第一話(二)「月の君」

つききみ


 安化のみかどにおかせられては、御一粒種おんひとつぶだねとして、ご称号をば允宮みつのみや、お名をば迪仁みちひと親王と申し上げる皇太子があらせられた。この皇太子殿下には、ご幼少のみぎりからたいそうご聡明そうめいであらせられ、またお優しくていらっしゃったけれども、それはそれは奥手なご性格で、御学校へお通いになり始めたばかりの頃からずっと女人にょにんとはまるでご縁がおありでないご様子であらせられたので、

「稀代の仁君じんくんとならせられることは疑いないけれども、いつの日かお世継ぎを儲けることはおできになるのだろうか」

 と、宮仕みやづかえの人々が老いも若きもみな密かに不安がっていたほどであったが、そんな東宮殿下にもやがて、親しくお言いわしになるようなお相手がおできになった。

 東宮殿下がお心を寄せられたお方と申し上げる女人は、椿の花を思わせる鮮やかなお唇、雪の精のように白いお肌、艶々とした長い黒髪など、ご容貌ようぼうが並外れて優れていらっしゃったし、旧華族かぞくのお血筋でこそいらっしゃらなかったけれども世に名家めいかといわれるお家柄のお生まれで、そのうえお人柄もご教養もすばらしいものがおありだった。

 絵になるお二人が東宮御所のお庭などで談笑なさっている時、東宮職とうぐうしょくの人々は、お勤めの最中であることを忘れてつい見惚れてしまうのが常だった。宮仕えの人々ですらそのようなありさまならば、平素へいそよりお二人を見慣れていない者どもはなおさらである。安化二十三年の夏のある日、殿下におかせられては、初めてご令嬢とご一緒に民草の前にお出ましになった。朝早く、上野恩賜公園うえのおんしこうえん内の数多あまたの蓮の花が美しく咲き誇る不忍池しのばずのいけのほとりにて、うるわしいお二人がお互いをしばらく見つめていらっしゃるのをたまたま拝した人々はみな、

「もしも極楽浄土ごくらくじょうどが実在するとしたら、まさにこのような光景なのだろう。自分はいつの間にか往生おうじょうしてしまったのだろうか」

 などと、『仏説阿弥陀経ぶっせつあみだきょう』が浄土にあると説いたもの――金銀珠玉をちりばめた建物や宝樹ほうじゅ、さまざまな珍しい鳥など――がほとんど足りていないばかりか、遠方には高層ビルが雑然と立ち並んでいるのが視界に入ってしまうにもかかわらず、すこぶる自然に思った。お二人を遠目に眺める数十人の民草の中には、

「ありがたや、ありがたや」

 と言いながら感涙かんるいを流し、震える両手を合わせて念仏を唱え始める老人までいたほどである。

 蓮花れんかというものは、朝に開いて、昼にはもう閉じてしまう。人々はそんな花をこそ見たいと思ってわざわざ足を運んできたというのに、不覚にも、後光ごこうしているようにすら見える輝かしいお二人にばかり目を向けてしまった。

 しばらくしてお二人はその場を後になさったが、その際に殿下のすぐお隣を歩かれるご令嬢に人々は大いに魅了された。唐代に編纂された『南史なんし』によると、南斉なんせいの廃帝の一人である東昏侯とうこんこうは、贅沢を好んだがためであろう、黄金を材料に蓮華れんげの花を模したものを作らせて、寵愛する潘貴妃はんきひをしてその上を歩かせしめたそうだ。この故事から美人の歩みのことを昔から「蓮歩れんぽ」というけれども、もしもこの故事成語がなかったとしても「美しい蓮の花々も霞んでしまうような貴婦人の歩み」という意味の同じ単語がこの日新たに生まれていたかもしれない――そう思えるほどの並外れた優雅さゆえのことであった。

 お二人がにこやかにお去りになった後も、残された人々は余韻よいんに浸って、

「あの美しいお嬢さまはいったいどなたなのかしら」

 などと時間を忘れて語り合い、そうこうしているうちに、ほとんどの人々はその日はまだろくに鑑賞できていないというのに、台覧たいらんを賜ったからもう十分だろうとばかりに花のほとんどがつぼみに戻りかけてしまっていたが、これを残念がる者は一人としていなかった。思いがけない拝顔はいがんえいよくした人々の中には、見渡す限りの蓮を前にしながらも、蓮池を訪れた当初の目的が何だったのかをすっかり忘れてしまう者さえ少なくなかった。

 安化二十四年の秋の夕べ、かしこくも皇太子殿下におかせられては、中秋ちゅうしゅうの名月を楽しまんとおぼし召して、東宮御所にごく親しい方々のみをお招きになった。そうして、お庭に打ちでて空に浮かぶ月をごらんりながら、


「名月を眺めて思ふかぐや姫 それかあらぬか君はまばゆし(あの美しい中秋の名月を眺めながらも、僕は貴女あなたのことばかりを想っています。もしかすると、眩いほどに美しい貴女の正体は、帝の求婚でさえも突っぱねたと『竹取物語』にあるかぐや姫なのではないですか。違うのならばよいのですが)」


