16.餃子の調査デート ①

レイラは一日、陽だまり亭の仕事を休むことになった。休む、というのは昼、夜の営業時間だけのことではない。

 早朝からの仕込みなど、すべてを休むことになったのだ。数年前に風邪を引いてしまったとき以来のことだ。


 レイラは、朝から手持ち無沙汰となってしまった。

気持ちが落ち着かなかった。

母と共用の化粧台に座り、長い髪を纏める。が、心なしか髪が決まらず、解いてはまた纏める、ということを繰り返していた。


 台所からトン、トン、トン、ト、ト、トという音が聞こえてきた。母が、野菜を切っている音だ。

 トン、トン、トン、ト、ト、トというリズミカルな音が続く。

 そして、レイラは自分の心臓がその音よりも早く、細やかに鼓動していることに気付いた。


 今日は、テレジアと、そして、ロバート、マックとともに下町に出かける日である。

 下町に遊びに行く。


「お兄様、おはようございます」


 陽だまり亭の裏庭の井戸付近で、ロバートは剣を振っていた。朝の鍛錬であろう。

 ロバートは、昨日からホーエンハイムの屋敷に帰ってきていた。普段は城で宿直、寝ずの番をしているので、同じ帝都の中とはいえ、実家で眠るのは久しぶりのことであるし、近衛兵に昇進してからは一度もなかったことである。


  どうして、ロバートが実家で寝ているのか。

  それは、ホーエンハイム邸が、今日の下町への視察の待ち合わせの場所であるからだ。このホーエンハイム家集合し、そして下町へと出かけるのである。


「おはよう、レイラ。準備はできているようだね」

 ロバートは、水分補給ついでに、水桶で濡らした布を絞り、それで上半身の汗を拭っていた。


「お兄様もそろそろ訓練を切り上げて、支度をなさってくださいね」


 さすがに、帝国の大貴族であるアリスター侯爵家の令嬢であるテレジアに、上半身裸の男の姿を目に入れるのは避けるべきである。


「あぁ。もう一回だけルーティンをしたら支度するとしよう。ん? レイラ、水を汲むのか? 私が汲み上げよう」


 井戸から水を汲み上げることは重労働である。


「毎日やっていて、慣れていますから大丈夫です。それに、今日は紅茶を淹れる分だけですから。お兄様は気にせず訓練のお続きをなさってください」


 レイラは兄の手伝いの申し出を断った。普段なら厨房にある水甕が満杯になるまで水をくみ続けるのだが、今日、レイラは仕事が休みということで、弟のニコルがその仕事をしてくれることになっている。


「分かった。そうさせてもらうね」 


 ロバートは再び裏庭の開けた場所で素振りを始める。


「ねぇ、マック様って、ロバートお兄様から見てどのような方なのですか?」


 井戸の水を汲むために桶を井戸に投げ入れたレイラだが、ふと、集合時間にはまだ時間があると考え、庭に置いてある椅子に座った。兄のロバートも、皇帝の近衛兵となれるのだから相当の腕前であるということは分かっているが、父のヨエルにいつもコテンパンに叩きのめされている姿を幼い頃から見てきたレイラにとっては、兄が強いのかどうか正直分からない。


「三十八、三十九……。そうだなぁ」


 しばらく考え込んだロバートは、言った。


「僕は、尊敬している」


 ロバートは力強く答えた。レイラはなんだかそれを聞ければ十分な気がした。


「そうですか。じゃあ、私はお湯を沸かしてきます。是非、お兄様もお飲みになってくださいね」

 テレジアは集合時間より前に来ると言っていた。テレジアと兄のお茶の機会は多ければ多いほど良いとレイラは思った。


「分かった。そうしよう」


 そう、ロバートが答えた瞬間、


「レイラ。こちらにいた…………ので…………」


 屋敷の影から裏庭に顔を出したのは、テレジアであった。


「あっ。」


 思わず、レイラは自分の口を手で押さえてしまった。

約束の集合時間までまだ二時間ある。レイラはテレジアが来るのは早くてもあと一時間後だと思っていた。


「キャーーー!」


 レイラが、この状況は不味い、と思うより先に、テレジアは叫び声を上げて、両手で目を塞いで地面に塞ぎ込んだ。


「お兄様、早く服を着てください!」


 ロバートは、剣の鍛錬中で上半身が裸であるのだ。

 貧乏男爵家であるホーエンハイム家のレイラは別として、一般的な貴族の令嬢は、コルセットの装着などの着替えを始め、沐浴など多くの召し使いに手伝わせている。また、貴族のドレスは、首筋から胸元まで露出を多くした扇情的なデザインも好まれる。他人に自分の身体を観られることには慣れている。


 が、異性の身体を観るのは慣れていないのである。

 

 ロバートは、自らの服で上半身を隠したまま、屋敷へと走り込んでいく。服を着るより、屋敷に逃げ込んだ方が早いと考えたのであろう。


「お嬢様、如何されました!」


 裏庭に飛び込んで来たのは、アリスター侯爵家の執事長のモーリスであった。モーリスは、地面に蹲って両手で自分の顔を覆っているテレジアのもとに駆け寄る。


「モーリス、どうしましょう。ホーエンハイム男爵家のご長男であり、マクドナルド皇帝の盾であり矛であられる近衛兵であられるロバート・ホーエンハイム様の生まれたままの御姿を見てしまったわ」


