19.テレジアとロバート②
「ロイヤルミルクティー・タピオカのベリー・ベリー・スモールサイズでございます」
支配人がテラスの丸テーブルの中央に、ドリンクを置いた。帝都が誇る高級店だけあって、重厚感のあるガラス製のグラスである。そして、その中にはミルクティーと、そのグラスの底には黒い球のようなもの、すなわちタピオカが入っていた。
「それでは、私が先に毒味を致しますね」
ロバートはそう言って、椅子から腰を浮かした。
丸テーブルに丁度反対側同士に腰掛けているロバートとテレジアである。ドリンクをその真ん中に置かれてしまっては、ロバートにも、テレジアにも遠い。上半身を前方に傾けるだけではストローに口が届かない。
自分の手元にドリンクを移動させることも、気が引けたのである。
『ほどよい甘味。茶葉も良いのを使っているな。毒は無さそうだな』
ティーを毒味しながらロバートは安堵し、今度はその帝都で話題というタピオカを毒味しようと思った。
『意外と弾力があり、一気に吸おうとすると、ティーを飲んでしまう。不思議なものだ』
ロバートはタピオカをストローで飲むことに多少苦戦していた。
……。
その時、丸テーブルに影が伸びた。
ふっと目を上げると、テレジア嬢の唇が近づいていたのである。テレジアの黄金色の長い前髪がドリンクに着かないように右手で髪を耳裏に引っかけながら、ロバートへと唇が近づいてくる。
テレジア嬢も椅子から腰を浮かし、テーブルで前屈みとなっていた。豊満な胸によって作られた深い渓谷の底までロバートには見えてしまいそうであった。
『こんな人で溢れた白昼にキスを!?』
女性からキスを迫られた経験などないロバートは、タピオカを吸うことも忘れて、固まっていた。
が、テレジアの唇はロバートの唇に到着するまえに、その動きをもう反対側のストローで止まった。
『ドリンクを飲もうとしただけか。俺の愚か者。なんという勘違いを!』
テレジアとロバートはそのまま一度もストローから口を離すことなく飲み続けた。それほど、ベリーベリーサイズは少なかったのである。
「如何でしたか?」
もとの椅子にゆったりと腰をかける体勢に戻ったテレジアは、ロバートに尋ねた。
「そうですね……」
ドリンクを飲む途中から、テレジア嬢の唇と、そしてテレジア嬢の付けている金木犀の香水に意識がいってしまい、ドリンクを味わう余裕がなかった。だが、感想を言わないわけにはいかない。
「なんだか、このタピオカというのは弾力があるせいか、ストローで吸いにくいですね。それに、ティーが無くなって残ったタピオカを吸うのはコツがあるようですね」
ストローで吸おうと思っても、タピオカが逃げるように移動し、なかなか吸い込むことができないのである。
「えぇ。この最後に残ったタピオカを恋人たちは吸いあうのが、このタピオカティーの醍醐味であるそうです。転がるタピオカを求めて、お互いのストローの先端を絡め合う。その光景は、恋人たちが情熱的に互いの舌を絡め合うキスに喩えられるようですよ。市井の方たちの想像力は豊かでありますね」
テレジア嬢は、柔らかな笑みを浮かべながらコメントを返した。
「そ、そうなのですね……」
ロバートは赤面した。
「お代わりを何かお持ちしましょうか?」
グラスが空になったのに気付いた支配人が言った。
「次は、ストロベリー味というのを試してみたいですわ」
「畏まりました」
すっと一礼して支配人は店内へと戻っていく。
『また、さっきと同じように……なのか……。一度、毒味した手前、次のにしないというわけにはいかない。それに……互いに舌を絡め合うキス……。俺が、テレジア嬢と……』
つまり、デープキスというものである。ロバートは当然経験なかった。ユニレグニカ帝国は気風的に、婚前交渉が奨励されていない。貴族の恋人たちは、夜会で身体を密着させながら早いテンポの曲を踊る。女性は両手を男性の首に巻き付かせ、男性は女性の腰に手を回す。
市井の若者たちは、一つのコップに残ったタピオカをそれぞれストローを絡めながらすい合うのは、若さによる熱情を発散させる代償行為であるのであろう。
