第一話(三)「東宮薨御、悲嘆に暮れ給う雲上人」

東宮薨御とうぐうこうぎょ、悲嘆に暮れたま雲上人うんじょうびと


 ご成婚からわずかに一年半ほどしか経っていない安化二十七年の四月中旬、両殿下におかせられては、とある劇場の創立五十周年の記念式典に行啓になった。その帰路、隅田川沿いの桜の花が舞い散るのをしばしご覧になっていた時、皇太子殿下には、にわかにお倒れになったのである。妃殿下には、御身に何が起こったのかをすぐには理解することがおできにならず、みながお命を救わんとする中、ただただ呆然とされるばかりであった。

 当時の竹の園では唯一、皇位継承権をお持ちのお方でいらっしゃった春宮殿下には、ご求婚に際せられ、

「どんなことがあっても、僕が絶対に貴女あなたを守ってみせます。貴女は何一つ心配することはありません。もしも子ができなかったとしても、その時は天が皇室をもはや不要と判断なさったのだと考えればよいのです」

 とまで仰せになっていたが、その殿下がいまだ和子わこをお儲けにならないうちにとみに薨御こうぎょあらせられたことにより、いずれ天位てんいをお受け継ぎになるべき金枝玉葉きんしぎょくようのお方がとうとう誰一人としていらっしゃらなくなってしまったのだった。


 すでに老境ろうきょうにお入りになっていらっしゃった上御一人かみごいちにん皇后宮こうごうのみや陛下、蒲柳ほりゅうしつでいらっしゃった東宮妃殿下、かなりお年を召しておいでだった皇太后宮こうたいごうのみや陛下などよりも先に、お若くてお健やかな東宮殿下が黄泉路よみじにお立ちになってしまうなどとは、誰にとっても思いがけないことであったし、それだけに残され給うた雲の上の方々のお悲しみようははなはだしいものであらせられた。

 唯一の御孫みまにあたらせられる故東宮をご溺愛できあいなさっていた皇太后宮陛下におかせられては、大宮御所おおみやごしょの庭園で花をでていらっしゃった最中に御事おんことげられ給うや、嘘よ、そんなの嘘よと泣き崩れられ、しばらくしてようやく落ち着かれたかと思えば、

わたくしのために用意していただいたみささぎの場所を、允宮に譲ることはできないのですか。践祚せんそしないうちにこの世を去ってしまった允宮を、できることならば豊島岡としまがおかの皇族墓地にではなくて、天皇と同じようにして葬ってやりたい。私のむくろでしたら、檀林だんりん皇后[2]のように野辺のべに捨て置いてくれて構いませんから」

 と、すすり泣きながらお声を上げたもうたから、お側に五十年ほどもお仕えし奉ってきたある女官にょかんは、

「世紀の大恋愛の末にご一緒になったという先帝陛下と今生こんじょうの別れをされた時でさえ、『私にはもう必要ありませんので、クローゼットの中の服はすべて処分してください。私は大喪たいそうが明けてからも、死ぬまで喪服にしかそでを通さないつもりですから[3]』と殊勝しゅしょうに仰せになりつつも、お涙はついぞお見せにならなかったあの国母こくもさまなのに」

 と、驚きを隠すことができなかった。しかし、よくよく考えてみると、大日本帝国憲法の頃であれば皇太子も国葬を以てお送りすることができた[4]というのに、今の世ではそうはいかないし、また、和子がいらっしゃらない以上は、いずれ新帝のご実父として太上天皇だいじょうてんのうの号を追贈ついぞうされ給うこともない。つまり、廃されたのでもない東宮としてはほとんど例がないようなご不憫ふびんな扱いとならせられるわけだから、皇太后宮陛下がひどくお心を乱され、せめて自分の陵を譲りたいと仰せになったのも無理からぬことだと思われた。

 また、皇姉こうし熙子ひろこ内親王殿下におかせられては、御一人身ゆえにお子さまがおいでにならないこともあって、東宮殿下をまるでわが子のようにお可愛がりになっていたから、その悲嘆に暮れ給うご様子もやはり実の母親のようでいらっしゃった。

 ある時、粗忽者の女官がこの内親王殿下に「陛下」とお声掛けしてしまうという失態を演じてしまったが、それというのも、この殿下がみるみるうちに皇太后陛下と見紛うてしまいかねないほどに老け込んでしまわれたからである。その場に居合わせた宮仕えの者たちは誰もが誤りにすぐさま気が付いたけれども、もはやこの世のすべてが厭わしいとお思いになったかのようなご様子でいらっしゃった内親王殿下のお耳には、そもそも届いてさえいなかったのだった。


 斂葬れんそうの儀には、朝家のしきたりをお破りになって安化の帝も臨御りんぎょあそばされた。そうして、帝王学ていおうがくをおおさめになっていた頃に、おおやけの場では感情をあまり出してはならないとお学びになったにもかかわらず、この時ばかりは、普段はお凛々りりしいその玉眼ぎょくがんを数百人もの人々の前で痛々しいほどに赤くさせ給い、また、

「情けないことに、ちんは竹の園生の伝統というものにそれほど深くは関心を持てなかったが、允宮は違った。あれが即位したならば、きっとさぞ優れた天皇になっただろうに」

 と、ご学友でもある時の内閣総理大臣に対せられ、思わず嘆き給うたのだった。

 皇太后宮陛下には、たいへんなご心労がおありだったと拝察はいさつせられた。東宮の斂葬の儀から半月もしないうちに大宮御所の廊下で突然お倒れになって、そのまま崩御ほうぎょあそばされた。ご臨終の直前に、ふとご意識を取り戻されて、

天照大御神あまてらすおおみかみが仰るには、宝祚ほうそのお栄えはきわまるということがないはずでしたのに。ああ、こんな辛い思いをしなければならないのでしたら、九十一までも長生きなどするのではありませんでした」

 と涙ながらに仰せになったが、これを拝聴はいちょうして袖を濡らさずにいられた者がいるはずもなかった。


「皇太后陛下におかせられては、にわかに、崩御あらせられました。まことに、痛惜哀悼つうせきあいとうに堪えません。陛下におかせられては、常に清明にして、仁慈じんじに富まれ、文始ぶんし天皇をおたすけし、親しく国民を慰め励ましてこられました。また、諸外国との友好親善にも力を尽くされ、内外の人々から、ひとしく敬慕を受けてこられました。衆議院は、ここに国民の至情しじょうを代表して、うやうやしく弔意を表し奉ります。」(衆議院本会議 安化二十七年五月二十五日)


 皇位継承者がおいでにならなくなってしまったので、時の政府高官たちは何かしらの対応をしなければならないと考えたのだが、かしこき辺りにおかせられては、東宮薨御の直後のご様子は申し上げるまでもなく、斂葬の儀を済ませられた後もなお、誰もが当分は何も見ない顔をしていたがるほどのお嘆きようであらせられた。そんな安化の帝に対せられ、帝と同じく宝算ほうさん六十六にならせられていた皇后宮陛下には、宮家の女王殿下としてお生まれになったことも手伝って、何としてでも朝家を存続させなければならないという責任感を強くお持ちでいらっしゃったので、

「もともと皇后の御位みくらいは私めには過ぎたものだったのでございます。お上、どうか私めのことなどはお忘れになって、喪が明けましたらすぐにお若い皇后をお迎えくださいませ」

 と奏上そうじょうあそばされたが、そのように申し上げたのは、側室制度がとうの昔に廃止されたからには皇后が自ら皇子を産むよりほかないというのに、自分の年齢ではもう産むことはできない、と思い詰められたからだった。

「女は老いればもはや産めませんが、殿方とのがたのほうは老いても子をせます。かつてのベルギー国王レオポルド二世は、七十代になってから若い愛人との間に二人も庶子を儲けたそうでございます。それならばお上も、お相手さえ若ければまだまだ――」

 なお、畏き辺りにおかせられては、この奏上に対せられ、

「かつてのヨーロッパの帝王には世継ぎを産めない后妃こうひと離婚したことで悪名あくみょう高い者も多くいる[5]が、ちんにそのような外道げどうになれと言うのか。それに、コンゴに暴政を敷いたことで知られるあの悪王あくおうと一緒にされとうはない」

 とただちにお答えになった。そして、皇后宮陛下を優しくご抱擁になりながら、

「誰が何と言おうとも、たとえ後の世の人に『一人の女のために王朝の幕を引いた天皇』などと嘲笑されることになろうとも、死に別れるその時までちんはけっして愛するそなたを離しはせぬぞ」