「そのようなことが! ホーエンハイム男爵に抗議をいたしましょう! レイラ様、お手数ですが、ホーエンハイム男爵をここに呼んできてくださいますか? ご子息が、お嬢様の名誉を傷つけられました」


 モーリスが、テレジアを守るように抱きしめながら、怒号を発した。


「え? お父様なら……台所にいるとは思いますけれど……」


 レイラは困惑する。一体全体、なぜ、話が大事になってしまったのか。テレジアも、現に、『キャー』と言って両手で目を覆い隠しているような仕草をしていたが、実際には、テレジアは指を開いていた。テレジアは、ばっちりとロバート兄の姿を目で追いかけていたのだ。


「モーリス、落ち着いて。今回のことは私に非があるわ。どうやら、約束の集合時間より随分と前に来てしまったようだわ。私ったら、時間を間違っていたようだわ。そうよね、レイラ」


「そうね。集合時間は八時であったわね」


 そして、今はまだ、六時半である。テレジアからは、三十分ほど早く、つまり七時半に屋敷に来るという連絡は受けていた。

 だからレイラは、先ほど井戸から水を汲み、お湯を沸かし、テーブルを整え、紅茶の準備を始めたのだ。早朝、約束の一時間前に来るのは、あまりに早すぎる。

 

 困惑しているレイラが、こっそりとウィンクを送ってきた。そこでレイラは悟る。


 テレジアは今、アリスター侯爵家側の外堀を固めているところであるのだろうと。


 冷静に考えれば、アリスター侯爵家の執事長である人が、送迎をしているのはおかしい。ちゃんとテレジアには専用の馬車があるし、専任の御者も仕えの者もいると聞いた。


 お茶会の招待状などを届けるといった、家同士の正式な使者としてホーエンハイム家にやって来るのは良いとして、お忍びで町に出かけるという日に、執事長が直接テレジアを送りにくるのは過剰である。:h;執事長ということは、アリスター侯爵家の屋敷を取り仕切る、侯爵家の血縁を除けば実質のナンバーワンである。


 つまり、ロバートと結ばれるための外堀を埋めている。テレジアは、ホーエンハイム家の外堀を埋めつつある。母のアンナとの関係は良好で、気に入られている。弟のニコルもテレジアを慕っている。


「あぁ。モーリス。もう私は、他の方へ嫁ぐなどということができないわ。それに、皇帝陛下にも申し訳が立たないわ。未だ、皇帝妃候補であるにもかかわらず、このような失態を……。そうだわ! お父様に、私が修道院に入るように取り計らってもらいましょう。斯くなる上は、世俗から隠居し、祈りと奉仕のうちに私の一生を終えましょう」


「なりません、お嬢様。お考え直し下ださい。それだけはなりません」


「では、どうしたらいいの?」


「私に考えがございます。ホーエンハイム家に幾ばくかの金を握らせて、この件を内密にするようにいたします。多少の圧力をかけて、有無を言わせません」


 話が不穏な方向に行っているとレイラは横で聞いていておもった。それに、いつこのお芝居染みたことは終わるのだろうかとも思う。本当に、貴族って大変なんだなぁと、レイラは自分も貴族の端くれであることを棚に上げてつくづく思う。


「それはいけないわ。もともとは私の失態。それに、レイラは私の友人よ! それに……」

 テレジアは、言いかけて口を紡いだ。


「それに?」


「私は、ロバート・ホーエンハイム様を憎からず思っておりますわ」


「そうでございましたか。そういうことなら、私はお嬢様を微力ながら応援いたしますぞ」


「いいの? お父様はご反対なさるかもしれないわ」


「お嬢様。私が、アリスター家にお仕えして四十年、お嬢様のことを僭越ながら、愛娘同然に思っております。このモーリスに残された最後の大仕事は、お嬢様が恙なく他家に嫁ぐために全てを整えることでございます」


「ありがとうモーリス!」


 レイラは、テレジアとモーリスのやり取りはいつまで続くのだろうかと思ってしまう。貴族的に言えば、テレジアは執事長モーリスも味方に付けた、ということであろう。前に、テレジアの父も、マクドナルド・ジョージ・ジュニア皇帝の治世は、爵位に貴族が胡座をかく時代が終わるということを言っていたと聞いた。


 テレジアがロバートと結婚するための、アリスター家側の外堀、内堀は既に埋まっているのかもしれない。


「テレジア、私、お湯を沸かして紅茶を用意しておくわね」


「楽しみにしているわ、レイラ」


 レイラは、台所でお湯を沸かす。


 テレジアとしては、貴族風に順調に事を進めているのだろう。貴族令嬢というよりは、庶民派の感覚に近いレイラには、やり方に違和感を覚えなくもない。だが、テレジアはテレジアなりに全力なのだ。友人として好感もできるし、尊敬もできる。そして何より、自分の大切な家族である兄のロバートのために一生懸命であることがうれしい。


 鍋に入れた井戸水が、ゆっくりと小さな気泡が鍋底で出来ては、水面に浮かび上がり弾ける。湯の温度が上がるにつれて、気泡は大きくなる。


 やがてお湯は熱湯となり、沸騰する。きっと、このような沸騰している水がテレジアなのだ。熱量もあり、激しい。


 果たして、私は? そうレイラは自問した。ゆっくりと地下を流れる地下水なのか、冷たい井戸水なのか。

 氷の魔女……。流れ続ける水は腐らない。氷の魔女と呼ばれ、社交会から逃げ出した自分は、堰き止められた、濁った水なのか。


 レイラは、紅茶の準備を淡々とおこなう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る