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「上? 上にあるの?」小紅が首を逸らせて天井を見上げる。「どのあたり?」
「更紗、小紅」
栄さんが私たちを片手で手招き、もう片方の手を伸ばして上方を指差した。慌ててその傍らへと駆け寄り、懸命に目を凝らす。
「ずいぶん上のほうだが、穴が開いてる。あそこから進めそうだ」
「進むって、どうやって登るんですか」
「あたしがひとりずつ投げ上げてやる。手前で壁を蹴って、穴の淵を掴んで、攀じ登るんだ」
「そんなの――できると思えないです」
怖気づいた私に、栄さんは笑いかけ、
「大丈夫、壁抜けより簡単だ。普通の人間にはちょっと難しいかもしれないが、あんたには〈兎面〉がある。あたしには分かる。そいつは優秀だ。体が勝手に反応するよ」
そのとおりかもしれなかった。〈兎面〉には聴覚だけでなく、走ったり飛んだりといった身体能力を向上させる機能も備わっている。しばらく使っていなかったので忘れかけていた。
「更紗、栄を信じてやってみよう」と小紅が私に顔を近づけて言う。「上手く行くよ。このくらいの高さだったら、栄なら陶器の器だって割らないで投げ込める」
「割らない? 傷ひとつ付けないよ。ただ力を抜いて、あたしに身を任せてればいい。あとは〈兎面〉がどうにかしてくれる」
「私が先にやってみるよ。栄、投げて」小紅が立ち上がって、確たる口調で申し出る。それから私を振り返り、「穴抜けは更紗が先だったから、今度は私の番。平気だよ。自信あるもん」
よし、と栄さんが頷き、首や肩を回して準備運動を始めた。ややあって小紅をひょいと抱え上げ、
「いいか? 行くよ。三、二、一――」
合図とともに、小紅の小さな体がふわりと舞った。本当に宙を渡っているとしか見えない優美な軌道を描いたのち、完璧なタイミングで壁をそっと蹴る。その勢いで軽やかに跳ね上がったかと思うと、彼女はあっという間に身を引き上げていた。曲芸のようだった。
「できた」と小紅が笑顔を作って私を見下ろした。「次は更紗。大丈夫、ちょっとくらいずれたって私が受け止める。だから安心して飛んで」
私は息を吸い上げ、腹を決めた。「分かった。栄さん、お願いします」
小紅とまったく同じ軌道で、私もまた空中を飛んだ。神経が研ぎ澄まされていたのだろう、その時間が自分でも驚くほどゆったりとして感じられた。壁が迫る。ひとりでに全身が反応する。衝撃が足裏を伝うとともに、両腕を広げて待ち構えている小紅の姿が視界に飛び込んでくる――。
「あう」
気が付くと、私たちは狭苦しい穴の内部で折り重なっていた。慌てて体を引き離し、「ごめん小紅、大丈夫?」
「うん。ちょっと姿勢が崩れただけだから」
両名とも無傷のようである。柔らかく着地できたのは、やはり栄さんの投げ方が絶妙だったおかげだろう。
「ふたりとも、無事か」
私は頭を突き出し、「はい。これから小紅と一緒に、音を追いかけます」
栄さんは満足そうに頷いた。ゆっくりとその顔が上がる。頭抜けた長身のはずの彼女が、ここからではずいぶんと遠くに見えた。
「栄さんは――」
「なにも取っ掛かりがないんじゃ、さすがに登れないよ。いったん、ここでお別れだ」
彼女はくしゃりとした笑みを覗かせたのち、
「今のうちに言っておく。あんたたちふたりなら、これから先、なにが起きても乗り越えられる。あたしが保証しよう。ただ、進むべきほうへ進めばいい」
一瞬、どう返答すべきか言葉が見つからなかった。ただ鼻や咽の奥に、熱い感触が込み上げてくるのを感じたのみだった。栄さんが、私たちを――。
「栄」小紅が身を乗り出しながら声を張った。「ありがと」
「いいって。更紗、音はまだ聞こえてる?」
私は慌てて耳を動かしながら、「はい。聞こえてます」
「じゃあ、もう行きな。なにも心配しないで。お互いのことを信じるんだよ、なにが起きても」
私たちは向きを変えた。小さな横穴というべきか、あるいは隠し通路と呼ぶべきか、ともかく人ひとりが腰を屈めれば通れる程度の道を、ひたすらに辿っていく。
通路は徐々に広まり、かつ傾斜が付きはじめた。初めは微かにそうと感じた程度だったが、足場はみるみる急になり、やがては壁を攀じ登っているかのような有様になった。
手掛かり、足掛かりとすべき場所は、先を行く小紅が示してくれる。位置も強度も適当な凹凸がそうあるものではないから、するする登っているように見えて入念に検分しているのだろう。
「扉がある」と小紅が不意に叫んだ。「上に抜けられそう」
彼女の体が停止する。ややあって、低い異音とともに光が射し入ってきた。
「もうちょっと。更紗、落ちないで」
一足先に天辺に到着した小紅がうつ伏せになり、手を伸べてきた。強く掴む。下腹部に力を込めて身を引き上げた。平らな場所に出たことを確かめ、深く息を吐く。
「ここは――?」
「どこだろう。建物のなかみたいだけど」
そう発する小紅の声が聞き取りにくいのは、機械音があちこちから響いているせいである。柱があちこちに聳え、重々しい機器が無数に押し込められた空間に、私たちはいた。
壁や天井に嵌め込まれた柵越しに、巨大な歯車や軸の一部が覗いている。いずれも忙しげに稼働しているが、管理者の姿はどこにも見られない。
私は耳を欹て、轟音のうちから目的の音だけを探した。小紅がこちらを見やりながら、
「まだ上?」
頷いた。ぐるりと一回りするうちに階段の入口を見出したが、緩やかに湾曲しているせいで上の様子は臨めない。側方に回り込んだら回り込んだで、柱や壁に視界を遮られてしまう。
「でも、ここしかなさそうだね」と小紅が私の手を掴む。「行こう」
螺旋階段を上っていく。規則的な重低音と、それに紛れて消えかけている幽かな秒針の響き。どこかで覚えのある感覚のような気がしはじめた。そしてこの光景――。
「時計塔だ」
「え? なに?」
「ここは時計塔のなかだよ、小紅。私たち、〈金魚辻〉に戻ってきたんだ」
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