32

 朧げに意識が戻ったとき、私は小紅に手を握られていた。「更紗? よかった、気が付いて――」

 言葉が終わるより先に、私は身を起こして彼女に縋りついていた。実体がある。体温がある。安堵のあまり涙が出てきた。肩口に顔を埋めたまま、「私、死んだかと思った」

「大丈夫、生きてるよ」小紅が私の背中に腕を回して、ゆっくりと撫でてくれる。「なにがあったのか、ちょっとずつでも話せる? 渡り廊下で倒れてたんだって。私、本当にびっくりしたよ」

 記憶が甦ってきた。ひとりでに唇が震えはじめる。「出たんだよ。ここ、出るの。幽霊」

「幽霊?」

「そう。私、見たの。中庭の木の陰から、ふわって出てきた」

 小紅は私の背をさする手を止めないまま、呟くように、「幽霊――幽霊か」

「疑われても仕方ないと思う。でも見たんだよ。やっぱり〈隧道〉っていうからには出るんだよ。神様も精霊もいるなら、幽霊がいても不思議じゃないでしょ?」

 つい早口になった。言葉が勝手に飛び出してくるようだった。

「実はね、更紗」慎重な口調で、小紅が私に語りかける。「私も噂を聞いたんだ。この〈朱紋様〉に幽霊が出るって」

「――本当?」

 声が裏返った。冷静な彼女のこと、過剰に怖がることはないと窘められるものと思っていたのだ。小紅は淡々と続けて、

「場所も合致してるんだよ。まさに更紗が見たっていう中庭。ずいぶん昔からある噂みたいだった。もちろん面白半分で広めてる子が大半だけど――やっぱりなにかある気がする」

「どうしよう。幽霊がいるお店になんて、私もう居たくないよ」

「分かるよ」口調が柔らかくなる。小紅は言い聞かせるように、「怖いの苦手だもんね。でもどうしたって時計は取り戻さなきゃいけないんだし、〈祭火隧道〉からは離れられない。そして私たちには目下、他に行くところがない」

「別のお店に雇ってもらうとか」

「今の待遇は期待できないよ。とんでもない激務で〈隧道祭〉どころじゃなくなったら本末転倒だし、今度こそお客を取らされるかもしれない。誰もが栄みたいに良心的なわけじゃない。私たちは運が良かったんだよ」

 理屈としては理解できたが、心情的に納得するのは難しかった。幽霊館に居合わせる羽目になった自分は、世界一不幸だという気がしていた。

「それだけ噂になってるなら、栄さんが対処してくれないかな。お店も困るでしょ」

 小紅は吐息し、「そういう些末な問題を解決させるために、お前たちを雇ってるんだって言われると思うな。店が開いてるあいだは、栄はほとんど身動きが取れないんだし」

 幽霊の出没は些末な事象ではないという気がしたが、私は反論しなかった。確かにそうなる可能性はある。巴さんを負かしたコンビであるという経歴が、私たちの主たる採用理由に違いないのだ。

「でも、隠しておくわけにはいかないよね? 起きたことは報告するよう指示されてるもん」

「うん。とりあえず一緒に、栄に知らせに行こう。考えるのはそれからでも遅くない」

 そういった次第で、私たちは女将の部屋を訪れた。さいわい今は体が空いているということで、すぐに話を聞いてもらえる運びとなった。小紅と隣り合って座り、栄さんと対面する。

「なにがあった?」

「店の女たちのあいだで広まってる噂、聞いたことある? この店に幽霊が出るって」と小紅が切り出す。「その件についてなんだけど」

「ああ、もちろん知ってる。それがどうした」

「ただの噂じゃないみたいなの。更紗が昨日の夜、幽霊を見たって言ってる」

 表情を変えないまま、栄さんが私に視線を寄越した。「そうなのか」

「はい。昨日の――真夜中ごろだと思います。私はお手洗いに行こうとしました。幽霊を見たのは、中庭を突っ切る渡り廊下の真ん中あたりです。いちばん背の高い木の陰から、すっと姿を現したんです」

「襲われた?」

「それは分かりません。情けない話なんですが、私はすぐ気絶してしまったんです。気が付いたときには自分の部屋にいました」

「誰が見つけた?」

「運んできてくれたのはコウ」と小紅が応じる。「仕事が終わって自分の部屋に帰ろうとしたら、倒れてる更紗が目に入ったんだって。酔っぱらってそのへんで寝てる子は珍しくないし、更紗もそうなんだろうと思って、あんまり心配はしなかったって言ってた。暢気すぎない? 栄、ちゃんと教育したほうがいいよ。万一のことがあったらどうするの」

「よく言っておく。更紗の体はなんともない?」

「体は大丈夫だと思います。ただその――精神的にちょっと」

「幽霊が怖い?」

 私は息を吸い上げて、「とても怖いです」

 はは、と声をあげて栄さんが笑った。馬鹿にした様子ではなかったが、やはり子供じみた態度と思われたのかもしれない。私は視線を下げ、

「正直な気持ちです。私は幽霊が怖いです」

「まあ人それぞれ、不得意なもんはあるからね。怖いものは怖い、で別にいいさ。実はこの〈朱紋様〉の幽霊話ってのは、昔から有名なんだ。あたしの先々代のころからある。中庭の木の下に幽霊が出る――とね」

 栄さんは抽斗から紙を取り出すと、さらさらと筆で絵を描きはじめた。省略の多い簡易的な作風だが、描き慣れた人なのだとすぐに分かる。驚いてその手許に見入った。

 間もなくして描き上がったのは、まさに幽霊である。白い死装束を纏った若い女が、両手を胸の前で垂らしたあのポーズでこちらを睨んでいる。怪談本の表紙を飾れそうな、見事な出来栄えだった。

「挿絵画家になれば」と小紅も感嘆する。「上手いよ」

「ここの女将を引退したら考えるよ。ともかくこうやって、ぼやっと白いのが浮かぶんだと」

「栄も見たわけ?」

「いや。少なくともあたしの代になってからは、実際に見たって奴は初めてだ」

 彼女は腰を浮かせた。それにしても本当に背が高い。天井に頭が届きそうである。

「ただの噂だ、迷信だって切り捨てるのは簡単だが、それじゃ薄情に過ぎる。念のため、あたしの目で確認しよう。あんたたちもおいで。一緒なら怖くないだろ」

「来てくれるんだ。私たちだけで調べろって言われるかと思った」小紅が嬉しげに私を振り返った。「栄がいれば平気だよ。これだけ強そうな奴が相手じゃ、幽霊も分が悪いもん。きちんと確かめてみれば安心するよ。ね」

 幽霊に喧嘩格闘の類は通用しないのではないかと反論しかけたが、すんでのところで思い留まった。店の主が本腰を入れて調査すると言っているのだ。水を差すような真似はしないほうがいい。

「そうだね。栄さん、お願いします。詳しい場所や状況を、現地でお話しします」

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