7.氷の魔女

 レイラは、計らずしも、本日の舞踏会で皇帝とダンスを踊る五十番目、トリとなってしまった。


 参加者の誰もが、もう舞踏会の終わりを皇帝が宣言するのだろうと思っていた矢先のできごとである。




 皇帝が、レイラを会場の真ん中までエスコートしていく姿を、他の者達は黙って見ていることしかできなかった。


 サクラの男性役も、舞踏会令嬢にダンスを誘うタイミングを逸してしまっているのである。


 皇帝が楽団の指揮者を一瞥した。指揮者は慌てて指揮棒を振って、楽士たちが演奏を開始した。




 音楽に身を任せて躍っているのは、皇帝とレイラの一組だけである。先ほどまで参加者であった令嬢達が、”観客”へと変わっていた。




 貴族は人目を引くことを一つの美徳としている。ゆえに高価な宝石やドレスを身につけて自分が人よりも目立とうとする習性がある。


 そして、自分より目立つ人間を嫌悪するという習性もある。




 他の四十九人の令嬢達は、羨望よりも嫉妬の目でレイラを見ていた。




 が、レイラの意識は目の前の皇帝……いや、男性にだけ向けられていた。




  少し、戦場の話をしよう。


 使い捨ての一兵卒に過ぎない兵士の名前を、数万を指揮する将軍が覚えていて、その男に労いと激励の言葉をかけたらどうなるだろうか?


 答えは簡単である。


 その兵士の士気は高揚し、獅子奮迅の如く、戦場で働くであろう。




 舞踏会に話を戻そう。


 貴族のなかで一番身分の低い男爵家の娘が、名前すら覚えられていないと思っていたのに、名前を覚えられ、そして、ダンスを踊っていないことを覚えられ、ダンスに誘われたら?


 即座に恋に落ちるほど、女の心は男ほど単純ではない。が、好感くらいは抱く。




 それに加えて、皇帝の柔らかくて流れるようなダンスのリードである。




 さすがに四十九連続でダンスを踊ったからか、余裕の表情を浮かべている皇帝ではあるが、その呼吸は荒々しい。そして、その荒い呼吸がレイラの耳と首筋を流れていき、くすぐったくてレイラは腰が砕けてしまいそうになる。しかし、しっかりと腰に回された右腕がレイラの身体をしっかりと支えている。




 思っていたよりも、皇帝陛下はずっと素敵な人かもしれない……。




 レイラの手を握る皇帝の手は硬い。しっかりと握られた皇帝の手の”マメ”の感触があった。兄と同じ感触で、レイラはどことなく安心する。


 剣の鍛錬を積んだ者の手である。兄と先ほど踊ったのと安心感をレイラは憶え、皇帝の鍛えられた胸筋にそっと頭を預け、全てを皇帝のリードに委ねる。




 甘くて酸っぱい香水の香り。


 エメラルドの優しい眼差し。


 全身を優しくなで回されているかのような優しいダンス・リード。


 レイラを焼き尽くしてしまいそうなほど情熱的な赤い髪。




 レイラの心臓は、破裂してしまいそうなほど高鳴っていた。




 ・




 ・




 だが、夢とダンスはいつか終わるものである。


 楽士たちの演奏が終了し、ダンスが終わった。




 そして、ダンスを踊り終えた後の短い挨拶。




 皇帝は言った。




「レイラ・ホーエンハイム嬢。あなたの手は、とても冷たいな」




 皇帝は、優しく微笑みかけながらそう言ったのである。




 その言葉で、夢心地だったレイラの意識は、一気に現実へと引き戻され、そして煉獄の地獄へと叩き落とされた。




「陛下……。申し訳ありませんでした……。私は……“氷の魔女”なのです……」




 レイラは、なんとか堪えて挨拶をして、そして足早に舞踏会の会場から立ち去る。急ぎ馬車に乗って、貴族街の屋敷へと帰った。




 帰り途中の馬車の中で、レイラの頬に涙が流れ、そして幾度と無く落ちた。




 ”氷の魔女”




 ”手の冷たい人間は、心も冷たい人間である。いや、心も持たない魔女である”




 貴族には、そんな迷信があった。




 そして、レイラは極度の冷え性であり、手や足の体温がいつも低いのである。




 レイラが馬車の中で思い出すのは、十五歳の舞踏会での出来事。




 初めてダンスに誘われて手を取った瞬間に言われた言葉。




『なんだよ、お前の手、冷てぇな。おまえ、もしかして”氷の魔女”だろう!』




 ・




 ・




 父ヨエル、母アンナ、そして弟のニコルは、レイラのことを心配していたらしい。夜分遅くに帰宅したにもかかわらず、全員が陽だまり亭の食堂でレイラの帰りを待っていた。




 そして、真っ赤に眼を腫らしたレイラを見て、アンナが「今日は疲れたでしょう。ゆっくりとお休み」と言って、化粧を落とし、ドレスを脱がして、睡眠を促し、そっとレイラの部屋の扉を閉めた。




 何も言わない母、父、そして弟の優しさが逆に、枕に顔を沈めるレイラの涙を誘った。




 一瞬でも夢見た自分が愚かだった。自分は、”氷の魔女”でしかない。




 そう後悔しながら、レイラは、啜り泣きながら夜を過ごした。




 そして、朝陽が登る。




 落ち込んで部屋に閉じ篭もっていられるほど、ホーエンハイム男爵家の経済状況は甘くはない。




 レイラは、もう自分が社交会や舞踏会に出ることはないだろう。そう思い、ドレスを衣装ダンスの奥底へと押し込める。




 そして、ふと気付く。




 ドレス・グローブの片方が無くなっている。


 屋敷の中を探しても、左手のグローブが見つからなかった。家族に聞いても、見ていないという。


 レイラは、ドレス・グローブの片方を、王城で落としてしまっていたのであった。


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