 とお歌をおみになった。東宮殿下には、直接的に愛をささやくのは気恥ずかしいとかねてお思いになっていたから、このような遠回しで古めかしいやり取りを好ませられた。それゆえに、お歌の意味がすぐにはわからないという様子の人も少なからずいたのだが、殿下のお側に付き従っていらっしゃったご令嬢は、これに対し奉り、


「かがやけるかの月も日のあるがゆゑ 我きこゆるも君あるがため (月が輝いているのは太陽があるからでございます。私めのような者が世間で評判になっているみたいでございますが、それも日嗣の御子であらせられる殿下がお目をかけてくださるおかげでございますよ)」


 と、ぽっとおほおを赤く染められながらもただちに返歌へんかをお詠みになった。この時、その場に居合わせた誰もが、歌の意味がわかった人はご令嬢の教養高さと慎ましさに、意味がわからなかった人もその平安めいたみやびさに感じ入って、

「皇太子妃となるべき人は、やはりこのお方をおいて他にいらっしゃらないだろう」

 と心の底から思ったものだった。いったい誰が言い出したのであろうか、この夜の宴を境にご令嬢は「月の君」と呼ばれるようになられた。

 お呼ばれを受けた人々は、月明かりに照らされつつそっと肩をお寄せ合いになるお二人の後ろ姿を拝見しながら、夢を見ているかのようなうっとりとした表情を浮かべる者がほとんどだったが、彼らの中でも、ご学友のお一人でいらっしゃる島津旧男爵家の若殿だけは、

「そう遠くないうちに僕の名がお二人の恋のキューピッドとして知れ渡り、後々の世まで記憶されることになるのだろうなあ」

 とたいそう誇らしげでいらっしゃった。それもそのはずで、彼が文字通り骨をお折りになったことこそが、本来ならば接点がまるでないままご生涯を終えられたであろうお二人が、運命の悪戯いたずらだとしか思えない形で出会われるきっかけとなったからである。


 殿下には、いまだ御学校の高等科に在籍していらっしゃった頃のある日、車にかれてしばらく入院することになってしまわれたこのご学友を見舞わんと、都内の病院へとご潜行せんこうあそばされた。この時、皇太子殿下の行啓ぎょうけいに気づいた一人の老婆が驚きのあまり大騒ぎし始めたことを契機に、院内はにわかに沸き立って、あたかも慰問のご公務のようになってしまったのだが、もしもその老婆が年甲斐もなく騒がなかったなら、また、もし殿下が老婆を相手になさらなかったなら、たまたまお怪我を負われたがゆえに同病院にお入りになっていた月の君と殿下が出会われることはけっしてなかったに違いない。

 殿下には、ほんの一部であるとはいえ分厚い古典全集をご病室にお持ち込みになるという今時珍しいご令嬢がお目に留まり、思わずあれこれとお話しになったのだが、何から何までご趣味がお合いになったことから、すっかり意気投合された。そして、実際には島津の若殿のご病室に足をお運びになったのは最初の一度きりだったというのに、週に一度は、

「島津を見舞う」

 というご名目のもとに、月の君のご病室へと行啓あそばすようにならせられた。およそ一ヶ月後、退院なさってからそのことを知らせられ給うた島津の若殿におかれては、

「なんとお薄情はくじょうな。長年の友である僕よりも、出会って間もない女のほうがお大事だと仰るのですか」

 とご機嫌をいささか悪くされたものだが、後で月の君をご直々に紹介され給うた際には、これほどすばらしい女性ならば殿下が夢中になってしまわれるのも仕方がないことだろう、と心からお思いになって、

「殿下、その恋を成就じょうじゅさせるためでしたらば、不肖ふしょうの身ながらどのようなことでもお手伝いさせていただきまする」

 などとお申し出になって、やがて自他共に認める天下第一の協力者となられたのである。


 さて、月の君は先ほど和歌の中で、皇太子殿下を自ら光を放っている太陽に、ご自身をその光を反射しているにすぎない月にたとえられたが、夜の世界は天照大御神ではなく月読命つくよみのみことこそがお統べになっているらしい。それだからというわけでもないのだが、――後醍醐ごだいご天皇がしばしば月影にお喩えになった中宮ちゅうぐう後京極ごきょうごく院が、教養と美貌を兼ね備えられながらもたびたび夫帝をお振り回しになるほど情熱的でいらっしゃったように――月の君には、日の出ているうちの衆目しゅうもくを集め給う場では慎ましげでいらっしゃるけれども、人目の少ない夜などに殿下とお二人で過ごされる時には恋人として主導権をお握りになるのだった。

 皇太子殿下におかせられては、月の君のお手をしきりに気になさったが、気恥ずかしさゆえにか、なかなか繋ぐことがおできにならずにいらっしゃった。島津の若殿には、やがて月の君のほうからそんな殿下にお手をお求めになったのを拝見しながら、

「あの殿下のご様子では、やはりご婚儀はまだまだ先のことなのだろうか。国生み神話によると、女の伊邪那美命いざなみのみことから誘ったがために水蛭子ひるこ淡島あわしまが生まれたという。それを信じるわけではないが、手を繋ぎたいと求めるくらいならともかく、さすがに女から皇太子にプロポーズするわけにはいかないからなあ」

