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 慎重に影へと近づいた。距離が詰まるにつれ、少しずつ輪郭が鮮明になる。全体の形状は屋形船に似ているが、急激に持ち上がった船首ははっきりと蛇の頭部を象っている。ちょうどヴァイキング船のような感じだ。巴さんの船というのはこれだろう。

 その真横に至った。タラップ代わりであろう板きれが渡してあり、乗り移ること自体は容易そうに見えた。しかし船頭らしき人物の姿はどこにもない。

「こうやって用意してあるんだから、あいつに騙されたってことはないよね」

「たぶん。とりあえず、少し待ってみようか。誰か来るかもしれないし」

 並んで座り込んだ。目の前の水は鏡面のように凪いでおり、ほとんど音を発しない。〈兎面〉の力で感じ取れるのは、岩壁を伝う幽かな滴りや、どこか遠くを流れ落ちているのであろう滝の響きばかりだ。

「林檎のお菓子、まだある?」

「あるよ。食べる?」

 ぼんやりと〈薄林檎チップス〉を摘まんでいると、うっかり手を滑らせた。食べかけが水に落下する。あ、と思わず声をあげたが、むろん拾うことはできない。

 諦めて次の一袋に手を伸べた瞬間、水面が泡立ち、盛り上がった。反射的に仰け反る。水中に隠れていた岩が、なんらかの拍子で先端を覗かせたのかと思った。

「おや、失礼しました。もうお越しになっていたんですね」不思議なほど流暢に、その物体が声を発した。「水底でつい居眠りをしていました」

 ざばりと水面から体を引き抜いて、私たちのすぐ隣に攀じ登ってきた。相手は全身から水を滴らせたまま、

「九曜と申します。あなたたちを〈祭火隧道〉までお送りするよう、指示を受けています。船にお乗りください」

「あ――はい。わざわざありがとうございます」

 私はぽかんとしながら、そう応じた。体つきこそ人間の青年なのだが、手足から顔に至るまで、細かい鱗で覆われている。頭髪のように思えたものは、よく観察すれば平たい突起である。その独特な形状に見覚えがあった。

「あなたは、巴さんの――?」

「三十三番目の息子です。僕は一族のうちでも特に、水を好む質なんです。そういった次第で、父の船は基本的に僕が預かり、動かしています。少し長い船旅になりますので、船内ではどうか、ごゆるりとお過ごしください。先ほど僕にくださった、美味しいお菓子を召し上がるのも自由です。さあ、どうぞ」

 言い終えるなり、九曜と名乗った青年は再び水へと飛び込んでいった。あっという間にその影が沈み、視界から失せる。動かす、というのは漕いだり操舵したりといった意味ではないらしい。

 船に乗り込んだ。屋根の下は、畳敷きの部屋になっている。屋形船といってイメージするような宴会場めいた雰囲気でこそないものの、座布団や小さな机もきちんと用意されており、居心地は悪くなさそうである。

「ふたりとも乗りました」ととりあえず声に出してみた。「よろしくお願いします」

 小さな振動を合図に、船が進みはじめた。窓から覗くと、水面が渦を巻いたり、白く水飛沫が上がったりしているのが視認できる。九曜さんが押すなり引くなりして動かしているのだろうと想像はできたが、その姿はどこにも見当たらなかった。

 私が外を眺めているあいだに、小紅は部屋の隅に畳んであった布団を広げて寝床を拵えていた。満足げにその上に陣取り、私を手招く。よほど布団が好きなのだろうか。

「少し休めば」私が腰を下ろすなり、彼女はそう提案してきた。「私は巴の座敷で少し寝たけど、更紗は眠ってないでしょ? 時間もかかるって話だし、寝られるうちに寝ておいたほうがいいと思う」

 私のために敷いてくれたものらしい。いったんはかぶりを振りかけたが、彼女の弁ももっともだという気がしはじめた。この世界に迷い込んでからというもの、ゆっくりと眠った記憶がない。ザシキボッコと対戦している最中は気を失っていたが、あれを休養と見做すのは無理があるだろう。

「確かに、ちょっと疲れたかも」

 言葉にすると、途端に疲労が押し寄せてくるのを感じた。ずっと神経を張り詰めさせて意識の外に追いやっていただけで、体は消耗しているのだ。

 ごめん、と小紅に告げ、少し横になることにした。布団が程よい弾力で私を包む。深々と吐息が洩れた。

「到着するまで、小紅は起きてるの?」

「私も適当に休むかもしれない。着いたら船頭が起こしてくれるかな」

「布団、もう一組あったっけ?」

「ない。だから畳で」

「風邪ひいちゃうよ」

「人間とは体の作りが違うから、ひかないよ。それとも――一緒に寝ていい?」

 私は布団の端を掴み、そっと持ち上げた。「厭じゃなかったら、半分」

 沈黙があった。一緒に云々というのはやはり冗談だったのだと思った――思い込みかけた。

 次の瞬間、毛布が捲り上げられた。小紅が遠慮がちに布団へと入り込んでくる。微睡みつつあった私はたいへんに驚き、危うく声をあげかけた。

 ともかくも少しずつ動いて端に寄り、彼女のための場所を作った。とはいえそう大きな布団ではないから、半ば必然的に互いの体が接触する。自分で言いだしたくせに緊張しはじめた。馬鹿みたいだ。

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