43
私は身を屈め、慎重に頭を差し込んだ。幸いして表層は滑らかで、肌を傷つける心配はなさそうだった。這って上半身を穴に収め、もぞもぞと動きながら体勢を微調整する。
体が入り切った。掌で触れたり、叩いたりしながら進路を確かめる。頭を上下させ、腰を捻り、狭苦しい空間をじりじりと進んでいく。
「更紗」
と不意に後方から呼びかけられた。やっとのことで首を捩ると、四つん這いになった小紅の姿が目に入った。すぐ近くにまで迫ってきている。
「まだ合図してないよ」
「分かってるけど、遅いから心配だったんだもん」
「そんなに時間かかってた?」
「わりと。どこかで引っ掛かってた?」
閊えたという認識はなかったのだが、実際はもたついてしまっていたらしい。口ぶりからして小紅はここまで余裕綽々だったと思しく、少し申し訳なくなった。
ともかくも前進を再開した。小紅はぴったりと私の後ろをついてきた。そうこうするうちに視界が明るんでくる。自身を鼓舞しながらひたすら這いつづけた。頭が――ついに抜け出した。
両手を突き出し、穴の淵を掴んだ。力を込めながら、体を波打たせる。ようやく全身が自由になった。
直後、小紅が這い出してきた。乱れた着衣を整え終えると、「栄、こっち来て」
よし、と返答があったかと思うや、瞬く間に栄さんの頭部が横穴から覗いた。流れるような動作で体を引き抜くと、私たちの傍らに立つ。その凄まじい早業に驚き、私は声もあげられなかった。
「で――」栄さんが腕や肩の関節を鳴らしながら発する。「次はなんの部屋なんだ?」
「栄ってさあ――実は妖怪?」と小紅。
「失礼だな、ただ鍛えてるだけだよ。多少なり訓練すれば、あんたたちにもできる」
私たちが辿り着いたのは、ただぽかんと広まった空間である。向こう側の壁にふたつ、ほぼ同じ大きさの洞穴が口を開けている。ほかにはなにも見当たらない。
「どちらかひとつを選ぶか、手分けするかだな。どうする? あたしは独りで行ってもいいよ」
「みんな一緒に行動するべきだと思います」と私はすぐさま提案した。「栄さん自身は独りで大丈夫かもしれませんが、いてくれないと私たちが不安です」
「私も栄がいたほうがいいな。行き止まりにぶつかったら、諦めて引き返す」
栄さんはあっさり承知して、「あんたたちがそう思うなら、あたしは従うよ。で、どっちを選ぶんだ?」
慎重にふたつの穴を見比べた。これといった差異は発見できない。たた二分の一を選び出す運試しなのか。それとも過程が違うだけで、最終的には同じ場所に行き着くのか。あるいは――。
「栄ならどっち?」
「あたしは本当に運がなくてさ。ふたつにひとつで当てたためしがないんだよ」
私ははたとして振り返り、唇の前で人差指を立てた。「なにか――聞こえる」
途端に栄さんと小紅が押し黙った。私は少しずつ位置を変えながら、懸命に向こう側の音を感じとらんとした。ザシキボッコと戦ったときのことを思い返しながら、聴覚にすべてを集中させる。
「たぶん――左」
「よし。更紗は引き続き音を追って。あたしと小紅が周囲を警戒する」
私たちは滑るように前進した。再び似たような作りの部屋に出る。同じことを繰り返して、次なる道を選んだ。音は幽かだが持続している。分かれ道、また分かれ道――。
「少しずつ、音が大きくなってる」
「時計の音?」
「だと思う。方角は間違ってないはず」
高鳴る心音と、響いてくる音とが呼応しはじめた。かち、かち、と規則的に刻まれるリズムは確かに、時計の秒針の発するものに違いなかった。ずっと追い求めてきた失くし物に、私たちは遂にして迫りつつあるのだ。
空間が領域を広げた。ブロック状に切り出した石を敷き詰めて作ったらしい壁面と、暗い天井。そして前方――私たちの立ち位置よりも一段高まった場所に、重厚な木製の箱が安置してあるのを、私たちは見出した。
更紗、と小紅に背を押された。私はふわふわと箱に歩み寄りかけたが、振り返って、
「小紅と一緒に開けたい。ふたりで獲ったんだもん」
彼女は目をぱちくりと瞬かせた。それから私の傍らに駆けてきて、「うん。一緒に開けよう」
箱の縁に、ふたりで手をかけた。短く視線を交わす。「せーの」
蓋は、想像よりも遥かに軽々と開いた。頭を突っ込むようにして、なかを覗き込む。端から端までを眺め渡し、私たちは同時に、「――空っぽ」
「はあ?」さすがの栄さんも素っ頓狂な声をあげ、こちらに近づいてきた。丹念に箱を検めたのちに吐息を洩らして、「空だ」
「更紗――」
小紅が肩を抱きながら寄り添ってくれたが、私にはもう感情を抑える余裕がなかった。箱の隣に座り込んだまま、膝に顔を埋めて嗚咽する。
今度こそは、と確信に近いまでの期待を抱いていた。やっとの思いでここまで辿り着いた。ここまで積み重ねてきたいっさいを踏みつけにされたような気分だった。空箱? こんなことがあっていいはずがない――。
「こっちは外れだったんだよ。引き返して、もうひとつの道を確かめればいいだけでしょ。ね?」
そうには違いなかったが、私は腰を上げられなかった。また裏切られるのではないか、なにもかも無駄なのではないか、といった感情が胸中を渦巻くばかりだったのだ。
「いや、そうとも限らないかもしれない」栄さんがしゃがみ込んで、私の顔の前になにかを翳した。「そこに落ちてた。どう思う?」
錠前だった。私は眦を拭い、それを受け取った。「宝箱に付いていたもの――ですよね」
「だろうね。そしてこいつは、〈隧道祭〉の優勝者であるあんたたちが来る前に外されていたってことになる。どういうことだ?」
顔を近づけ、鍵穴を観察した。見覚えのある形状だ。「入口の鍵と一緒だ」
「金の紐?」と小紅。
「うん。本来なら一本はこのために残しておかなきゃいけなかったんだ。でも――」
「誰かに先を越された可能性が高い」と栄さんが後を引き継ぐ。「でも誰がどうやったんだ? 更紗より先に、全部の仕掛けを見切った奴がいるのか?」
「いえ――たぶん違います」私は片目を瞑った状態で、穴を覗き込んで言った。「あの細長い紐を使って鍵を開けたのなら、なかに多少なり跡が残っていると思うんです。でも見たところ、それはない。綺麗なままです。その代わり、こっちに」
「外側か」私の差し出した錠前を手に取って、栄さんが発した。「確かに、小突き回したような凹みがあるな」
「ええ。外から小刻みな、そして非常に精密な振動を何度も加えることで、鍵を開けたんじゃないでしょうか。たぶんですが、〈朱鼠〉の仕業じゃない」
「そういうことなら確かに、できそうな奴には思い至らないな。じゃあ今、時計はどこに?」
私は視線をあげた。天井のどこかから、幽かな音が降ってきたような気がしたのである。萎れていた兎の耳が、途端にぴんと屹立する。
「また音がしてる。さっきと同じ音だ」
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