第三話「竹の園生の御栄え」
【竹の
『
永寧朝の
また、平安朝の古とは異なって
「もしも今上陛下のお目に留まったのが私だったなら、私は皇太孫妃になることを決心できたであろうか――。笑顔の皇后さまがテレビにお映りになるたびに、そう考えずにはいられないし、そんな想像をするたびに、
それにつけても皇后陛下に対せられる永寧の帝のご寵愛ぶりと申したら、まさに山よりもお高く、海よりもお深いものでいらっしゃった。遠く異朝を
「もしや王女殿下にはご体調がお宜しくないのでございますか」
などと、かえって心配し始めるようになった[2]そうだが、永寧の帝のご寵愛ぶりは、そんなウィレム三世の逸話でさえもまったく霞んでしまうほどでいらっしゃった。
帝の父君にあたらせられる後陽光太上天皇には、ご生前、最愛の妃殿下の御ことを『竹取物語』のかぐや姫なのではないかと月見の和歌の中でお疑いになったことがおありだが、永寧の帝におかせられては、お写真の中の母君をご覧になっても、
「確かにたいそうお美しいお方ではあるけれども、
と心からお思いになった。そんな帝には、皇后がいずれはかぐや姫のように月かどこかに帰ってしまうのではないか、というご心配がおありだったに違いない。お若くして
「いかなる時にも長秋宮の姿が
と
「皇室典範によると、万が一にも朕が
などとお言い訳のように仰っては、宮殿の
皇后陛下には、とりわけお若い頃にはほとんど毎年のように一年の大半を
「皇室の安泰のためにといって、無理をしてまで大勢産もうとしなくてもいいのだよ」
と仰せになったこともおありだった。しかし、皇后陛下にはその
「できるだけ多く産みたいと私めが申し上げましたのは、恥ずかしながら皇室の御為にと申しますよりは、愛する人の子を一人でも多く産み育てたいという、浅ましい女心からのものでございます」
とお返事をなさったので、帝におかせられては、伊邪那美のように皇后が出産により落命してしまう時がいずれ来てしまうのではないかという恐れをお抱きになりながらも、子沢山でありたいというのが皇后の心からの望みであるならばそれに沿いたい、とお考えになったのだった。
子は天からの授かりものにほかならず、どんなに高いご身分の人であろうとも、どれだけの人数が欲しいと願ったところで望みのままに叶うものではないから、結果として両陛下の間に二十三方もの御子がお生まれになったのは、やはり前世での
伝説によれば、古代アッシリアの都市カネシュの女王は合計で六十人もの子を産んだという。最初の三十人の王子は、産んだものの育てきれずに全員をまとめて川に流すことにしたそうだが、畏くも永寧の皇后陛下におかせられては、お産みになった大勢の殿下方をお手許にて見事にお育てになって、世の人々をして驚嘆せしめられた。
それまで日本の国は、財力に余裕がある者どもでさえもあまり子を持とうとしないがゆえの少子化に長らく悩ませられていたが、両陛下が煩わしそうなほどに大勢の御子をお持ちになりながらもたいそうお幸せそうなのを拝見した民草は、羨ましく思って皇室に倣おうとした。神話によると、黄泉の国から葦原の中つ国へと逃げ戻り給うた伊邪那岐命に対せられ、置き去りにされ給うた伊邪那美命には、
「愛しい人よ、こんなひどいことをするのならば、私は貴方の国から一日に千人の命を奪いましょう」
と仰せになったが、伊邪那岐命にはこれに対せられ、
「愛しい人よ、それならば私は産屋を建てさせて、一日に千五百人の赤子を産ませよう」
とお応えになったという。そんな神話があるにもかかわらず、民草の数はしだいに減る一方であったのだが、永寧帝の
さて、両陛下の間にお生まれになった殿下方におかせられては、どなた様も皇后陛下のお血を色濃くお受け継ぎになってご容姿がたいへんに優れていらっしゃったので、ほんの一目なりともそのお姿を拝した世の同年代の男女は、あらゆることが手につかなくなってしまったとみえるほど、みな夢中になってしまった。両陛下が十六方もの親王殿下をお儲けになったおかげで、女人にとっては
皇女殿下のお相手の中には、ご
「またしても完全なる平民階級からの立后か。御皇室とその
とご不満を公然と述べていらっしゃった過去がおありだったが、そんな在りし日のお姿はどこへやら、
「お
などと、よちよち歩きの曾孫様をお連れ回しになりながらあちらこちらでご自慢なさったから、人はああも変わるものなのかと旧華族の親睦団体「
大家族に生まれ育った子が、
「むらさきの雲よりふりし雨ゆゑに 池はかへりて
平安の古、人皇第七十二代・白河天皇におかせられては、中宮の藤原賢子をすこぶるご寵愛になったそうだ。『
「例は此よりこそ始まらめ」
と勅答なさったということである。長い歴史を紐解いてみると、朝家にはこのようにたいそう仲睦まじいご夫妻が大勢おいでになったものだが、それでも、永寧の両陛下ほどのご夫妻はやはりいらっしゃらなかったに違いない。
東宮殿下に御位をお譲りになってから久しい
「春の陽気に誘われて、眠たくなってしまったよ。少し横になろうかな」
「それでは陛下、私もお供いたします」
と、毎夜ご寝室でなさっているようにお手を繋ぎ合わせられながらお昼寝をなさり、そのままお二人とも二度とお目覚めにならなかった。その長いご生涯の中で両陛下はたったの一度も夫婦喧嘩をなさらなかったそうだから、それだけでも仲睦まじさがよくわかるというものだが、最もよく仲睦まじさが現れているのはお二人の
史書によると、歴代天皇の中でも
崩御から程なくして『永寧天皇実録』の編纂事業が始められたが、これに携わった学者どもはみな、発見されたばかりの故松平頼彦元侍従長の個人的な日記を机の上に開きながら、
「百十一歳まで長生きなさっただとか、同日にお生まれになった
などと、とてもそのまま事実だとは考えがたい先后・神明皇后についての記述に頭を悩ませることしきりであった。
神明皇后の本当のご出自は、とうとう何も明らかにならなかった。皇后が本当に人かを疑う者すらあったが、そもそも初代人皇・神武天皇の御祖母君にあたらせられる
「皇族に対して国家がその保障をして差し上げる経費がずぼらにどんどんふえてくるということでは、皇室に対する国民の尊敬というものにもひびが入る危険が将来あると私は思う」
と言った受田新吉と同じような不安を抱き始めた者も現れるようになったものの、寛恭、宣文と二度の御代替わりを経てもなお民草のほとんどは気にしなかったのだが、それも
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【脚註】
[1]余談ながら、旧オーストリア皇室であるハプスブルク=ロートリンゲン家は、男系継承と一夫一妻制を守りながら数百人規模になっており、頻繁に誕生や薨去があるため、当主ですら一門の正確な人数を把握できないという。同家ほどではないがリヒテンシュタイン家なども同様の継承制度のもとで相当に繁栄している。
[2]博文館『世界之帝王』より。
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