「このタピオカの原料となる農作物をロバート様はご存じですか?」
テレジアの突然の話題転換である。
「キャッサバという芋の一種ですね。帝国ではあまり馴染みのない作物ではありますね」
ユニレグニカ帝国は温帯に位置し、熱帯作物であるキャッサバは生育環境としては適していない。むしろ帝国ではジャガイモの作付けに適した気候である。
「アリスター侯爵家は、昨今の王国との戦いで割譲せしめたラジルブ植民地を下賜されました。実は、そこのプランテーションでキャッサバの栽培をしようと考えておりますの」
ロバートは、世界地図を頭に浮かべる。
「気候的には適しているように思いますが……」
なるほど……さきほど、フォーレ商会のフェリアス氏とテレジア嬢が会話したときに、ラジブルという地名が出てきたことに納得がいった。
「何か気になることがありますか?」
「いえ、さすがはアリスター侯爵家だと思っただけです」
「お褒めにあずかり光栄ですが、その理由をお聞かせ願いますか?」
「王国と同じ愚を犯さない……言い換えれば、サトウキビを栽培しないことですね」
「あら。私は単純にタピオカが人気と聞いたからですわ。サトウキビ……砂糖貿易は、巨額の利があります。サトウキビにした方がよいのでしょうか?」
テレジアは首を傾げて不思議そうにしている。まるで天真漫欄な世間知らずの箱入り貴族のようだった。
そして、ロバートはテレジアという女性の本質を悟った気がした。そして、面白いと興味を持った瞬間でもあった。女性だと甘く見たら、こちらが足下をすくわれるなと、テレジアの評価を一段階上げた。ちなみに、評価をあげる前の評価は、『レイラの良い友達になってくれば』である。
「まさか、飢えた領民に、パンが無ければ砂糖を舐めればよいじゃない、とはおっしゃらないでしょうに」
「『パンがなければケーキを食べればいいじゃない』と宣った王国の王妃様がいらっしゃるとは聞いていますが、砂糖は甘くて美味しいですわ」
・
「お待たせいたしました。ストローベリーティー・タピオカ・ベリー・ベリー・スモールサイズでございます」
再び、丸テーブルの真ん中に置かれた。
「まずは、私が毒味を……」
「いえ……生まれた日は違えど、死ぬときは願わくば、同じ年、同じ月、同じ日に……」
二人は同時にそれぞれのストローでタピオカを飲み始めた。
・
そして、あっという間にグラスは空になる。
「最後のタピオカ……随分と強引に奪いになさられたわね。もう少しで私が吸い上げるというところで、強引にストローの先を絡め取られてしまいました……」
テレジアの頬は紅潮していた。そして、確信していた。そして、より深い恋の奈落へと落ちていた。
『一目惚れからまさか、惚れ直すことになるなんて思いもよりませんでした』
それが正直なロバートへの思いであった。皇帝の花嫁選びに乗じた火遊びになるかもしれない、とテレジアの冷徹な理性はその可能性も考えていた。が、これは火遊びなどではなく、一旦火がつき始めたら消せることの出来ない身を焦がす炎であるとテレジアは認識を改めた。
「お代わりを何かお持ちしましょうか?」
再び、グラスが空になったのに気付いた支配人が言った。
「お任せするわ。あなたのお勧めのを、順々に持って来て頂戴」
「畏まりました」
テレジアには、メニューを観る余裕などなかった。視線をロバートから外す時間など、もはや無かったからである。
・
「それで……どうして、サトウキビではなく、キャッサバが良いのでしょうか?」
「一つ目の理由は、先ほど申し上げたこと同様、砂糖ではお腹が満たされないからです。過日の王国との戦争でラジブルを割譲せしめたのは、我れ等、帝国の戦略的、戦術的勝利だけではございません。王国は負けても、サトウキビの一大生産地を手放そうとは思わなかったでしょう。王国にそうさせた要因は、ラジブルでの民衆の武装蜂起があります」
「あら……武装蜂起……。恐いですわね。敬愛する皇帝は、統治が難しい植民地をアリスター家に押しつけになられたのでしょうか?」
