本編
第一話「流転の若宮」(前編)
一
いったいどの御代のことだっただろうか。長く
御子をその
「おお、蹴った、蹴ったぞ。やんちゃ息子め、いまだ生まれてもいないうちからこの父を蹴りおったぞ」
と満面の笑みでお
「早く生まれすぎると宜しくないということは言われるまでもなくわかっているけれども、素直な気持ちとしては、やっぱり今すぐにでも生まれてきてほしいね。生まれてきてくれる日が待ち遠しくてならない。ほんの
唐の詩人である
誰にとっても思いがけない凶報が飛び込んできたのは、まさにそんな時のことであった。皇子を抱くことをあれほど楽しみにしていらっしゃった天皇陛下が、宮殿でのご執務の最中に、にわかにお倒れになったのだった。
天子のご快復を祈願しない人は世に一人としていなかった。いまだ日嗣の皇子がおいでにならない中で、最年長の
「かねてより内心では兄帝が崩御あそばされることを望んでおいでだったのではないか」
などと疑いの目を向けられ給うたとて仕方がないお立場でいらっしゃったけれども、数多くおいでになった金枝玉葉の方々の中でも、最も強く神仏に祈願あそばしたのは紛れもなくこの殿下なのだった。
遠く異朝をとぶらえば、かのフランス国王ルイ十六世は、ごく幼い頃からいずれは王位を襲うべき身として育てられながら、祖父・ルイ十五世の崩御に伴って十九歳で即位することになった際、
「私は何一つ教わっていないのに」
と嘆いたと伝えられる。それを思えば、これまで弟宮として比較的ご自由に日々を過ごしていらっしゃった嵯峨宮殿下がこのようにお祈りになったのも無理からぬことであろう。
「生まれながらの皇太子でいらっしゃった兄上とは異なって帝王学を修めておらず、また
しかし、貴賤貧富、老若男女を問わない天下諸人の祈りは無情にも天には届かなかった。時の帝におかせられては、ついぞご意識を取り戻されることのないまま、宝算三十一というお若さにして崩御あらせられたのだった。
さて、皇位は嵯峨宮殿下がお継ぎになったものの、何とも間の悪いことにその翌日、御代替わりに伴って皇太后陛下とならせられた先代の皇后陛下が、玉のような親王殿下をお生みになった。天下万民に敬愛され給うた先帝がお遺しになったこの御子が無事にお生まれになってから間もなく、新帝におかせられては、
「やはり天皇の位には甥が即いていたことにはできないだろうか。嫡流から皇位を簒奪したと見なされるのは耐え難い。自分はこの兄の遺児が成人するまで一介の皇族・嵯峨宮として摂政を務めて、その後は静かに過ごしたいと心から願う」
と政府にお申し出になったのだが、大昔の朝廷ならばともかく、近代以降は皇室典範の規定上、空位はほんの一瞬たりとも認められないし、また胎児に皇位継承権はないということになっているので、この皇弟が即位なさった事実は
江戸時代初期のことだが、同母兄を差し置いて水戸藩主となった徳川光圀公が、のちに兄と子を交換してそれぞれの後継にしたという故事があった。新帝におかせられても、
「一時的に自分が皇位を承けることになるにしても、いずれは兄のお血筋に三種の神器を引き渡したい」
とお考えになったのだけれども、それも国の制度が許してくれなかった。新帝のご子孫がことごとく絶えでもしない限り、先帝の皇子へと至尊の宝位が渡ることはもはやありえないことになってしまったのだった。
「
皇太后陛下の
彼らが最初に悩まされたのは、新たに生まれたこの親王の命名の儀をどのようにして執り行うかという問題であった。
「天皇ならびに皇太子の御子については、古くより天皇がご命名になることになっている。さて、新しくお生まれになった親王殿下は、天皇の御子には違いないけれども、今上陛下ではなく先帝の御子である。明治以来初めてのことだが、このような場合はどうすべきなのだろうか」
この問題については、
そのようなわけでお生まれになった親王殿下に対せられ、この叔父帝におかせられては、
「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、まず其の国を治む。 其の国を治めんと欲する者は、
新帝には五人もの皇子殿下方がいらっしゃったので、治宮殿下の皇位継承順位は第六位とそうお高くもなかったけれども、なにしろ世が世なら天皇とならせられたはずのお方でいらっしゃったから、その注目度は並の金枝玉葉の方々とはまるで比べ物にならなかった。
「先帝陛下がほんの一日でも長生きをなさったなら、あるいはこの親王殿下が一日でも早くお生まれになっていたなら」
この頃の世の人は、治宮殿下がマスメディアに取り上げられ給うたびに、そのようなことを考えずにはいられなかったが、それもそのはずだった。新帝の皇子殿下方はどなた様も、一介の皇族・嵯峨宮の御子としてお生まれになったがために、御称号をお持ちにならないし、御諱もそれほど特別なものではいらっしゃらない。そんな中で、この親王殿下はその御称号も御諱も、ゆくゆくは天皇となるであろうことが強く意識されたものであることが誰の目にも明らかだったからである。
新帝におかせられては、本来ならば帝位に即くべきだった兄の子からその地位を奪ってしまったという負い目を強く感じていらっしゃったこともあってのことだろう、赤坂の御所すなわち元の嵯峨宮殿邸から皇居・吹上の大宮御所に足繁くお通いになり、父親代わりとしてこの甥にずいぶんと目をお掛けになった。
