第五話(二)「聖断」

聖断せいだん


     一


 初めて目撃されて以来、白い女の幽霊は大宮御所に幾度となく現れ続けていたが、それは朝家の終焉ではなく皇太后陛下の崩御を告げるものだったのであろうか。

 後世に「即位礼参議院の儀事件」と呼ばれるあの重大事件からわずか十日後の夕べ、皇太后陛下におかせられては御年八十一にて、参議院本会議場での御ことは露知らずに、あたかも静かにお眠りになるかのように崩御あらせられたのだった。


 皇太后崩御から半月ほどの時が流れ過ぎたある日のことである。宝享の帝におかせられては、皇后陛下や皇子殿下方、弟宮にあたらせられる親王殿下方、そして宮内庁侍従職の者どもをお伴いになって旧大宮御所に行幸され、いまだにお片付けが十分ではない先帝・清明天皇ならびに故皇太后のご遺品の整理をなさっていた。

 ご在位こそ五年ほどとお短かったけれども、長く皇太子でいらっしゃった先帝におかせられては、親しく交流されていた外国の君家からの贈り物や、献上された国内の伝統的な名産品などを、まさしく山のようにご所持されていた。また、書庫には好学の君にふさわしく、数万冊にものぼる膨大な書物が収められていたのだった。

 宝享の帝におかせられては、その書庫内へと玉歩ぎょくほを進められるや、

「おもうさんはたいへんな読書家でいらっしゃったが、それにしてもずいぶんお集めになったものだなあ」

 と感慨深げに仰った。そうして、お近くにあった書物をお手に取られて、少しの間ご覧になった。日頃のお疲れも溜まっておられるのだろう、大きくあくびをなさり、そのことを恥ずかしく思われて、誰にも見られていないだろうかとふとご周囲をお見回しになった刹那――短く悲鳴をお上げになった。

 いつからそこにいたのであろうか、純白のローブ・デコルテに透き通った身体という、明らかにこの世のものではなさそうな女が一人、無言で大きな本棚の一つを見つめながら立っていたのである。

 この女の幽霊がヨーロッパにおける「白い貴婦人」のような存在であるとするならば、また死人が出ることを告げに現れたのだろうか。そしてこの場に現れたということは、次に死ぬべき人はすでにここにいるということなのだろうか――。

 初めからその場に居合わせた方々については、わざわざ語るまでもないことだろう。騒ぎを聞きつけて馳せ参じた宮仕えの人たちも、恐怖のあまり、顔面蒼白になって失神したり、みっともなく泣き喚いたりと、手の付けようがないありさまになってしまった。

 だが、よくよく見るとその幽霊の顔は、竹の園生の方々やある程度の地位にある宮内庁職員ならば絵画や写真、映像などで知っているのが当たり前の大昔の皇后そのものであった。そのことに気が付かれた帝が、

「理由もなく子孫を害そうとするご先祖様がおられようはずがない。きっと朕たちに何か伝えたいことがおありだからこそ、こうしてお現れになったのであろう」

 と奮って仰せになるや、それはにっこりと微笑んで、まさしく煙のように消えてしまった。

「この大きな本棚を見つめていらっしゃったようだったが、あるいはここに何かがあるのだろうか」

 帝におかせられてはそう思し召して、弟宮にあたらせられる衣笠宮きぬがさのみや殿下、小倉宮おぐらのみや殿下、音羽宮おとわのみや殿下らをお召しになっては、手分けをなさってその本棚を隅々までおあらためになった。すると、先帝がお使いになっていたらしい十数冊の古ぼけたノートが見つかったのだった。とりわけご長弟の衣笠宮殿下には、そのページをしばらくお捲りになるや、ご興奮を隠せないご様子にならせられた。

「これこそはまさに天啓というべきだ。これさえあれば、先帝陛下のご遺志を受け継ぐこともできるだろう!」

 それらのノートには、清明天皇がお考えになっていた皇室改革の私案が、「斎王」の復活のような思わず目を疑うものまで、びっしりと書いてあったのである。


「結局のところ、今のわが国において皇室に不満を抱く者が少なくない根本的な原因は、税金で養う皇族数があまりにも多すぎることだ。小手先の対応をしたところで、これを改善しなければどうにもならない。末流の皇族には、皇位継承権を持たせたまま民間で働かせて、経済的に自立してもらうという案はどうだろうか。イギリスやデンマークなどの王室では早くからそのようにしているそうだ。あれこれと考えてみたが、朕としては、これが一番良いように思われる」


 歴史を紐解けば、皇家があまりにもご繁栄になりすぎてしまった時、畏くも列聖におかせられては、皇族方が国庫を圧迫してしまわないために、ご即位の見込みがない方々を臣籍に降下させ給うてきた。

 たとえば、実に五十人もの皇子女をお儲けになった人皇第五十二代・嵯峨天皇におかせられては、弘仁五年五月八日に詔を発せられて、八方の皇子女殿下に源朝臣みなもとのあそんの姓を下賜なさったが、その理由は『類聚三代格るいじゅうさんだいきゃく』にある通りである。


「詔曰。朕当揖譲、纂踐天位、徳愧睦迩、化謝覃遠。徒歳序屡換、男女稍衆。未識子道、還為人父。辱累封邑、空費府庫。朕傷于解、思除親王之号、賜朝臣之姓。編為同籍、従事於公、出身之初、一叙六位。但前号親王、不可更改。同母後産、猶復一列。其余如可開者。朕殊裁下。夫賢愚異智、顧育同恩。朕非忍絶廃体余、分折枝葉、固以天地惟長、皇土逓興、豈競康楽於一朝。忘凋弊於万代。宜普告内外、令知此意。(詔す、「朕は受禅して天位に即いた。徳は睦邇に恥じ、化は覃遠に謝している。いたずらに歳月がしばしば巡り、男女がやや多くなった。未だ子の道を知らず、かえって人の父となった。かたじけなくも封邑ほうゆうを重ね、空しく府軍を費やした。朕はこれを想って傷む。親王の号を除き、朝臣の姓を賜い、編して同籍とし、朝廷に従事させ、出身の初めは皆、六位に叙そうと思う。(中略)朕は忍んで体余を絶ち廃し、枝葉を分け折るのではない。それを以て天地はこれ長く、皇王は次々と興る。どうして康楽を一朝に競い、彫弊ちょうへい万代よろずよに忘れようか。普く内外に告げ、この意を知らしめよ」と。)」――『類聚三代格』弘仁五年五月八日の詔。


 最終的に嵯峨天皇の御子としては、皇子十七人、皇女十五人の合計三十二人が源姓を賜っている。このように臣籍に降下させるのではなく、皇籍には留まってもらいつつ民間で自由にやらせようという清明天皇のお考えは、朝家のこれまでの制度とは大きく異なるものであった。

 欧州のいくつもの国に実例がある以上、もちろん宮内庁内部でもこれまで検討したことがまったくない案ではなかった。幾度も俎上に載せられたことはあったのだが、数多ある官公庁の中でも特にこの庁内に根強い先例主義により、浮かんではそのつど葬られてきたのである。

 およそ百年前の御乱行事件の頃、皇族はすでに今と同じように大勢いらっしゃったけれども、それほど非難の声が強いわけではなかった。だから、何もせずともきっとじきに天下泰平の時が戻るだろう――宮内庁のお偉方は、自分自身にそう言い聞かせてもきたのだった。

 故父帝の私案をご覧になった帝におかせられては、ただちに一人の侍従をして宮内庁長官を召さしめ給うたのだが、駆け付けてきた彼は、これを少し拝読すると次のように奉答した。

「海外の皇族・王族には、ファッションモデルをおやりになったり芸能界で活動なさったりする方もおられるわけです。もしもそのような活動をされる皇族が出て参りますと、皇室全体の権威が揺らいでしまう虞がございます。また、皇族が悪徳企業の広告塔になってしまわれて、皇室に累を及ぼすようなことがあってもいけません。そのような考え方で、採用には至らなかったものでございます」

 それを聞こし召した帝には、敬慕していらっしゃった故父帝をも「考え無し」だと否定されたようにお感じになって、珍しいことに感情を昂らせながらこう仰せになった。

「諸王を自由にさせて朝家に累が及ぶことがあってはならないとは言うが、彼らに何もさせずにいることで、もう朝家に累が及んでいるではないか。将来に禍根を残さぬようにというのは聞こえは良いけれども、そなたらの目は『今』を見ることができないのか。わからぬのか、御稜威みいつは今すでに衰えているのだぞ!」

 悲しむべきことに昔から宮内庁の役人は、政府の顔色を窺ってばかりで、朝家の方々が何と仰ろうともほとんど拝聴する耳を持たない。しかし、幸いにしてこの時に首相の椅子に座っていたのは、当世随一の忠臣としてにわかに持て囃され、「楠公なんこうの再来」などと称えられることさえあった久松馨だった。数日後、帝のご次弟の小倉宮殿下におかせられては、とあるご公務でこの久松首相とたまたまお顔を合わせられた際、これ幸いと事の顛末をお話しになったのだった。

「そういうことでしたら、この久松めにお任せください。不肖の身ながら、政治生命を賭してでもお上の御為に尽力させていただきます」

 朝家への尊崇の念を取り戻して、譲位という伝統を無事に復活させることができたならば、いずれは御位をお降りになった旧友との交流の時間を多く持つことができるのではないか――そんな期待が久松首相の胸中にまったくなかったとはいえない。たとえいかなる目的があったにせよ、彼は確かに力を尽くして、とうとう先帝のご悲願を実現させたのだった。


     二


 都内の桜がすでに花を散らしつつあった宝享四年の三月下旬、帝におかせられては、皇太子殿下を始めとするおよそ五十名のお近しい皇族方のみをお伴いになって、いつも一般参賀が行われる場である皇居・長和殿のベランダにお立ちになった。

 もちろん新年の一般参賀でもなければ、天皇誕生日の一般参賀でもないのだが、雲の上の方々がお出ましになったその時、すでに二千人ほどの人々が長和殿の前の広場である「東庭」に集まっていた。それでいて、日の丸の旗を振る者たちも、荒々しく万歳を唱える者たちもいない。それもそのはずで、帝の眼下に集った約二千人の人々というのは、ただの一人の例外もなく金枝玉葉の貴い御身の方々なのだった。

 いつの頃からだったか、天壌無窮の朝家があまりにお増えになりすぎて、一堂に会することのできる場所が他になくなってしまったというので、菊栄きくえい親睦会の大会のような皇胤の方々のお集まりがある場合には、ほとんど常にこの東庭を用いるようになっていたのである。

 さて、宝享の帝におかせられては、一般参賀の時と何ら変わらないように据え置かれたマイクの前へとお進みになった。そうして、懐中より一枚の紙を取り出されて、

「皆さんには来月から、新しい生活を送っていただくことになります。昭和二十二年に五十一名の方々が皇籍を離脱された際には、皇族としての最後の思い出に晩餐を共にしたと聞いています。これだけの人数にもなると食事を共にするのは難しいですが、今回は昭和の時とは異なり、皇籍を捨てさせずに済むのですから、こんなに嬉しいことはありません」

 と読み上げられた。

 世の中には、皇族のほとんどは帝とのご血縁が薄くなってしまっており、今の天皇陛下にとらせられては他人も同然の方々だ、などと訳知り顔で語る者もいるけれども、これは明確なる誤りである。明治三十七年、日露戦争が勃発してから間もない頃に、「大帝」との誉れ高いかの明治天皇におかせられては、次のように和歌をお詠みになった。


「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ」


 列聖におかせられては、民草を「大御宝おおみたから」や「赤子せきし」として大事に思ってこられたし、外国とつくにの人々をも同胞はらからのように思ってこられたのだ。そんな歴代の帝には、同じお血が確かに流れていらっしゃる諸王殿下に対せられ、格別の情をお抱きにならないということなど、あろうはずもないのである。

 長和殿のベランダからお言葉をお述べになるというのは、あたかも民草に対せられるがごときであらせられたが、これは、とにかく大勢いらっしゃる金枝玉葉の方々の中には帝のお姿をろくに拝見できない方も出てしまわれるだろうというご配慮からのものなのだった。この後、宝享の帝におかせられては、わざわざ東庭までお出ましになって、諸王殿下の間にお入りになり、日が傾くまで親しくご歓談になった。

 有栖川宮殿下に対せられて曰く、

「有栖川さんのところは歴史的に有名な宮家の名跡を受け継いだから、さぞ身が引き締まる思いだろう」

 また白河宮殿下に対せられて曰く、

「白河さんのところでは次男がいただろう。このような機会はまたとないのに、どうして連れてこなかったのかね。そうか、風邪では仕方がないな」

 竹の園生の末葉の方々の中には、拝謁の機会を賜ることが一年に二、三度ほどしかおありではないというお方も少なからずいらっしゃった。けれども、彼らはこの時、このように親しくお話になる帝に対せられて、

「ただ昔の天皇の血を少し引いているというだけの自分のような愚か者を、お上はこれほどまでに気にかけてくださっていたのか」

 と随喜の涙をお流しになって、たとえ民間でどのような困難があろうともこのお上を辱め奉るような真似だけは決してすまいぞ、と天地神明に固くお誓いになったのだった。

 言わば「宗家」の生き残りのために切り捨てられた形になるわけだから、宮様方はきっと憤慨しておられるに違いなかろう――。世間にはそんな下衆の勘繰りをする者も少なからずあったが、彼らの予想に反して、諸王殿下におかせられては、口々にこのようにお応えになったのである。


 平安の世には、四世王の清忠王、三世王の清胤王のように、いまだ皇親の範囲内にましませども、藤原氏の一門などに家人としてお仕えになったり、官人としてご出仕になったりする諸王が少なからずいらっしゃった。だから自分たちのような末端の皇族が汗水垂らして働くというのは、わが国の歴史に照らしても何もおかしいことではない。

 朝家から枝分かれをして、同じように天皇のお血を引くはずの源氏の方々についても、悲惨さは同様でいらっしゃった。かの『源氏物語』の第十九帖「薄雲」の中にも、

「一世の源氏、また納言、大臣になりて後に、さらに親王にもなり、位にも即きたまひつるも、あまたの例ありけり」

 とあるように、一世のお方ならば、栄達をお重ねになった後でさらに皇族にお戻りになった例は大勢あった。「位にも即きたまひつる」一世の源氏の例は、実際には「源定省みなもとのさだみ」のお名を持っていらっしゃった宇多天皇くらいしかおいでにならないが、ご即位までなさったお方も確かにおいでだった。

 しかしながら、たとえ皇胤であろうとも二世以降の方々とならせられると、時の帝からのご血縁がどうしても薄れてしまうせいで、摂関家のご一門や新たな一世の源氏の方々の陰に埋没してしまわれるお方がほとんどでいらっしゃったのである。

 そんな彼らに比べれば、自分たちはいつまでも皇族という身分でいられるだけありがたいと思わなければならない――と。


     三


 何分にも王殿下は山のようにいらっしゃったから、世間の人々はそれほど物珍しさを覚えなかった。それゆえに、宮様方が悪徳企業の広告塔になってしまわれることを宮内庁では特に恐れていたのだけれども、すべては杞憂に終わった。

 珍しくないとは言っても、皇族を同じ職場にお迎えした人々はさすがに、すっかり恐縮しきってこれでもかと丁重に奉ったので、上司と部下という上下関係も初めのうちはただ名ばかりのものであったが、「慇懃無礼いんぎんぶれい」という言葉の通りにお感じになったのであろうか、諸王はみな特別扱いをお嫌いになり、役職相応に接してほしいとありがたくも仰せになったから、みな努めてそのようにして、じきに慣れていった。

 いったいどちらの殿下が仰ったのだろうか、次のお言葉などは、この頃の社会の変化をよく象徴するものとしてマスメディアに持て囃されて、自分の家系図を調べたがる人々を大勢生み出したものである。

「これまで意識していなかっただけで、あなた方の中にも源氏の末裔だという方が何人もおられるはずです。どうか私のことも、そのようなものとして扱ってください」

 新たな生活を送られるようになった諸王の中でも、最も皇位継承順位が高かった明石宮あかしのみや殿下におかせられては、ある時、新聞社のインタビューに応じられて、次のように仰った。

「昭和の戦争の後、当時皇太后でいらっしゃった貞明皇后は、伏見宮のお血筋の方々が皇籍をお離れになるに際せられ、こう仰ったと聞きます。『これでいいのです。明治維新この方、政策的に宮さまは少し良すぎました』と。我々のような諸王はそもそも、近代になってから前例のないほど高い権威を帯びるようになった存在にすぎません。昭和になっても古き良き平安時代の形に戻しきれなかったことを、ようやく戻すことができたというだけの話なのです」


 それからどれほどの歳月が流れたのか、高貴な諸王殿下が俗世でお働きになっていらっしゃる光景がごく当たり前に見られるようになった頃――玉のような親王殿下がまたお一人、都内でお生まれになったが、それを耳にして嫌な顔をする民草はもはや一人としていなかった。


――――――――――――――――――――


【脚注】

[1]長く昭和天皇の侍従を務めた小林忍は、日記にこう書き残している。「諸役は古風ないでたち、両陛下も同様、高御座、御帳台も同様。それに対し、松の間に候する者のうち三権の長のみは燕尾服・勲章という現代の服装。宮殿全体は現代調。全くちぐはぐな舞台装置の中で演ぜられた古風な式典。参列者は日本伝統文化の粋とたたえる人もいたが、新憲法の下、松の間のまゝ全員燕尾服、ローブデコルテで行えばすむこと。数十億円の費用をかけることもなくて終る。新憲法下初めてのことだけに今後の先例になることを恐れる」


【参考文献】

・倉本一宏『公家源氏:王権を支えた名族』(中央公論新社〈中公新書〉、二〇一九年)

・赤坂恒明『「王」と呼ばれた皇族:古代・中世皇統の末流』(吉川弘文館、二〇二〇年)

・倉本一宏『平氏:公家の盛衰、武家の興亡』(中央公論新社〈中公新書〉、二〇二二年)

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