 と、思わずため息をおつきになった。しかし、彼のご想像に反して、その時はそれほど間を置かずして訪れた。

 その年の仲冬ちゅうとうのある夜、お二人は東宮御所のお車寄せで、しんしんと降りしきる雪を目の前に、長く抱擁ほうようをおわしになった。月の君はいつものように殿下に頬擦りをなさって、

「東宮ではなく春宮はるのみやとも仰る殿下のお身体は、まさに春の日和ひよりのようにお温かくていらっしゃるのでございますね。東宮御所からわが家に帰る時、私はいつも胸が張り裂けそうな心地ここちでございますが、こんな雪の日にはなおさら離れがたく思ってしまいます。もうおいとましなければならないお時間でございますのに――」

 と、真白い息をお吐きになりながら名残なごり惜しげに仰った。殿下にはこの刹那、いつになく強く月の君をお抱き締めになりながら、いよいよ、

「僕も、貴女あなたとお別れするたびに胸が張り裂けそうな思いです。こんな辛い思いをするのはもう嫌です。――結婚してくださいますか」

 とふるってご求婚あそばしたのだった。

 月の君にはこれに対し奉り、ほんの一瞬、たましいがさまよい出てしまわれたかのようなご表情になられた後、目に随喜ずいきのお涙を浮かべられながら、殿下を抱擁なさる力をこれまたいつにも増してお強くされて、

「ああ、嬉しゅうございます。なれど殿下、みなさんがはたして私のような者をお認めくださるのでしょうか」

 と、喜びと同時に不安のお気持ちをも吐露とろされたが、何の理由もなくそのように不安にお思いになったわけではなかった。

 この頃、月の君はすでに最有力な東宮妃候補としてお名を挙げられるようになられてから久しかった。それにもかかわらず、その後もご結婚までにはなかなか至らなかったが、それと申し上げるのは、お気の毒なことにこのお方が、お身体があまりお丈夫なほうではいらっしゃらなかったからである。皇太子殿下に初めてお目にかかった時が初めてのご入院ではなかったし、ご幼少の頃には大病たいびょうをおわずらいになったことさえおありだったので、

「世襲制を続けるうえで最も大切なお役目を果たすことがおできにならないのではないか」

 と私見しけんを述べた宮内庁次長のように、皇太子妃としてふさわしいかを気がかりに思う者も宮中には少なくなかった。それでも、王朝文化の華やかなりし平安の頃ですら、

きさきの位も何にかはせむ」

 などと日記にお書きになる貴族がいらっしゃったくらいだというのに、何かとご窮屈な暮らし向きとなる御位みくらいを快く引き受けてくださる人を探すのは、政略結婚がすっかり衰えた今の世ではとても難しいことであろう。直近の数代だけをかんがみても自然とそのように思われたし、

「あの方との結婚が許されないのであれば、僕は生涯どなたとも結婚することはないでしょう」[1]

 とまで仰せになるほどに東宮殿下がご執心しゅうしんであらせられたから、それならばお心に添うようにして差し上げようということで、皇室会議がご結婚を是とし、晴れてご婚礼の相成ったのが、安化二十五年の早秋そうしゅうであった。

 明くる安化二十六年の正月、宮中で催された歌会始うたかいはじめの儀において、皇太子殿下にはこのようなお歌をご披露になった。


「うれしきは君の寝顔の見ゆる夜 くれば夢とおぼゆる秋かな(成人と同時に東宮御所に移って以来、これまで一人寂しく過ごしていた夜に、月の光に照らされて愛しい貴女の寝顔が自然と見えるのが本当に嬉しいです。夜が明けた時にはいつも、東宮御所に貴女の姿があるのを見て、いまだに夢の中なのではないかと思われる新婚の秋です)」


 その年の勅題ちょくだいは「秋」であったが、御製ぎょせい、皇后宮御歌、皇太后宮御歌、皇太子妃殿下のお歌は、いずれもご婚礼にまつわるものであった。民草から寄せられたおよそ百万首もの詠進歌えいしんかも、ご成婚を奉祝ほうしゅくするものばかりで、秋風に舞い散る紅葉もみじ銀杏いちょうの物悲しさというような秋のうれいを詠んだものはほとんどみられなかった。

 津々浦々に住まう民草は、身近なところに松や梅、桜や楓などを記念樹として植えたり、ご成婚記念の特製の親王飾りを買い求めたりして、久しぶりのご慶事を盛大に言祝ことほいだ。

 しかし、前世からのごうゆえのことであろうか、あるいは知らず知らずのうちに仲哀ちゅうあい天皇のごとく神仏のお怒りに触れてしまわれたのであろうか、皇太子同妃両殿下の幸せに満ちた日々はそれほど長くは続かなかった。


――――――――――――――――――――


【脚註】

[1]元ネタはノルウェー王ハーラル五世。唯一の王位継承有資格者であった王太子時代に、ソニア・ハーラルセンとの結婚が許されないのならば誰とも結婚しない、と父王オーラヴ五世を脅し、結婚を了承させたという。

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