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〈隧道祭〉は〈金魚辻の市〉に時期を合わせる形で毎年開催されている、〈朱鼠〉にとって最大の祭典である。陽光の届かない地下での催しではあるが、〈祭火隧道〉の名のとおり、鮮やかな祭りの炎によって照らし出される。それは集まったひとりひとりの心にともる炎でもあり、すなわち希望の灯りに他ならない――。
本当はこの数十倍の分量の挨拶だったのだが、中盤以降はほとんど聞いていなかったので詳述はできない。「希望の灯り」とそれに類するフレーズが、おそらく五、六回は繰り返されたように思う。小紅は開始三分ほどで飽きて瞑想に入っていた。
座っていられたのがせめてもの救いだった。立って聞く羽目になっていたとしたら、私は確実に貧血で倒れていただろう。
この長たらしい開会の挨拶を行ったのは、〈牡丹燦乱〉の会長だという老人である。名乗ったはずだが名前は覚えていない。ただ周囲からは〈男爵閣下〉と呼ばれていた。綽名のようにも思えたが、どうやら敬称らしかった。なにやら尊敬を集める人物であるらしい気配が、そこここから伝わってきたのである。
「意味が分からない」と小紅は即断した。「あれが会長? あんなのを〈牡丹燦乱〉の連中は担ぎ上げてるわけ? 組織として終わりなんじゃないの」
ともかくも〈男爵閣下〉がやっとのことで壇上を去ると、最初の出し物が始まった。艶やかに着飾った女性たちによる手品で、私の目にはなかなか面白かった。ただ途中で行われた刃物投げ――的役に向かって短刀を投げる曲芸だけは、種があるには違いないとはいえ恐ろしくて見ていられなかった。
独楽回し、綱渡り、演劇と続いたのち、舞台に見覚えのある人物が現れた。先ほど私たちに話しかけてきた女性である。〈花櫓〉の憂と名乗る。小紅の推察どおりだ。
彼女の芸は音楽に合わせて悩ましげに踊るというものだったが、印象を端的に述べるならば――非常に過激だった。衣装を大胆にはだけ、長い手足を晒しながら、体を艶めかしくくねらせる。獣のように激しく動きながら、客席に向かって挑発的に笑む。見てはいけないものを見せられているようなのに、どうしても目が逸らせない。そういう芸だった。
それまでで最高の喝采を浴びて、憂さんは悠然と舞台を後にした。呆けている私の肩を小紅が揺すって、
「もうすぐ出番だよ。行かないと」
「ごめん、そうだね」
立ち上がり、舞台袖へと向かった。移動中、私は何気なく、
「憂さん、凄かったね」
「観客に受けがよかったのは認める」
頬を膨らませている。どうにも機嫌が麗しくない様子だ。私は慌てて、
「ええと、凄かったっていうのはその――」
「言っておくけど、踊りならあいつより私のほうが上手い」
小紅が堂々と言ってのける。まったくの初耳だったので、私はたいへんに驚き、
「そうなの? 踊れるの?」
「金魚だったころは一日じゅう踊ってた。あいつとは年季が違う」
冗談という雰囲気ではなかった。小紅は確かに負けず嫌いで自信家の面があるが、自分を過剰に大きく見せようとするタイプではない。
「いつか更紗にも見せる。ううん、更紗のためだけに踊るって約束する」
どう応じてよいのか分からず、私はただ曖昧に頷いた。そうこうしている間に、舞台袖へと繋がる扉へ至った。入口で控えていた係員が、私たちの手首に巻いた金の紐を確認する。
「通ってよし。健闘を祈る」
舞台袖に辿り着く。私たちの前の参加者が出番を終え、退場していく。幕が閉まると同時に後片付けが開始され、あっという間に舞台が空っぽになる。
「それでは続いては――〈朱紋様〉より更紗と小紅」
私と小紅は隣り合って、舞台の中央に立った。ゆっくりと幕が開いていく――。