「いえ、違います。そもそもの原因は、サトウキビという単一作物の栽培をラジブルに強いた王国の失政にあります。王国は、サトウキビの王国への輸出の対価として、小麦を供給していました。帝国の相場からしても、かなり不公平な価格で……。生かさず、殺さず、と言った水準でした。生きていくためには、パンが無ければ砂糖を舐めればよいというわけにはいかない」
「キャッサバを栽培したとしても、それは加工され、タピオカや糊デンプン、調味料として、貿易商品になり、帝国や緋衣国で消費されるようになります。本質は、サトウキビを作ろうが、キャッサバを作ろうが同じ事だとは言えますわ」
ロバートは、テレジアは全てを分かった上で、敢えて知らない振りをして聞いている。自分が説明していることも、テレジアはすでに自分以上に知っているだろう。
悪く言ってしまえば、テレジアに試されている。しかし、不思議とロバートには不快感はなかった。一種の高揚感があった。
『きっとこれは、確認作業なのかもしれない』
戦場で帝国の兵士たちは、戦友たちとこの確認作業を行う。
帝国で生活する家族や友人達の平和と繁栄のために戦う。戦略的な目標を共有し、戦術的に自分たちが何を成すべきかを確認し、ともに命を預け合う。
『テレジア嬢が男に生まれていたら、背中を預けられる頼もしい戦友となっただろうな』とロバートは思った。
いま、自分とテレジア嬢は、自分たちは、確認作業をしている。
自分たちは、同じ方向を見ているのか?
自分たちは、同じ目標に向かって歩いていけるのか?
「いえ、サトウキビとキャッサバでは根本的に異なる性質があります。キャッサバは、一定の処理を施せば食用となります。食べることができる。しかも、ジャガイモ同様、痩せた土地でも生育させることができます。それは、大きなことです。キャッサバは、ジャガイモのように保存にも適した食物です。大きな飢饉が起こった場合、キャッサバが多くのラジブルの人々を救うかもしれません」
「人道的なお話で素晴らしいです。ですが、アリスター家がキャッサバを栽培する利は、どこにあるのでしょうか? 砂糖でお腹は膨れませんが、優しさもまた空腹の足しにはなりません」
・
テレジア嬢は思うのだ。
『ロバート様が女に……それもホールマイヤー侯爵家にでも生まれておいでなら、良き友として、また良きライバルとなっていて、貴族社会も張り合いがある楽しい場であったのかもしれません。もしかしたら、どちらが皇帝の妃になるか、本気で競い合っていたかもしれませんね……』
・
「キャッサバは、莫大な利となるでしょう。そもそも、サトウキビの生産を拡大することに既に利は無いでしょう。すでに帝国での消費に対する供給は十分です。輸出品目として魅力的ですが、競争相手も多い。供給が需要を上回れば、価格が落ちていくことは道理です」
「それに、武装蜂起したラジブルの人々に再び、サトウキビの栽培を強いれば、将来への禍根を残す……」
「その通りです。それに、テレジア嬢が着目しているのは、加工品としてのキャッサバ、つまりタピオカではありませんか?」
「このドリンクに使われてはいるけれど、用途がかぎられていないかしら? 付加価値という意味では、紅茶やコーヒーとも趣が違う飲料となるでしょうけれど。苦労してラジブルの領地を経営し、現地の人々の腹を満たし、この帝都に運んで来ても、販売先がカフェだけだなんて、少し利益が知れているわ。こちらはリスクを負って船舶をフォーレ商会からチャーターするのですから」
テレジアの言葉から、ロバートはすでに、ラジブルでアリスター家がキャッサバを栽培し、その成果物を帝国内に持ち込むということは決定済みだと理解した。
が……、それを行うことによってどのような利益があるのか、ロバートには思い当たらない。アリスター家が動くからには、莫大な利益があるはずである。
「テレジア嬢……降参です」
ロバートはそう言って、両手を挙げた。王国軍五千に対して、帝国軍二千の寡兵であったときも、降服することなく数の不利を挽回した戦功を持つロバートである。ロバートが自らの自伝を書くことになったら、『自分を降服させたのは、王国の歴戦の猛将ではなく、テレジア・アリスター侯爵令嬢であった』と記されることになるであろう。
