11
壁に凭れかかった状態で座り、私は長いこと紙を睨みつけていた。相変わらず鬼が近づいてくる気配はなく、部屋から動きさえしなければ自分の手番が続くという自説は確信に変わりつつあった。ならばなんらかの方針が定まるまでは、じっとしているのが得策だろう。
(これ、どういう意味かな)傍らで辛抱強く浮かんでいるクロに向かい、語り掛ける。(私は鬼じゃないよね、追われてるんだから)
むろん、彼から返答を期待しているわけではない。明確な指示にならば従ってくれるから言葉を解しているには違いないにしろ、この種の問答には対応できないのだと分かっていた。自分の思考を整理する目的で、言葉を発しつづけていたにすぎない。
(帰りえぬ場所っていうのは――もとの世界のことだよね。帰りたいよ。だから? こっちはなんのヒントでもないのかな)
二枚の紙を並べ、腕組みする。(ザシキボッコ――たぶんこのゲームの主催者だよね――それがここに送り込んだのが鬼で、鬼は私でもある。そのうえ駒でもある)
一枚目の裏に描いた三十六升の正方形を再び眺めた。ペンの先をあてどなく彷徨わせながら、
(駒だとしたら、動き方に決まりがあるはずだよね。自分の番なら何升でも、どこへでも好きに動けるんじゃ、ゲームとして成り立たない。でも私は初めのうち、自分が駒だっていうルールを知らなかった。どっちにしろ、ゆっくり一升ずつしか進んでなかったけど――)
経由してきた升には印が付けてあった。見る限り、どの方向へでも進めたようである。選んだ襖が開かずに別のものを選びなおしたという記憶もない。
まだ手掛かりが必要だ。動きに関するヒントは、実際に動いて得るしかない。同じ場所に居座りつづけることを、主催者側が想定しているわけもない。
息を吐きだした。腹部に力を込め、宣言する。
(今から部屋を移動する。クロも最大の警戒をして、私についてきて。今度こそ絶対、逸れないようにしよう。私の傍を離れないで)クロの頭を撫でてから、ゆっくりと襖へ向かう。(兎耳の力を使えば、二部屋先の音なら捕捉できる。なるべくいろんな動き方を試して、鬼の反応を確かめる。隣に来られたら拙いから、そうなる前に逃げる)
一緒に逃げる、と繰り返し、クロを振り返る。彼が鰭を広げて応じるのを確かめてから、私は襖を引き開けた。
これでゲームが再び動きはじめた。耳の根元から先端まで、ちりちりと電流が走るかのようだった。
***
位置を定めるところから始めた。壁沿いに進みつづけ、角の部屋を目指す。三升移動したところで行き当たった。いったん立ち止まり、紙を取り出す。正方形の図の外側にはあらかじめ、縦横に数字とアルファベットを振ってあった。
(クロも私がやることを見て、覚えておいてね。この部屋がスタート地点)
襖にボールペンで大きく「1A」と書いた。落書きをするようで気が咎めたが、今度ばかりはやむを得ない。
各部屋で同じことをしながら、時計回りで四辺をぐるりと巡った。仮説どおり、縦も横も六升。初期位置たる「1A」に戻ってくるまで、鬼の気配を察知することはなかった。
続いて「2A」に移り、九十度向きを変えた。「2」の行をまっすぐ、突き当りの「F」まで進む。「2F」に辿り着くと、今度は「3F」へ移動した。蛇行するような、刷毛で色を塗るような、ともかくそんな経路を辿ろうとしたわけである。
耳が異変を感じとったのは、「3E」の部屋で文字を襖に記しているときだった。即座に手を止め、聴覚にすべての意識を向ける。
微細な気配だった。まだ距離がある。二部屋以上隔たっているのは明白だった。
それ以上の動きはなかった。相手の番が終了したのだと見做した。
私の手番での行動を決めねばならなかった。浮かんだ選択肢は、予定どおり「3D」へ進むか、それとも「3F」へと引き返すか、のふたつだった。
危険を承知で前進するなら、最初に決めた順路を守るべきだという気がした。目的はあくまで、相手の動きに関するルールを看過することなのだ。私自身のアクションが出鱈目では、法則を探る糸口が掴みにくくなってしまう。
そこまで複雑なルールではないのではないか――と私は推測していた。正確に知っているわけではないが、将棋にせよチェスにせよ、盤面は確か、ここよりも広かった。フィールドが狭いならば狭いなりの、シンプルな動きが割り当てられているのが自然だと考えたのだ。
熟慮の末、いったん安全策を取ることにした。「3F」へと後退し、息を潜めて待機する。
しばらく経っても音は近づいてこなかった。同じ場所に留まっているでもない。むしろ――遠ざかっている。
鬼の発する僅かな音を拾いつづけた結果として、私の聴力は格段に向上していた。〈兎面〉に適合し、より力を使いこなせるようになってきた、と言ってもいい。正確な位置までは特定できなかったが、今回の手番、鬼は私から離れる動きを見せた。これはひとつの収穫だった。
もう一度「3E」へ進んだらどうなるかと考えた。さらに離れていくのか。もしくはまた接近してくるか。
試してみることにした。意識を研ぎ澄ませつつ、襖を開いて足を進める。
(やっぱり来た)
恐怖はむろんのことあったが、同時に、思惑どおりに事が運んだという昂奮が生じてもいた。位置はおそらく――先ほどと変わらない。ただ同じ手を、互いに繰り返したことになる。
ならばもう一部屋、前進してみようと思った。息を吸い上げ、音もなく戸を引き開ける。
それが起きたのは、「3D」と記した直後のことだった。
なんの前触れもなく、これまでの比ではない濃密な気配が耳に雪崩れ込んできたのだ。恐怖に身が強張り、危うく卒倒しかけた。
かろうじて意識を手繰り寄せると、迅速に二部屋下がった。一度に二升の移動がなんらかの意味で不利に働きはしないかと危惧したが、ともかく後退せずにはいられなかった。
(信じられない――あんなの)
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