 と、さらに続けて仰せになったのであるが、思い詰め給うた皇后宮陛下には、そんな大御心おおみこころを聞こし召すや、ならば死に別れようと、すなわち、ご自身のお命を縮めることをお考えになった。同年五月のある日、御所のお庭に打ち出でられ、青々とした梅の木をご覧になりながら、ご辞世じせいのおつもりで次のように御歌をみ給うたのだった。


「消ゆるをやみやこの人はしまじな 花とて散らばたれも思はじ(かつては「花のような姫宮」ともうたわれた私ですが、今となっては姿を消してしまっても都の人は惜しまないでしょう。春が過ぎて花が散ってしまった後には、もうほとんど見向きもされないこの梅と同じように)」


難太平記なんたいへいき』によれば、かの源義家みなもとのよしいえ公は、

わが七代の孫にわれうまれかはりて天下をとるべし」

 と置文おきぶみをお残しになったが、その義家公の「七代の孫」にあたらせられた鎌倉時代の足利家時あしかがいえとき公は、自らの代で天下を取るのは叶わないことをお悟りになるやいなや、

「我命をつゞめて三代の中にて天下をとらしめ給へ」

 と八幡大菩薩はちまんだいぼさつに祈願なさりながら御腹を召された。これを八幡大菩薩がお聞き届けくださったからこそ、その御孫みまにあたらせられる足利尊氏たかうじ公は室町むろまち柳営りゅうえいの開祖となることがおできになったということである。

 そんな故事から影響をお受けになったのであろう、皇后宮陛下におかせられては、

「どうせ命を捨てるのならば、無駄に散らすのではなく、お慕い申し上げるお上のために神仏にお捧げすることに致しましょう。天照大御神を頼りにできないのならば、古くから朝家が第二の守護神としてきた八幡神[6]におすがり致しましょう」

 とおぼし召しになり、ある時、家時公にならわんと歴代皇后の御枕刀である『平野藤四郎ひらのとうしろう』からお手を離そうとなさらなかった。皇太后宮が崩御あそばされて間もなくの出来事だったので、これ以上大事な人の命を失いたくないとのお考えから、上御一人には、

「離しはせぬと言ったものの、やはり望み通りに離縁してやったほうが皇后のためにはよいのではないか」

 としばらく思い悩ませられるという御ありさまであった。そのように思い悩んでいらっしゃることがお側にはべる者から市井しせいにまで漏れてしまって、みなが話題にするうちに中身が大きく変わってしまったのであろうか、やがて俗世間の口さがない人々の間では、

「天皇陛下はどうやら皇后さまと離縁なさり、お若い皇太子妃さまを新しいお后になさるおつもりらしいぞ」

 などという根も葉もない噂もまことしやかに飛び交うようになったが、実際のところ主上にはこの頃、長い付き合いの宰相に対せられ、

東魏とうぎ孝静帝こうせいていは『昔から滅ばなかった国はない』と言ったと聞く。ちんも同感だ。わがちょうもいよいよ終わりなのだろうが、それは允宮が申したように、天照大御神がこの国に皇室はもはや不要だとお考えになったということであろう」

 と、末代まつだい天子てんしとなる運命を受け入れようという叡慮えいりょを、二人きりの内奏ないそうの場において内々にお示しにさえになったのだった。


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【脚註】

[2]第五十二代人皇・嵯峨天皇の皇后である橘嘉智子。仏教に深く帰依し、帷子辻において遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示したといわれる。

[3]類例はイギリス女王ヴィクトリア、貞明皇后など多数ある。

[4]国葬令(大正十五年制定)は、第二條で「皇太子皇太子妃󠄂皇太孫皇太孫妃󠄂及󠄃攝政タル親王內親王王女王ノ喪儀ハ國葬󠄂トス但シ皇太子皇太孫七歲未滿ノ殤ナルトキハ此ノ限ニ在ラス」としていた。

[5]男子の世継ぎを渇望して六度も結婚したイングランド王ヘンリー八世、嫡子が生まれないことを理由に離縁してハプスブルク家のマリア・ルイーザ大公女を皇后に迎えたフランス皇帝ナポレオン一世など。

[6]『承久記』に「日本国の帝位は伊勢天照太神、八幡大菩薩の御計ひ」とあるように、八幡神は古くから天照大御神に次ぐ皇室の守護神とされてきた。

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