第一話(二)「月の君」
【
安化の
「稀代の
と、
東宮殿下がお心を寄せられたお方と申し上げる女人は、椿の花を思わせる鮮やかなお唇、雪の精のように白いお肌、艶々とした長い黒髪など、ご
絵になるお二人が東宮御所のお庭などで談笑なさっている時、
「もしも
などと、『
「ありがたや、ありがたや」
と言いながら
しばらくしてお二人はその場を後になさったが、その際に殿下のすぐお隣を歩かれるご令嬢に人々は大いに魅了された。唐代に編纂された『
お二人がにこやかにお去りになった後も、残された人々は
「あの美しいお嬢さまはいったいどなたなのかしら」
などと時間を忘れて語り合い、そうこうしているうちに、ほとんどの人々はその日はまだろくに鑑賞できていないというのに、
安化二十四年の秋の夕べ、
「名月を眺めて思ふかぐや姫 それかあらぬか君はまばゆし(あの美しい中秋の名月を眺めながらも、僕は
とお歌をお
「かがやけるかの月も日のあるがゆゑ 我きこゆるも君あるがため (月が輝いているのは太陽があるからでございます。私めのような者が世間で評判になっているみたいでございますが、それも日嗣の御子であらせられる殿下がお目をかけてくださるおかげでございますよ)」
と、ぽっとお
「皇太子妃となるべき人は、やはりこのお方をおいて他にいらっしゃらないだろう」
と心の底から思ったものだった。いったい誰が言い出したのであろうか、この夜の宴を境にご令嬢は「月の君」と呼ばれるようになられた。
お呼ばれを受けた人々は、月明かりに照らされつつそっと肩をお寄せ合いになるお二人の後ろ姿を拝見しながら、夢を見ているかのようなうっとりとした表情を浮かべる者がほとんどだったが、彼らの中でも、ご学友のお一人でいらっしゃる島津旧男爵家の若殿だけは、
「そう遠くないうちに僕の名がお二人の恋のキューピッドとして知れ渡り、後々の世まで記憶されることになるのだろうなあ」
とたいそう誇らしげでいらっしゃった。それもそのはずで、彼が文字通り骨をお折りになったことこそが、本来ならば接点がまるでないままご生涯を終えられたであろうお二人が、運命の
殿下には、いまだ御学校の高等科に在籍していらっしゃった頃のある日、車に
殿下には、ほんの一部であるとはいえ分厚い古典全集をご病室にお持ち込みになるという今時珍しいご令嬢がお目に留まり、思わずあれこれとお話しになったのだが、何から何までご趣味がお合いになったことから、すっかり意気投合された。そして、実際には島津の若殿のご病室に足をお運びになったのは最初の一度きりだったというのに、週に一度は、
「島津を見舞う」
というご名目のもとに、月の君のご病室へと行啓あそばすようにならせられた。およそ一ヶ月後、退院なさってからそのことを知らせられ給うた島津の若殿におかれては、
「なんとお
とご機嫌をいささか悪くされたものだが、後で月の君をご直々に紹介され給うた際には、これほどすばらしい女性ならば殿下が夢中になってしまわれるのも仕方がないことだろう、と心からお思いになって、
「殿下、その恋を
などとお申し出になって、やがて自他共に認める天下第一の協力者となられたのである。
さて、月の君は先ほど和歌の中で、皇太子殿下を自ら光を放っている太陽に、ご自身をその光を反射しているにすぎない月に
皇太子殿下におかせられては、月の君のお手をしきりに気になさったが、気恥ずかしさゆえにか、なかなか繋ぐことがおできにならずにいらっしゃった。島津の若殿には、やがて月の君のほうからそんな殿下にお手をお求めになったのを拝見しながら、
「あの殿下のご様子では、やはりご婚儀はまだまだ先のことなのだろうか。国生み神話によると、女の
と、思わずため息をおつきになった。しかし、彼のご想像に反して、その時はそれほど間を置かずして訪れた。
その年の
「東宮ではなく
と、真白い息をお吐きになりながら
「僕も、
と
月の君にはこれに対し奉り、ほんの一瞬、
「ああ、嬉しゅうございます。なれど殿下、みなさんがはたして私のような者をお認めくださるのでしょうか」
と、喜びと同時に不安のお気持ちをも
この頃、月の君はすでに最有力な東宮妃候補としてお名を挙げられるようになられてから久しかった。それにもかかわらず、その後もご結婚までにはなかなか至らなかったが、それと申し上げるのは、お気の毒なことにこのお方が、お身体があまりお丈夫なほうではいらっしゃらなかったからである。皇太子殿下に初めてお目にかかった時が初めてのご入院ではなかったし、ご幼少の頃には
「世襲制を続けるうえで最も大切なお役目を果たすことがおできにならないのではないか」
と
「
などと日記にお書きになる貴族がいらっしゃったくらいだというのに、何かとご窮屈な暮らし向きとなる
「あの方との結婚が許されないのであれば、僕は生涯どなたとも結婚することはないでしょう」[1]
とまで仰せになるほどに東宮殿下がご
明くる安化二十六年の正月、宮中で催された
「うれしきは君の寝顔の見ゆる夜
その年の
津々浦々に住まう民草は、身近なところに松や梅、桜や楓などを記念樹として植えたり、ご成婚記念の特製の親王飾りを買い求めたりして、久しぶりのご慶事を盛大に
しかし、前世からの
――――――――――――――――――――
【脚註】
[1]元ネタはノルウェー王ハーラル五世。唯一の王位継承有資格者であった王太子時代に、ソニア・ハーラルセンとの結婚が許されないのならば誰とも結婚しない、と父王オーラヴ五世を脅し、結婚を了承させたという。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます