第四話(二)「某若宮御乱行」
【
一
『源氏物語』の皇子「光る君」は架空の人であるけれども、そのモデルの一人ともされる「
愛知県知立市にある
また、愛知県東海市の富田には、かつて領主である藤原道武が建てさせたとされる「あやめ」なる女官の供養塔がある。業平卿が椎の大木に登って、追いかけてくる彼女をやり過ごそうとなさったところ、彼女はその木の下にあった井戸の水面に映った業平卿を見つけて狂喜し、井戸の中に飛び込んで亡くなってしまったと伝えられる。
「女官に惚れられて京都には居られなくなり、遂に逃げ出したが女官も亦後を追つかけた。逃れ逃れて知多郡上野村富田に来た時すでに見付けられようとしたので、とある椎の大木に急ぎ登って身を隠す。女は
さすがに業平卿ほどの逸話をお持ちのお方はなかなかいらっしゃらないけれども、昭和天皇も特に皇太子であらせられた頃には、美男として世の若い娘たちの間でたいそうな人気がおありだった。大正十年十月十二日の『読売新聞』によれば、ある展覧会にその名刺が展示されるや、多くの女学生がそれ見たさに詰め掛けたという。当時の娘たちの中には、摂政宮のご送迎の際に、やたらと赤くなって恥ずかしがる者もいたそうだ。
「どことなく摂政宮殿下の面影があるこの人のお嫁さんになりたい」
そんなようなことを言って、親たちの反対も押し切って学校をやめてしまった娘もいたらしい。この時代には、女学生たちが摂政宮のブロマイドをあたかも映画男優のそれのごとく買い漁り、教育界で問題になるという事態まで起きていた。
このように朝家の方々は、光り輝くかのようなその美貌ゆえに、昔から大勢の女どもを狂わせてこられたものである。
さて、
しかしながら、ただでさえ「
この若き王殿下には、生まれついての見目麗しさもさることながら、この歳の頃の
「ごきげんよう、殿下」
「本日はどのようなお遊びをなさいますの?」
などと言いながらお席を囲み奉るのが常となっていた。華族制度が廃止されてから数百年の時が流れた今もなお、御学校には由緒正しいお家柄の子女がたいそう多くいらっしゃるけれども、そのようなご令嬢たちでさえもが、この輝かしい王殿下の御前にあっては、
「ちょっと貴女方、いったいいつまで殿下のお側にいらっしゃるおつもりなのよ。早く場所を交代なさい!」
と、お顔を真っ赤にしながら大騒ぎをなさるなど、
初等科にはこの頃、皇太子殿下を筆頭に、梅麿王殿下よりも皇位継承順位がはるかにお高い
「御学校が次代の皇后を輩出することはできないだろう。たとえ幼い頃の話だったとしても、皇后が
「それが皇太子殿下と出会う前の出来事ならばともかく、彼女たちはすでに殿下を
などと、宮内庁のお偉方は頭を悩ませなければならなかった。
二
その梅麿王殿下が中等科に進学なさってから
世の中には、わが子が密かに
事の起こりは、初等科の卒業式までわずかに数か月を残すばかりになった頃。御学校は初等科までは男女共学だが、中等科からは「男女七歳にして席を同じゅうせず」ということであろう、男と女で学び舎が分けられる。最高学年の童女たちはみな、その時が近づくにつれて、
「ああ、もし叶うならずっとこのままでいたい。進学すれば慕わしい殿下と離れ離れになってしまうだなんて」
と己の運命を嘆いた。この学年の子はみな、ほんのちょっとでも王殿下のお近くのほうにいたいという浅ましい女心からたびたび押しのけあうような争いもした恋敵同士ではあったが、それゆえに互いの悲しみが痛いほどによくわかったので、全てを水に流して力を合わせることにしたのだという。つまり、彼女たちはある日の放課後、いつものように殿下のお席を囲み奉るや、いったいどこで覚えたのであろうか、
「殿下、今生のお別れをする前に、できることならばほんの一度なりとも『思い出』が欲しゅうございます」
などと言いながら、学び舎の中であるというのに大胆不敵にも一斉に制服のスカートをたくし上げて誘惑し奉ったそうだ。このような時、「
「お礼に私も一つ、得意の
とでも仰った後、鬼の姿に
竹の園生の方々をお預かりする心構えとして、もちろん教師たちは見守りを欠かさなかったのだが、ことこの殿下に限っては、あまりにも大勢の女子に囲まれていらっしゃって、教室の前の廊下を通り抜けることすら一筋縄ではいかないほどなので、真ん中のほうで何をなさっているかを確かめることまでは難しかった。そして誰もが、
「女子と二人きりでいらっしゃるのならともかく、こうも大勢がいては間違いなど起こるはずもないだろう」
と考えて、他の皇族方の見守りに向かうなどしたのだった。また、この頃は
「
などと申し出てきた家庭が相次ぎ、その総数は十三にも及んだが、これはあくまでも申し出てきた数でしかないから、王殿下の御種をその身に宿してしまった娘は、ひょっとするとさらに多かったのかもしれない。生前に
三
「某少年皇族の『後宮』と化した御学校 良家の令嬢が同時に十三人懐妊の衝撃!」
しばらくして、とある週刊誌がそう題する特大スクープ記事を世に出したので、国内のワイドショーは長くその話題ばかりになってしまった。遠く海の外でも面白おかしな話題としてたびたび取り上げられたから、世の人々はこれをひどく恥ずかしく思った。
梅麿王殿下はもちろん未成年でいらっしゃったので、その週刊誌は当初、配慮してお名は記載せずに「中等科にご在籍のとある皇族」としたのだが、これが図らずも事態の悪化を招いてしまった。その当時、中等科には二人の両手両足の指を用いたとて足りないほどの金枝玉葉の御身がお通いになっていたから、
「筆頭宮家である
「思うに、かつて稀代のプレイボーイとして世間を大いに賑わせた
「宮家の話とは限定できない書きぶりだから、皇太子か第二皇子ということもありうるだろう。名前を出さないのは、表には名を出せないほど上のほうの皇族だからかもしれない」
などと、何ら恥じ入るところのおありでない方々までもが、物見高い人々から好奇と疑いの目を向けられてしまわれたのである。
以前から金枝玉葉の御身が婚外子をお儲けになってしまうことはしばしばあったものの、内々での話し合いなどにより、
そもそも、一般国民の間では婚外子差別を解消しようとしながら、朝家の婚外子は逆に皇位継承から排除したところから誤りだったのかもしれない。歴史を紐解けば、第二次世界大戦に敗れてから間もない昭和二十一(一九四六)年十二月十一日、日本自由党所属の衆議院議員・北浦圭太郎が、第九十一回帝国議会においてこう述べている。
「庶子問題について、國民道徳ということを盛んに仰せられますが、從來も決して國民道徳というものを無視したのではない、皇統が、いわゆる明治大帝から以下の皇統でもよろしゆございますし、或は神武天皇を標準とされてもよろしゆうございますが、皇統が成べく血の濃い、そうして親密な方向に向つて血統が續いて行くということを希望するのあまり規定されてあつたのであつて、かつ一體國民道徳とは何か、それほど惡いか、
歴史的に庶子を貴種としてすらほとんど認めてこなかったヨーロッパの
「これからは庶子までもが歳費の支給対象となるのか!」
と腹を立てる人々が多くあった。
歳費の支給対象とならせられるのが梅麿王殿下のお子さま方だけで済めばまだ良かったのだが、婚外子も皇族として認められることになるや、
「今は亡き母が今わの際に言い残したことですが、自分は先代の上総宮さまのご落胤らしいのです。ご調査をお願いします」
などと宮内庁に訴え出る者が相次いで、これも国内外に大きく報じられてしまったから、事態はさらに悪化してしまった。
この「応中の
「
という一節がある。今さら言うまでもないことだが、竹の園生とは皇室や皇族の異称であり、それは
「何をなさらずともいてくださるだけでありがたい」
という思いを抱くような
「皇族に対して国家がその保障をして差し上げる経費がずぼらにどんどんふえてくるということでは、皇室に対する国民の尊敬というものにもひびが入る危険が将来あると私は思う」
昭和四十三年に受田新吉がそう発言をするよりはるか昔――おそらくは明治の大御代に帝室制度調査局が設けられてすぐのことであろう、小松宮彰仁親王におかせられては、次のように上奏なさったという。
「歳月の経過と共に皇胤の支族益々
枝葉があまりにも繁りすぎれば、かえって根や幹まで枯らしてしまいかねない――。小松宮彰仁親王はそう仰って、傍系皇族を臣籍に降らせることができるようにすべきだ、と明治の古にお唱えになったわけであるが、後世の目から見るに、この宮はまことに
京都は嵐山の「
そもそも
――――――――――――――――――――
【脚注】
[1]ベルギー王アルベール二世の庶子であるデルフィーヌ・ボエルは、王の子と認定されるや「ベルギー王女」の称号と「殿下」の敬称を得たが、王位継承権は持たない。余談ながら、旧皇室典範では、女性皇族は降嫁とともに皇族の身分を喪失したが、特旨があれば「内親王」や「女王」の称号だけは保持することができた。
【参考文献】
・右田裕規「戦前期「女性」の皇室観」(日本社会学会『社会学評論』第五五巻第二号、二〇〇四年)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます