2.ホーエンハイム家の懐事情
「まず、銀貨一枚がセバスたちへの給金で、銀貨二枚が、夏に向けての堤防補修費の積立、牛舎の増築の積立に銀貨一枚。食料の備蓄に銅貨五十枚。陽だまり亭で働いている者達への給金が銅貨三十枚、この王都の屋敷の賃料が金貨四枚……」
陽だまり亭の二階の屋根裏部屋。ヨエル・ホーエンハイム男爵が今月の売上と経費を計算していた。そして、妻であるメアリと、長女レイラ、そして弟のニコルが、ヨエルのその様子を固唾を飲んで見守っている。
「ロバートからの仕送りが銅貨五十枚で……? ん? 今月は銅貨十枚も多いじゃないか。ん? 手紙に、レイラのドレス代の足しになればと少し多く送ります、と書いてある」
ロバートというのは、ヨエル・ホーエンハイム男爵の長男で、去年から王城で警備兵として働いていた。
「お兄様……」
兄からの仕送りに同封されていた手紙を読み、レイラが涙ぐむ。
「残りは……銅貨二十枚……! 今月は、銅貨二十枚の黒字だぞ!」
ヨエル・ホーエンハイム男爵が両手を挙げて喜び、その妻アンナが安堵のため息を漏らす。
レイラとその弟であるニコルは抱き合って、今月の黒字を喜ぶ。
ホーエンハイム男爵家の毎月末の光景である。
「愛しのアンナ、それに我が宝であるレイラにニコル、今月もよく頑張ってくれた」
ヨエル・ホーエンハイムが家長として、男爵として、家族たちに労いの言葉をかける……が、ホーエンハイム家の苦しい家計をそのまま表していた。
銅貨一枚、というのが、陽だまり亭のハンバーグ定食の値段である。王都の庶民のランチ代二十食分が、ホーエンハイム家が一家総出で働いて稼いだ黒字である。
庶民のランチ代二十食分が、次月のホーエンハイム家の生活費となる。唯一の救いは、食費は陽だまり亭での余った食材を利用しているので、別会計ということであろうか。
「あなた……何度もしつこいと思われるかも知れませんが、やはり爵位を返上されては?」
「もちろん、分かっている。だが、それは最低でも、ニコルが成人するまでだ。あと二年は辛抱だ」
末弟のニコルが十八歳になれば、親としての責務から解き放たれる。また、ニコルが宮仕えの職を得るまでは、貴族として踏ん張り続けなければならない。貴族の家系でなければ得られない職というのが、帝国には多く存在しているからである。
長兄のロバートが働いている王城も、採用条件が”貴族の家系であること”である。帝国の採用試験を受けるためには、一定の家柄の保証が必要であるのだ。
「やっぱり、この屋敷の賃貸料が毎月、金貨四枚っていうのは、ぼったくりです」
王宮での文吏志望のニコルが言う。兄のロバートは武芸が得意であったが、ニコルは計算などが得意である。
「貴族の宿命だ。しかたあるまい」と、父が苦虫をかみ潰したような表情で言い切る。
貴族の当主は、少なくとも半年は王都で生活することが義務付けられている。残りの期間は、領地で過ごすも、王都で過ごすも自由であるが、毎年必ず社交会の開催される時期には王都に滞在していなければならない。しかも、指定された王都のエリア”貴族街”に滞在しなければならない。違反したら爵位剥奪どころか、一族全員の処刑が有り得る。
つまり、実質的な、貴族の反乱防止策である。王都に当主を滞在させ、実質的に人質としているのである。そして、”貴族街”は皇帝の直轄領であり、賃料を毎年、皇帝が貴族たちに通達するという仕組みである。
反乱を疑われれば法外な賃料が設定される。そして、その賃料が払えなければ、貴族街に滞在していなかったとして、一族もろもろ処刑……という憂き目に遭う。
また、平常時では、貴族達への実質的な税金徴収という側面もある。
「もっと人通りが良くて広いスペースのある繁華街の食堂を借りても、金貨二枚で済みますけど……」とニコルがため息とともに漏らした。現在の賃料が金貨四枚。その賃料が二枚となれば、二枚分の金貨が浮く。贅沢とはいかないが、裕福な生活が十分におくれる。