「お代わりを何かお持ちしましょうか?」
頃合いだと思ったのか、支配人が来た。そして、テレジアは、抹茶・タピオカを注文した。
「ロバートは、活版印刷という技術をご存じですか?」
「もちろんです。軍の情報部が活用について検討した議事録を読みました……が、あの発明は有用性に欠けると思いました」
「それはどうして?」
「たしかに、版を作ってしまえば大量に同じ文書ができます。同じ文書を大量に作るには有効ではあります。しかし、高価な羊皮紙を使って、同じ文書を何枚も作ってそれに意味があるとは思えません。戦場で言えば、わざわざ版を作っている時間があるのなら、十名の速記官に指令を記させ、それを早馬で各方面に届けた方が早い。政務においても、羊皮紙に一通記、稟議していくのですから、手書きの羊皮紙一枚で足ります」
「その通りでございます。しかし、それは羊皮紙を使った場合のこと。羊一頭から取れる皮は知れていますし、羊が育つまでは時間がかかります。それゆえ、羊皮紙は高価でございます。しかし、羊皮紙に変わる『紙』であるならばどうでしょう?」
テレジアはそう言って、胸元にしまってあった扇子を取り出した。そして、その扇には紙が貼られたものであった。緋衣国で好んで使われる扇子のタイプである。
「紙……ですか。しかし、あれはすぐにボロボロになり……証拠を隠滅しやすい密書などには使う事はありますが……水に漬けたら数秒で溶けていきます。普通にしていても半年も持ちますまい。記録保存には向かないでしょうね」
「えぇ……。その通りです。ですが、その原因は、紙の材料にありました。紙というのは、草木の繊維を細かく砕き、絡め、そして、糊で固め、乾燥させたもの……。これまで紙の耐久性が羊皮紙に劣る理由は、その『糊』でございますわ。このタピオカドリンクが証明しています。高いデンプン成分を有するキャッサバなら、これまでとは比べものにならない耐久性に優れた紙を生産することができるようになります」
「たしかに、このようにティーに浸けていながら、モチモチとした弾力性を失わない糊化は驚異的です。ご慧眼にお見それしました」
たしかに、安価に、保存に耐える紙の製造が出来たら、活版印刷という技術には驚異的なポテンシャルがある。キャッサバ、タピオカ……そして、紙の生産と販売……これらは、莫大な利となるだろう。
「お褒めに与り光栄です……。さて、アリスター家は、というかこの事業を担っているわたくし、テレジア・アリスターはこのような策略を持っております。そして、この事業を推進していくつもりです。幸いにも、まだ他の高級貴族たちはキャッサバの利に気付いていないようですので。この機に、あまり受けの良くなかった活版印刷の特許もまるごと買い取り、帝国で紙の製造から、印刷までを独占するつもりです」
テレジアの言葉にロバートは驚く。そのことを自分に伝えるのはデメリットしかない。…キャッサバの栽培の成功、製紙工場の建設など、それらをすべて秘密裏に成功させ、圧倒的優位で他の貴族が追いつけないまでシェアを独占してから言うべきことである。
「聞かなかったことにしておいた方がよろしいのでしょうね?」
この情報を、アリスター家のライバルであるホールマイヤー侯爵家に伝えれば、情報量として、莫大な報奨金を得るだろう。
「えぇ……そうしていただけると嬉しいですわ」
「分かりました。では、ロバート・ホーエンハイムはこの秘密を墓場まで持って行くことをお約束しましょう」
「感謝致します……が、重大な秘密をロバートにだけ抱えさせるのは心苦しいですわ。私もロバート様の担っている秘密を共有したいと思いますわ。さて、アリスター家の胸の内を開かせてもらったので、ここからが本題ですわ。ロバート様、一つだけお伺いしてもよろしいでしょうか?」
テレジアはまっすぐにロバートの瞳を見つめている。
「な……なんでしょう?」
「あの……マック近衛兵というのは……我等が皇帝陛下、マクドナルド・ジョージ・ジュニア様そのひとであらせられますよね?」
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