ある時には、いまだ意思の疎通もできないほど幼いこの甥をお抱きになりながら、
「この子はそういう星の
とお考えになった。
なお、この叔父帝におかせられては、やがて治宮殿下が成年を迎えられるに際せられ、かつて天皇数代の兄の家系だったこともある「
二
さて、帝の義理の姉にあたらせられる皇太后陛下におかせられては、わが子を夫帝の次の天皇にさせられなかったことを恨んでいらっしゃるわけではなかったけれども、
「世が世ならば天皇となっていたであろう人間として恥ずかしくない、高い教養を身に着けさせよう。平民育ちの
と思し召して、治宮殿下が健やかに成長されるにつれて、さまざまな宮中の伝統文化を幅広く学ばせるようになり給うた。その中には和歌や漢詩があり、書道や華道があり、そして
そんなご様子を拝見した宮仕えの人々の中には、
「親王殿下を皇族らしく育てたいというお気持ちは結構なことだけれども、皇太后陛下は平民の出だからやはりどうすれば皇族らしいかを理解しきれていらっしゃらないのであろう。あれでいったいいつの時代の皇族をお育てになるおつもりなのだろうか」
などと陰口を叩く者もあった。実際のところ、竹の園生には幾千人という大勢の方々がおいでになるから、古色蒼然たる平安趣味のお方も少なからずいらっしゃったのだが、そんな中で治宮殿下ばかりがこのように世の注目をお集めになってしまうのは、ひとえに、世が世なら今上帝とならせられるべき先帝のご遺児であり、先帝の御所であった皇居内の大宮御所に依然としてお住まいになっているという、あまりにも特殊なお立場でいらっしゃるがゆえのことなのだった。
朝家のご嫡流だからといっていつまでも注視し申し上げるのは、
「今は国制上どうしても許されないことだが、もしも世が世だったならば、自分は治宮の血筋を末代まで世襲親王家として
と口癖のように仰せになるほどにこの甥をお気に掛けなさって、今上帝を拝見せんとすれば自然とこの皇甥殿下をも拝み奉ることになったのだから、下々の者どもがいついつまでも気を取られてしまうのも仕方がないことだと言わざるを得ないだろう。
そんなありさまだったから、いまだお若くていらっしゃった皇太后陛下におかせられては、亡き夫帝とまさに瓜二つであらせられる当今とごく間近で過ごさなければならないことをもともとたいそう辛くお感じになっていて、もしも叶うことならば仏門に入って距離を取りたいとまで思し召していたのだが、そのうえさらに、
「わが子はもはや一介の親王にすぎないのに、あまり大御心をお
とのお気持ちを強くされて、皇居を退去したうえで、並み居る金枝玉葉の御身がそうされるのと同じように今上帝から遠く離れた京都か奈良へと移り住むことを考えるようにならせられた。
「
だが、ご希望が叶って京都に移り住まれた後のお暮らし向きは、
古来、朝家は全国津々浦々のさまざまなものを献上されてきた。わけても新鮮な食物については、歴史的に御所への距離がそう離れていなかった上方の人々が多くを献上していた。
例えば、滋賀県は近江八幡市では、古くからムベという果物を朝家に献上してきた。言い伝えによれば、人皇第三八代・天智天皇が近江国の
驚かれた天智帝は、どうすればそのように健康で長生きできるのかをお尋ねになった。するとその夫婦は、
「昔からこの地で採れる無病長寿の果物を、秋に実るたびに食しているからでございます」
と奉答し、実際にアケビを小さくしたようなその果物を天覧に供し奉った。天智帝はその果物を召し上がるや、一言、
「むべなるかな」
と仰せになって、朝廷に毎年献上せよとお命じになった。このとき天智帝が口になさった「むべ」という言葉が、そのまま不思議な果物の名前になってしまった、ということである。
さて、その無病長寿の霊果ムベであるが、栽培してきた百姓たちは、今上帝のいらっしゃる東京の禁裏に加えて京都の大宮御所にも献上したいと申し出た。このように東西を同等に扱う程度ならばまだましなほうだろう。東京の禁裏は無視して大宮御所にだけ物品を献上しようとする
「はるばる東京まで下らせるうちに傷みかねないから」
という説明だけで足りるけれども、不自然なことに古都の人々は、日持ちのする品々ですらも東京には献上したがらないのだった。
「南北朝の昔、後醍醐天皇が足利尊氏を恐れて比叡山にお逃げになった後、新たに光明天皇が御位に即く際のことでございます。光厳上皇宣命案には、天皇が
ある時、高名な京菓子職人がインタビューを受けた際にこう言って大きな話題になったが、明治維新から千年近くという歳月が流れ、もう少しで東京の首都としての歴史が「千年の都」こと平安京よりも長くなるという段階に至ってもなお、この職人と同じような考えの人が古都には少なからず残っていたのである。
そんな環境であったから、皇太后陛下におかせられては、
「私はただ心静かに暮らしたかっただけなのに、その気持ちがかえって南北朝時代の再来を思わせるこんな状況を招いてしまうだなんて、聖上にどんな顔でお詫び申し上げればいいのでしょうか」
―――――――――――――――
【脚注】
[1]江戸時代後期、人皇百十八代・後桃園天皇の養子として閑院宮家より皇位を継承した光格天皇には、
玉葉物語 財布を忘れて愉快なオーストリア大公妃 @Donau314
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