井浦の安全は保証されていることが分かっただけで十分だった。
「ちなみにですけど、これ守秘義務のある話ですよね」
ふと祐実は思い出して不安気に確認する。一瞬、茂木探偵はきょとんとした顔をして、笑いを堪えるように喉の奥で笑った。
「いや、すまんすまん。律義な奴だなぁって感心してしまった」
「そんなに笑うことですか」
不服そうに祐実は言った。
「あぁいや、確かに守秘義務ではあるが。君、ちょっとは頭働かせてご覧よ。僕の今言った話を君の周りの大人が信じると思うかい」
そう言われて祐実は口を曲げた。超常現象のど真ん中にいた経験から、茂木探偵の説明の一切合切を嘘偽りないものと思っていた。確かに事実ではあるだろうが、それを誰かに説明したところで自分の精神が疑われるのは火を見るよりも明らかだ。
「それに警察や司法にも二つの組織は根を張っているからね。何かあっても揉み潰すことは簡単さ。今回の件だって報道を見たろ?そういうことさ」
茂木探偵は人をからかうように笑った。そして愛用のショルダーバッグから封筒を取り出して祐実に渡す。
「今回の助手としての報酬だ。中々に大変な仕事ではあったから少し色を付けといたよ」
中身を見て祐実は、目を丸くした。想像した以上に紙幣で厚みが出来ていた。
「遠慮はするなよ。それで彼氏とのデート代にでもしなさい」
「彼氏って…」
言いかけた祐実には構わず、茂木探偵は席を立つ。「ああそうだ」と言って振り向く。
「バイトがしたくなったら、うちで雇ってあげよう」
そう言い残して茂木探偵は病院を出て行った。
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