8.テレジア・アリスター侯爵令嬢からの招待状
連日連夜の舞踏会が終わって一週間が経った。王都は少しずつ平静を取り戻しつつも、どこか落ち着かないそわそわした雰囲気であった。
帝国の臣民達は、新皇帝の新たな妃が誰に決まったのか、その発表を待ちわびているのである。
しかし、帝国から布告される内容は、帝国の新体制に関する人事ばかりであった。内務大臣にホールマイヤー侯爵が任命された、だとか、外務大臣にアムシュタット伯爵が任命された、などの発表が続いていた。
マクドナルド・ジョージ・ジュニア皇帝の新たな治世を示す重要な発表ではあるが、帝国の市民たちの反応は薄かった。
王妃が決定の知らせを、今か今かと首を長くして待っているのである。
ホーエンハイム男爵の陽だまり亭も、日常を取り戻していた。
「レイラ、挽肉あがったよ。あと、卵、ここに置いとくね」
「ニコル、ありがとう。下味をつけておくわ」
陽だまり亭は、開店時間に備えて、料理の準備や仕込みで大急ぎであった。先代皇帝から新たな皇帝が即位したとしても変わらない日常である。
唯一、変わったことがあったと言えば、兄のロバートが昇進をしたということである。
名誉のために伏せられているが、とある男爵の娘が舞踏会に参加すべく、王都に上京する途上で誘拐されていたのである。
犯人は、王国の刺客であった。
暗殺者が何食わぬ顔で、誘拐した男爵令嬢として、舞踏会に忍び込もうとしていたのである。ロバートは、刺客を取り押さえ、そのまま王都に監禁されていた令嬢を救出したのである。
その功績により、警備兵から、近衛兵の末席を連ねるものとなったのだ。
ロバートの給金が上がったことで、ホーエンハイム家への仕送りも額が増えることとなった。特に、ヨエル・ホーエンハイム男爵はロバートの昇進を喜んだ。
長年の悲願であった、領の未開拓地域の開墾資金を積み立てることができるようになったと、王都滞在の間に領地を任せているセバスに手紙を書いたほどだ。
レイラの日常生活は舞踏会が終わっても何も変わらなかった。強いて言えば、ドレスが以前よりもタンスの奥底に収納されたということくらいである。
陽だまり亭の昼営業が終了し、ホーエンハイム家は夜の営業に向けて各々準備をしたり、つかの間の休息を取っていた。
そんなホーエンハイム家陽だまり亭に一台の馬車が止まる。皇帝が使う豪華な馬車ほどではないが、爵位の高い貴族が使う馬車である。
「私は、アリスター侯爵家に仕える執事長のモーリスと申します。レイラ・ホーエンハイム様はいらっしゃいますか?」
馬車から降りた燕尾服を着た老紳士が陽だまり亭の門を叩く。アリスター侯爵家といえば、帝国でも有数の大貴族である。
「あ、アリスター侯爵家! な、な何か、娘に用事でございますか? 汚い屋敷ですが、どうぞおかけください。アンナ、直ぐにお茶を。ニコル! すぐにレイラを呼んでくるのだ」
貴族からの使者ということでホーエンハイム家の当主であるヨエルが対応を代わり、下手したてにでるヨエル・ホーエンハイムである。
ホーエンハイム男爵家とアリスター侯爵家は、比べるならば、ライオン百匹と蟻一匹くらいの格の差がある。
帝国建国に多大な貢献をした伝統のアリスター家と、先々代に爵位を与えられた新興男爵家。
「お客様ですか?」
屋敷の裏庭で野菜を洗っていたレイラがニコルに呼ばれ、勝手口から戻ってきた。
「私は、アリスター侯爵家に仕える執事長のモーリスと申します。レイラ様に、テレジア様からのお茶会の招待状を届けに参りました」
「お茶会……ですか」
貴族の社交会には、大きく分けて二つがある。
一つが、夜の部とも称される舞踏会である。
そして、もう一つが昼の部とも称されるお茶会・サロンである。
舞踏会は、ダンスとお酒がメインとなるが、お茶会・サロンは、コーヒー・紅茶とお茶菓子がメインとなる。
主に男性貴族が昼の部で参加するのがサロン。女性貴族が参加するのがお茶会である。
「私がですか?」とレイラは父親と母親、そして執事のモーリスを交互に見たあと尋ねる。レイラは、一度もお茶会に参加した経験がなかった。それに、招待を受ける縁えにしなどないように思えたからだ。
「この前の舞踏会で、知り合ったとかではないのだね?」と父ヨエルがレイラに尋ね、レイラは首を横に振る。
舞踏会で、他の貴族と会話を一切していない。というか、アリスター家の令嬢が同じ会場にいたのかさえ、レイラには分かっていなかった。
サロン・お茶会というのは、貴族の交友関係や友情を深めるために行われるという建前であるが、貴族の間での情報交換や派閥形成を目的とする場合がほとんどである。
そして、お茶会では、陰湿なイジメが行われることがある。そして、ターゲットとなるのは身分の低い貴族の娘である。
まったく交流のない侯爵からの突然の招待状。
そして、まだ、皇帝の妃が発表されていないという状況。
嫌な予感しかしない。
「せっかくのお誘いだが、お断りさせていただこう。モーリス殿、お引き取りを」
ヨエル・ホーエンハイム男爵は、アリスター家からのお茶会の誘いは嫌がらせの類いであると判断したようである。
ヨエルは、先ほどの下手とは態度をコロリと変え、毅然とした態度でモーリスを睨み付ける。
実はヨエル・ホーエンハイムは、領地と家族を守る為になら、俠気を発揮する男であるのだ。
陽だまり亭を開き、平民相手に頭を下げて商売をしている。他の貴族達からは揶揄され、貴族の誇りを失った面汚しだと馬鹿にされる。『貧しい貧乏男爵ですから〜』とヨエルはヘラヘラといつも笑ってそれを受け入れている。自分の貴族としてのプライドよりも、領民の食卓にのぼるパンが一つ増えることを優先する。
レイラを社交会に出さないのは、その金銭的余裕がないということもあるが、レイラを守るためでもあった。
「御意向、承りました。また、テレジア様より断られた場合の伝言を承っていますので、お伝えいたします。『レイラ・ホーエンハイム様がお茶会を開催されのであれば、万難を排して出席いたしますので、ご招待をお待ちしております』。テレジア様からの伝言は以上です。では、失礼いたします」
アリスター侯爵の執事とだけあって、モーリスは完璧な仕草で一礼をし、馬車に乗り込み去っていった。
「お姉様、ほんとうにその、テレジア・アリスター様とお知り合いになったとかじゃないの?」と弟のニコルが尋ねる。
「えぇ……そのはずだけど……」
レイラも、伝言の内容がおかしいので、やや自信薄に首を傾げた。
テレジア・アリスター侯爵令嬢の伝言。
つまり、『私の招待したお茶会に来ないなら、あなたが私をお茶会に誘いなさい』という意味である。
だが、レイラはお茶会を主催したことなどないし、主催するつもりもないし、主催する予定もない。それに、一度も会ったことすらないので、招待をする間柄でもないし、招待する義理も無い。
そして、お茶会は自分の屋敷で開催するものである。しかし、ホーエンハイム男爵家の屋敷は、陽だまり亭として営業しているので、お茶会を開くことなどできない。
「一体、なんだったのかしら?」
レイラの言葉に、ホーエンハイム家全員が「さぁ?」と言った。
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