「仕方あるまい。それが貴族のノブレス・オブリージュなのだ。もっと領民達のことを考えるのだ。我がホーエンハイム男爵領は、目立った産業はない。農業と畜産、それがすべてだ。だが、領民達は慎ましくも、幸せに暮らしているではないか!」
「まぁ……ほかの貴族の領地と比べると税率が安いですし……」
税率が少ない分、領主の実入りが少ないというのは言わずもがなである。当代ホーエンハイム男爵は、先代に続き、貴族で言えばお人好しである。もっとも、ホーエンハイム男爵領の領民からは、名君と崇められているが……。
男爵家自ら生活費を切り詰め、飢饉などの有事の際には、積み立てていた貯金を叩き、堤防修復などの公共事業を行い、収穫の無かった農家へと仕事を回わす。
先々代、先代も、そして今代も、イナゴの大量発生による飢饉の際に、備蓄していた食料と公共事業で、他の領地とは違って、餓死者を領内から一名も出さなかったという奇跡の領地なのである。
実のところ……男爵であるレイラの父、ヨエル・ホーエンハイムは自分が気付かないだけで有能な人物である。
貴族という慣習に縛られず、貴族街の滞在する屋敷で食堂を開き、経営を成功させている。しかも、陽だまり亭で使う食材の牛肉、豚肉、麦、ジャガイモ、タマネギなどは、すべてホーエンハイム領地産のを直接調達して使っている。
男爵家の生計をたてるための食堂であると同時に、利益を領内に還元しているのである。もちろん、貴族が平民相手に食堂を開き頭を下げるなど、貴族の面汚し、という汚名も同時に貴族社会から頂戴しているのであるが……。
「それで、あなた……。レイラのドレスは大丈夫なのでしょうか。私が嫁入りしたときのドレスを仕立て直しましょうか……端切れを買ってきて、少し縫い直せば、流行遅れ、程度で済みますわ……」
「それしかあるまい……。すまぬな、レイラ……」
「いえ……。それで十分です。でも……」とレイラは不安そうな顔つきで言った。
「どうした? 何か心配事か?」
「噂では、皇帝はすべての候補者とダンスを踊られるらしいのです……」
ランプの明かりを油の節約のために絞りに絞っていて、部屋の照明は暗い。
「やっかい……と言っては不敬だが、毎晩、五十人の令嬢を招待し、律儀に全員とダンスをするとはな……新皇帝はなにを考えておいでなのだ。余計な出費を……」
「あなた!」と、妻であるアンナは夫の言葉を制止する。
「すまない……」
「皇帝としては、全貴族の中から王妃を選んだという建前が欲しいのでしょうね。すべての貴族の娘の中から直接選んだのだから、文句は言わせない、という貴族派への牽制。実際、良い手です。選ばれなかった貴族も、娘がダンスを一度踊っている手前、表立って不満を言うことは、自分の娘の評判を下げることになる。貴族達からの波風を防ぎつつ、王妃を娶り、跡継ぎが生まれて、皇帝の地位はより盤石になるということです」
ニコルは、文官志望らしく、冷静に皇帝の思惑を分析していた。
「レイラ……つらい思いをさせるかもしれんな」
父であるヨエルも、愛娘であるレイラが、貴族たちの間で”氷の魔女”と呼ばれていることを熟知していた。妻のアンナしか知らず、レイラやニコルもしらないことであるが、レイラのために長年、レイラの結婚持参金も貯め続けている。
が、見合いをするまえに、”氷の魔女”であるからと、レイラとの見合いすら断られてしまう。父親として、歯がゆい思いをしていた。
「勅令ですので誰のせいでもありません。舞踏会に顔だけでして、すぐに帰って来ます……。私は、”氷の魔女”……ですから……」
レイラは、寂しそうに呟いた。
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