9
頬を繰り返し突かれているような感触。ゆっくりと目を開けると、上方を影がふわりと横切っていくところだった。幽霊、という語が脳裡に生じる。私はすでに死んでいて、魂だけがあちら側の世界へと運ばれたのではないかと思った。
「う」
何者かによる小突き方が熱烈、というより執拗かつ地味な痛みを伴うものになってきて、私は掌で頬を押さえた。体を起こす。薄ぼんやりとした暗がりの中に、黒い出目金の姿が浮かんでいた。
「クロ」と私は名を呼んだ。尾鰭を振りながら泳ぎ寄ってくる。〈宵金魚〉の一員、私の隊所属のクロだ。
「私を追ってきてくれたの? 他のみんなは?」
ふるふると身を震わせている。どうやら彼だけが最後まで私を放さず、ここまで一緒に引きずり込まれてしまったようだ。
「ごめんね」とその頭を撫でる。「とにかく、ここを出ないと。小紅たちと合流しなきゃ」
そうは言ったものの、脱出の糸口はまるで掴めなかった。近くを漂っているクロの姿こそかろうじて視認できるが、自分がいまいる部屋の様子さえ明らかではない。
「ここの作りがさっきまでの部屋と同じかどうか、確かめて。あとなにか変わったものがあれば、私に教えて」
指示を受け、クロが滑らかに泳ぎ出す。迷っている感じはなかった。彼は目が利くのだ。丁寧に一回りして、私のもとへ戻ってくる。
「同じなんだね。四畳半の和室で、襖で仕切られてる」そう確認したとき、クロの口許に白く薄っぺらな異物があることに気付いた。紙切れを咥えている。
〈ザシキボッコが鬼を遣わす〉
筆で書きつけられたその文字列に、私は怖気だった。ザシキボッコ。〈私〉の姿を偽った鏡の影――ここに私たちを連れ込んだ、あの化け物の名なのだろうか。そして、鬼――。
紙を畳み、ポケットに収めた。手紙の送り主は何者だろうか。文面からして、私たちに協力的な誰かかもしれない。あるいはこの恐るべき遊びに私たちを招き入れた張本人か。
息を詰めて耳を澄ませた。私の意図を察してだろう、クロも凍りついたように空中で静止する。
しばらく待ったが、なにも聞こえてはこなかった。この広さ、この壁の厚さならば、ひとつふたつ先の部屋の様子でも、ある程度は把握できる。なにかが息を殺して待っていたのだとしても――完全に音を消し去るのは不可能だ。
幸運だったかもしれない、と自分に言い聞かせた。ゲームがかくれんぼ、鬼ごっこの類であるならば、聴覚と脚力が強化される〈兎面〉の効力は絶大である。耳で安全を確かめながら進み、いざ鬼に出くわしたら全力で逃げ出せばいい。
クロがゆっくりと泳ぎ寄ってきた。そう、視覚に優れる彼もいるのだ。大丈夫。私たちならばきっと上手くいく。
行こう、と唇だけ動かしてクロに伝えた。じりじりと這うように次なる襖に近づく。もう一度だけ耳を欹ててから、慎重に手をかけてそれを引き開けた。
***
リュックサックの小ポケットに眠っていた粗品のボールペンを使い、例の手紙の裏側に道順を記録した。通ってきた四畳半を示す、正方形の連なり。
ペンが見つかったのはまったくの偶然だった。蓮花さんのもとに滞在しているあいだは夏休みを満喫すると決めてあり、あえて勉強道具をなにも持ってこなかったのである。怠け心が災いしたというべきか、雑にペンを放り込んで忘れていたいい加減さに救われたというべきか。
安全確認を最優先としていたから、一部屋を移動するにも時間をかけた。ほんの僅かでも気になる点があればあらゆる動作を止め、ただじっと息を潜めた。神経は消耗し、この世界に引き込まれてからどれだけ経つのか分からなくなった。
ほんの幽かな気配を、不意に耳が捉えた。背筋から頭蓋の内側へと、冷気が這い上がってくる。体が金縛りにあったように硬直し、呼吸さえ覚束なくなった。
聴覚にすべての意識を集中させた。いる。おそらくは二枚ほど壁を隔てた部屋だ。〈兎面〉の能力を有してさえぎりぎりなのだから、少なくとも音でこちらの居場所を掴まれていることはない――そう見做して構わないだろう。
すぐさま反対方向へ逃げるべきだろうか。ともかく距離さえ稼げれば、一時的であれ安寧は得られる。そのまま出口を見つけられるかもしれない。ひたすら相手から逃げ回りつつ機会を待つというのは、ひとつの戦術に違いない。
しかし――自分にそれを完遂できる自信はまるでなかった。精根尽き果て、身動きが取れなくなったところを襲われたなら、ひとたまりもあるまい。
浅く息を吸う。相手に動きはない。クロはいっさい物音を立てぬまま、周囲を警戒している。
情報が必要だった。舞台について、ルールについて、鬼について。
(クロ)
すぐに近づいてきた彼に向かい、私は精一杯の勇気を奮い起こして、
(あなたにお願いしたいの。相手の様子を――探ってきて。位置を突き止めたい。でも絶対に無理はしないで。いざというときは隠れて、自分の身を守ってね)
クロは腹部と鰭を膨らませて応じると、くるりと向きを変えた。襖に鼻先で触れたかと思うと、一瞬のうちに隙間を作って身を滑り込ませ、そのまま隣の部屋へと移ってしまった。
あまりにも巧みな早業だった。注視していなければ、即座に消えたようにしか思えなかったろう。
(さてと――)立ったまま胸元に手を当て、落ち着きが戻ってくるのを待つ。
与えられた手掛かりと呼べるものは、クロの見つけた手紙だけである。私は細心の注意を払ってそれを引き出し、顔を近づけて眺めた。文面を繰り返し読み、向きを変え、指先で撫でまわし……そしてはっとした。
〈ザシキボッコが鬼を遣わす〉という一行の下の空白に、僅かな凹凸があるのだ。尖ったもので跡を付けたかのようなこれは……文字?
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