27.舞踏会の落とし物
使者の先触れが来る。身分の高い者が訪れる場合、また、その使者が正式に訪れる場合など、先触れを出すのが王侯貴族の慣例である。そして、先触れから知らされた者は迎える準備をしなければならない。
ヨエルはホーエンハイム男爵家の当主として、コック姿から、正装に着替えた。
皇帝からの使者。
レイラには嫌な予感しかしなかった。料理対決の折の追加の褒章などを届ける、という可能性もある。また、皇帝玉体自らが、陽だまり亭に“餃子”の試食に来るという可能性もある。
しかし、それならばなぜ、このタイミングであるのか。
まさか、私が皇帝の花嫁に? 自分が皇帝の花嫁になるかもしれない、と考えること自体が不遜でおこがましい。
まして、嫌だ、と思ってしまうなど不敬以外のなにものでもない。貴族の風上にも置けないどころか、貴族失格であろう。ノブレス・オブリージュの放棄である。
そもそも、貴族の娘であれば、一度は皇帝の花嫁になることを夢見る。が、今のレイラにとってそれは悪夢でしかない。
誰の花嫁になりたいか。そう問われたら、思い浮かぶのはマックの顔だ。
ハンバーグ定職を食べているマックの顔。
テレジアと兄ロバートとの会話を静かに微笑みながら聞いているマックの顔である。
どこか懐かしそうな、悲しそうな、でもうれしそうな顔をしながらハンバーガーを食べるマックの横顔である。
少しだけ寂しそうな背中で夕日を浴びながら陽だまり亭を去るマックの後ろ姿である。
深淵の黒い髪と、そしてその黒髪には似つかわしくないエメラルドの瞳。
剣の鍛錬によって、堅くなった手のひら。だけど、優しく自分の手を引いてくれる。
「私たちが使者の対応はするわ」
母のメアリも正装に着替えたようで一階の食堂に降りてきた。父より遅かったのは、髪を結っていたからだろう。そして、社交界用の白粉やアイラインを引いていたからであろう。
「レイラは、裏の畑で、カボチャを取っていてね。夕飯においしいスープを作ろうと思っているの」とメアリが言った。
「わかりました」とレイラは言って、陽だまり亭の奥へと引っ込み、さらに勝手口を抜けて家庭菜園へと行った。実ったカボチャとかぼちゃの大きな葉の下を、ちょろちょろと六匹のトカゲが走っていた。
レイラは丁寧にカボチャを選ぶ。スープにするなら大きくてしっかりと身が詰まっているカボチャがよいであろう。
カボチャをポンポンと人差し指と中指の第二関節で叩いて品質を確認する。
「あら? このかぼちゃ。ネズミにかじられた跡がある。もしかしたら、ハツカネズミかもしれないわ。ニコルにネズミ捕りの罠を作ってもらわないと、他のカボチャも齧られてしまうかもしれないわ」
レイラは、そう自分に言い聞かせるように言った。
レイラはスープに適したカボチャを収穫すると、キッチンに戻った。まだ、ハンバーグ用のパテに使う玉ねぎの皮むきをしていないことに気づいたレイラは皮むきを始める。
「レイラ、ちょっと来てくれ」とヨエルの声が食堂から聞こえてきた。
食堂には帝国の使者がまだ残っていた。
「レイラ、使者様が直接、お前に尋ねたいことがあるそうだ」と父がレイラに言う。
「レイラ・ホーエンハイム男爵令嬢、ご機嫌麗しゅう」
「ホーエンハイム男爵が長女、レイラでございます。皇帝陛下に神のご加護と長寿を。帝国に繁栄を。そして、ホーエンハイム家の忠誠をどうかお受け取りください」とレイラも挨拶をした。
皇帝からの使者であるので、その使者が皇帝であるものとして対応しなくてはならない。
「単刀直入にお尋ねしよう。このドレス・グローブに見覚えがあるだろうか? この忘れ物は、舞踏会に招待された五十人の令嬢のうちの一人が忘れていったものだ。そして、この持ち主をこそ花嫁にというのが皇帝のご意思である。もし、この手袋のサイズがぴったりで、そしてこのグローブが自分の物であると証明できれば、あなたは皇帝の花嫁だ」
使者はそう言い切った。
つまり、花嫁候補は、レイラが参加した日に舞踏会の参加者50名に絞られたということだ。花嫁探しの舞踏会は、毎晩50人の貴族令嬢が招かれていた。そして皇帝はその令嬢たち全員とダンスを踊った。
使者が手に持っているのは、紛れもなくレイラのグローブであった。皇帝とダンスを踊ったあと、どうやらどこかで落としてしまったあのグローブである。
似たようなデザインのグローブは存在するかもしれない。しかし、そのグローブがレイラの物である以上、レイラの手のサイズとぴったりである。
また、自分の物であると簡単に証明することできる。
このグローブがレイラの物であると簡単に証明できるひとつ目が、レイラの化粧ダンスの奥底に、その片方が仕舞ってあるからだ。あの日、舞踏会に行ったときのドレスとともにしまい込んである。もう片方のグローブを使者に見せれば、それで証明は完了であろう。
また、このグローブがレイラの物であると簡単に証明できる理由の二つ目は、グローブが厚手の生地で作られているということ。レイラは手が冷たいことから“氷の魔女”として社交界で虐げられてきた。手が冷たいことがばれないように、厚手の生地で母のメアリが縫ってくれたのだ。通常のパーティー・グローブは、シルクなどの薄手の生地であるが、このグローブはゴム手袋のように分厚い生地である。生地が厚いのは、手の肌の温度を殿方に悟らせないためである。そして、そのように手の肌の温度を隠したい理由の持ち主は、“氷の魔女”として揶揄されていたレイラしかいない。