嘘、と思わず、声には出さずにつぶやいた。目の前の光景が信じがたく、私は唇を震わせた。
観客の姿がほとんどないのだ。つい先ほどまで人がごった返し、あれほど賑わっていたというのに、今や舞台の前はがらんとしている。最前列に陣取る栄さんたちを見出すことこそできたが、他にはごく数名が居残っているのみだった。
「どうしよう」顔色を失ったまま、傍らの小紅を振り返る。「誰も聞いてくれないんじゃ、意味がないよ」
私たちが無名の新人だから――ということなのだろうか。長時間に渡るイベントであれば、人が出入りするのは当然ではある。面白い場面だけを見たがる心情も理解できる。しかしこうまで劇的に観客が失せるとは想像していなかったのだ。舞台に立ったまま、私は泣き出してしまいそうな心地だった。
「更紗」と小紅が顔をあげて言った。「大丈夫」
「大丈夫って――」
彼女は微笑を覗かせた。すっかりうろたえた私とは正反対の、凛とした口調で、「平気だよ。更紗はなにも心配しなくていい。私に少しだけ時間をくれる?」
「どうするの?」
小紅は答えなかった。ただ短く、「信じて」
自身に満ちた眼差しで私を見据える。なぜ小紅がこうも冷静でいられるのか、私にはまるで分からなかった。しかし幾度となく私の窮地を救ってくれた彼女が、ずっと寄り添ってくれた彼女が、自分を信じてほしいのだと言う。ならば、答えはひとつだった。
「――信じる」
「ありがとう」
小紅がゆっくりと前方へと歩み出した。舞台の光のなかで立ち止まった。
背筋を伸ばしたままがらんとした客席を眺めていたかと思うと、そっと片手を差し上げた。たったそれだけの動作が生じた瞬間、私は息を詰めた。小紅が小さな体に隠し持っていた秘密の一端を、垣間見たような気がしたのだ。
緩やかな、しかし一部の隙もない手の動きが、まったく自然に全身へと波及する。ある姿勢から次なる姿勢へと、水が流れるような滑らかさで移行していく。歩行し、手足を伸縮させ、回転し、ほんの僅かな静止を挟んで、また動き出す。頭頂部から爪先の先端まで、体のあらゆる部位が、あるべき瞬間にあるべき場所へと運ばれていく――その過程。力も、速度も、高さも、向きも、すべてが完全に統御されていた。ただ表現そのものとして、彼女はそこにいた――。
客席がざわめきを取り戻していることに、私はずいぶんと長く気付けずにいた。たったひとりの少女が体ひとつで見せたこのパフォーマンスに、私もまた魅了されていたからだ。感覚のすべてが吸い寄せられ、絡めとられてしまったような心地だった。自分がなにか途轍もないものに立ち会っているという感覚ばかりがあった。
万雷の喝采を浴びながら、彼女はふっと力を抜いた。あっという間に私の知る小紅に戻って、私のもとへ駆け戻ってくる。
「大丈夫だったでしょ?」と彼女は笑った。「更紗が信じてくれたからだよ」
言葉がなかった。なにか発しようとするだけで咽の奥が熱くなった。私はやっとのことで、
「小紅――凄いよ」
彼女は照れたように両掌で口許を覆ったのち、笑い交じりに、
「ここからが本番だよ。集まった人たちに聞いてもらわなくちゃ」
自分がなんのためにここに立っているのか、ようやっと思い出した。すっかり観客のひとりになりきってしまっていた。
「そうだった」
「みんな」と小紅が客席に向けて声を張る。「見てくれてありがとう。後半はこの暁更紗が、推理劇を披露する。題して『〈朱紋様〉の幽霊』。どうか最後まで楽しんで」
客席から歓声があがる。拍手や指笛が響きはじめる。小紅が私の肩を叩いて、やろう、と呼びかけてくる。
私は目を閉じ、深く息を吸っては吐いた。大丈夫だ。やれる。
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