10
ペンを傾け、弱い力で紙に擦りつけた。案の定、文章が白く浮かび上がってくる。
〈お前たちは駒〉
今度こそ悲鳴をあげかけた。危うくペンを取り落とすところだった。
駒なのだ。だとしたら私はこのゲームの中で――殺される。
最悪の想定が当たった。どちらかが倒れない限りゲームが終わらない可能性。
ばたん、ばたん、とけたたましい物音が響き、兎の耳が甲高い痛みに見舞われた。心臓を鷲掴みにされた心地だった。なにかがこちらに迫ってきている。
なりふり構わずに走った。クロとまで逸れるわけにはいかないと理解していたが、他にはどうすることもできなかった。ひたすら四畳半を駆け、震える手で襖を開け、また駆けた。すっかり息が上がり、咽や胸は乾ききって、今しも嘔吐しそうなほどだった。
そして壁に突き当たった。それまでの勢いと、あるはずの場所に襖がなかった驚きとで、足を止めるという動作が一瞬、遅れた。
滑って転倒し、体を畳に強打した。それで限界だった。
抑えていた涙が堰を切ったように溢れ出す。無念さに、痛みに、恐怖に、あらゆる感情の濁流に呑まれるまま、ただ泣きじゃくった。立ち上がって別の襖を目指すことさえ忘れていた。いまここに鬼が現れて、一撃で息の根を止めてくれないかと願った。
洟を啜り上げ、咳き込み、嗚咽し、壁にずるずると身を凭せ掛けて待ちつづけたが、最後の瞬間は訪れなかった。涙が乾き、胸の痙攣が徐々に収まるにつれ、私の脳はようやくと回転を再開した。短いしゃっくりをしながら考えを巡らせた。
鬼は今、ここへは来ないのではないか。
あれだけ大騒ぎをしたのだから、とうに居場所は割れているはずだ。ここへ踏み込んできて私を殺すのは容易なことだったろう。しかしまだ私は生きており、ゲームが終わったとの明確な合図もない。
まだ続いている。なんらかの制約が、相手を縛っているのだ。
その制約――私の命を繋ぎとめている制約の正体は――なんだ。
しばらくは鬼が来ないものと仮定して、この部屋で時間を使おうと考えた。リュックサックを下ろし、中身を弄る。先ほどのシャープペンのような、思いがけない発見があるかもしれない。たとえば鋏。たとえばカッターナイフ。仮に手許にあったとして自分に振るえるわけもなかったが、それでも素手よりはましだった。多少の気休めにはなる。
やはり小ポケットから、今度はとらんぷの束が出てきた。遠足の前にでも買ってそのままだったのだろう、新品同然である。一人っ子で家には遊び相手がいないし、そもそもカードゲームの類はあまり得意ではなかった。自分の番が回ってくるたび、どうにも急かされるような気分になってしまう。
瞬間、脳裡を閃光が走った。生じた直感が、一拍遅れて言葉となり、唇から生じる。
(ターン制なんだ)
私は最初から思い違いをしていた。考えてみれば、なにもない正方形の部屋が連続するだけの空間など、かくれんぼにも鬼ごっこにもまるで不向きだ。隠れ場所はなく、いちいち襖に邪魔をされて走りにくい。私が参加しているゲームは、根底から別のものだったのだ。
(駒って、そういうことか)
私の移動が終わると、相手の番となる。私が自分の番で止まっていれば、相手も動けない。
手紙に隠されていたのは、単なる脅し文句ではなかった。ルールを告げていたのだ。
紙をまた引き出し、駆け抜けてきた部屋の情報を書き足さんとした。いくつの部屋を行き過ぎたのか、はっきり思い出せるわけではない。しかし自分が駒なのだと分かれば、新たな推測が可能だった。
私たちがいるこの空間は、おそらくボードゲームの盤面を象っている。ならば四畳半を一升とした、巨大な正方形だ。いま私の背中は壁――すなわち四つの辺の、いずれかの上にいるということになる。
連鎖的に、小紅の声が甦った。この一帯には確かに四つ辻が多いね。大通りでも縦横六本。
三十六升の正方形。それがゲームの舞台だ。
震える手で図を完成させた。矛盾は――ない。
視界の隅でするりと襖が動いた気がして、私は半ば反射的に振り返った。脚がひとりでに後ずさる。薄闇に目を凝らし、やがて吐息を洩らした。
(クロ)
無事に戻ってきたのだ。安堵のあまり涙した。
(ごめんね、ごめんね。帰ってきてくれてありがとう)
クロは私の胸元へと泳ぎ寄ってきたかと思うと、ひょいと頭を突き上げた。軽妙な動作だった。怪我などはないらしい。
濡れた目をしばたたかせ、涙を追いやってから見下ろした。彼は咥えてきた新しい紙を、私に差し出しているのだった。
一枚目と同じ筆跡。今度は初めから二行だった。
〈鬼はお前、お前は鬼〉
〈帰りえぬ場所へ帰るが望み〉
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