レイラは、グローブをじっと見詰めながら考える。
もし、自分がこのまま皇帝の花嫁となったら。
きっと皇帝直属の近衛兵であるマックは、夫となった皇帝だけではなく、皇帝の妻となった自分をも護衛するのであろう。
心から慕うマックが、自分の護衛となる。距離は近いかもしれない。しかし、皇帝の妻と護衛の騎士という関係は、世界の果てと果てくらい遠い距離である。
きっと、二度と手の届かない、手をつなぐことも許されないマックに護衛をされることは、とてもつらいことだ。とてもきついことである。何に変えても耐えられないと思った。
『きっと、他のご令嬢は、このグローブが自分の物でないのにかかわらず、自分の物ですと言うでしょうね。だからきっと大丈夫よ』
レイラは答えた。
「まったくそのグローブに見覚えがありません」
「そうか。時間を取らせてしまい申し訳ございません。では、明日までにあの日に舞踏会に参加した令嬢たちすべてに同じことを尋ねなければいけませんので失礼いたします」
「足をお運びくださり感謝いたします」とヨエル、メアリ、そしてレイラは頭を深々と下げ、皇帝の使者の場所を見送るのだった。
夕飯時、ヨエルはパンをカボチャのスープに浸しながらレイラに尋ねた。
「どうして知らないと言ったんだい?」
ヨエルも、あのグローブがレイラのものであると知っていたのである。
「ごめんなさい、お父様。皇帝の妃になれば、きっと結納金も莫大で、領地のドーリア川の治水工事のための資金も、ペンバル森林の開墾もできたかもしれないのに。ごめんなさい」
「謝ることではない。治水も開墾も、ロバート、もしくはニコルが終わらせてくれれば、もしくは、レイラも含めて、その息子や孫たちが完遂してくれればよいと思っているさ。愛しいレイラ。怒っているのではない。理由を教えてくれないか?」
ヨエルは優しく問いかける。しかし、同じ食卓を共にしている母のメアリも、弟のニコルも、口には出さないが、父の鈍感さに呆れるのである。そんなことは、マックが陽だまり亭に来た時のレイラのうれしそうな顔を見たらすぐに察しがいくはずである。
「実は……私は、皇帝陛下の近衛兵であられるマック様のことをお慕いしています」
同じ食卓を共にしている母のメアリと弟のニコルは、夫・父の鈍感さもさることながら、娘・姉であるレイラの察しの悪さに呆れていた。
ヨエルはレイラの言葉を驚きつつ、「そうだったのか。だが、お前があの男、マックを慕っていても、おそらく貴族である彼と結ばれる可能性はそう高くないぞ? そのことは理解しているな?」と言った。
「はい」とレイラはゆっくりと答えた。
「わかった。では、まだ持っているか? もう片方のグローブを」
「衣装ダンスの奥に」
「じゃあ、持ってきなさい」
「かしこまりました」
食事の途中であるが、父からの言葉だ。レイラは自分の部屋の衣装ダンスからグローブを持ってきて父に差し出した。
それを受け取ったヨエルは、そのままカボチャのスープを温めていた暖炉に投げ込んだ。
「このグローブさえ手元になければ、お前だったとはもう誰も分かるまい。お前が望む結婚を父として、またホーエンハイム家当主として用意できるかはわからない。だが、お前が望まない結婚をさせるつもりはない。たとえそれが皇帝であろうともな」
「ありがとうございます。私のわがままを聞いてくださって」
「いや、当然さ。さぁ、辛気臭い話は終わった。食事を続けようじゃないか。今月も、なんとか黒字だったのだろう、ニコル?」
「今月は、銀貨2枚の黒字だよ。新メニュとして導入した“餃子”の人気が売り上げに貢献したね。それに、うちの看板メニューであるハンバーグと比べると、餃子は使用する肉の量が単価のわりに少なくて済むし、利益率が高いメニューになっているよ」と、文官志望のニコルはすらすらと答える。
「銀貨2枚は最高記録ね」とメアリも喜ぶ。
「あぁ。領地で踏ん張っているセバスたちにボーナスが出せるかもしれないな。あと、牛舎の増築の費用も早く積み立てることができるかもしれないな。あと……緋衣国に陽だまり亭の支店を出す資金の積み立ても行うのはどうだろう?」
「緋衣国にですか? でも、そんな余裕は……」とレイラは言った。
「お姉さま、たぶん、お父様は、緋衣国の支店を、お姉さまとマックさんで切り盛りしたらどうだろうかとお考えになっているのだと思うし、マックさんが高位の貴族だったら、二人で緋衣国に行くのは現実路線だと思う」とニコルは父の真意を察し、姉にそれを伝えた。
「その通りだ。彼にその気があれば、一緒に緋衣国へと駆け落ちすればよい。そして、緋衣国で家庭を築き、新しい生活を始めたらよいじゃないか。もともと、ニコルが成人したら爵位は返上しようとお母さんと相談していたしな。つまり、あと一年と半年ということだ」
「でも、それじゃあ……」
「孫の顔を見るついでに緋衣国に旅行にでも行って会えるさ。それにね、レイラ。ホーエンハイム家の初代はもともと開拓者のリーダーだったんだよ。未開の森を開拓して畑にし、家を作り、家畜を飼い始めたことがホーエンハイム家の始まり、領地の始まりだ。新天地を求めて、旅立つことはホーエンハイム家の根底であると言ってもよい」
「分かりました。時期を見て、マック様に相談をしてみます」とレイラは父に深く感謝しながら言った。
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