6
奇怪な建物の真下に辿り着いた。ざらついたその表層を慎重に撫でまわしつつ、耳を近づける。音の発生源はこの奥だ。
「これ、なんなの? どこかに入口はないかな」
「えっと、更紗」壁の手前で行き来する私に向け、小紅がおずおずと、「絶対にここ?」
「まず間違いないと思う。小紅も兎になって聞いてみる?」
彼女は頭を小さく左右に振り、それから私の肩に触れて、
「言いにくいんだけど、たぶん聞き間違いをしてる。これ、時計台なんだよ。更紗が聞いてるのは、探してる腕時計じゃなくて、この」上方の丸い機巧を指差す。「――音だと思う」
愕然とし、小紅が示している円盤を見上げた。時計盤といって私が想像するものとは懸け離れている。しかしよくよく観察すれば、文字らしきものが等間隔にぐるりと配されており、小さな紋章がそれに沿うように動いていることが知れた。
私は項垂れた。ぴんと伸びていたはずの耳が途端に張りを失い、だらりと萎れる。「なんだ。ずっと勘違いだったんだ」
近くの長椅子にへたり込んだ。集中の糸が切れた途端、周囲のあらゆる音が喧しくて堪らなくなった。耳を掴み、側頭部に押し付けるようにして塞ぐ。
「更紗」と小紅が私の隣に腰を下ろす。励ましてくれるつもりなのだろう。顔を覗き込んでくる目の、薄らと赤みを宿した瞬きに、なんだか胸苦しくなった。
「ごめん。私、いま――」
「大丈夫。焦らないで、ちょっとだけ休憩しようよ。少し休めば、なにかいい考えが浮かぶかもしれないし。ね」
その微笑みに、硬く強張っていた私の胸は少し絆された。ずっと心身に漲らせていた力が抜けていくのを感じる。やっとのことで頷くと、彼女はまた笑い、
「八重の砂糖菓子以外にも、美味しいものはいろいろあるんだよ。なにか買ってくるね」
私の返事を待たず、小紅は立ち上がって露店の光のほうへ歩いていった。一緒に行くと申し出るべきだったと思ったが、彼女の後姿はすでに雑踏に包み隠されて、見えなくなっていた。やむなくもとの場所に陣取ったまま、帰りを待つことにする。
提灯らしきあかりが、ゆらゆらと踊るように揺れていた。ただ吊り下げてあるだけのものがああも激しく動くはずはないから、なんらかの魔的な力が働いているのかもしれない。
「――あれ?」
膨らんだり縮んだりしながら、少しずつ接近してきた。赤から黄色、ときに白、と緩やかに色を変えながら飛ぶさまに見入っているうち、距離が詰まった。手を伸ばせば触れられるほどだ。ときどき輪郭が浮かび上がる瞬間があり、なにかの生き物のようだと思うのだが、これと断定するには至らない。
気が付けば十数個に取り囲まれていた。じゃれるように旋回している。悪意こそなさそうなのだが、相手の目的が分からない以上、身動きが取れなかった。下手に刺激をすれば、途端に豹変しないとも限らない。
「小紅」雑踏のなかに彼女の姿を見出し、声を張った。「なんか、不思議なのに囲まれちゃった」
「ああ――いま行くから待ってて」
小紅が戻ってきた。腕から提げた袋を軽く持ち上げ、「こっちにおいで。いいものあげる」
私に対してではなく、光への呼びかけであったらしい。私の周囲を漂っていた群れが方向を変え、すいすいと小紅へと近づいていく。その段になってようやく、正体が知れた。
「――金魚?」
「うん。この子たちは〈宵金魚〉。八重の霊獣だよ。あなたの時計を探してる」
外観は確かに金魚である。鮮やかなオレンジ色で長細い、鮒に近いもの。白地に赤や黒の斑点があるもの。大きな尾鰭や背鰭を優雅に揺らしているもの。黒い出目金。
いずれも、通常の金魚より遥かに大きい。そして穏やかに発光している。なにより平然と宙を泳いでいる。霊獣――神や精霊に寄り添う生き物。
「適当に食べ物を買ってきた。この子たちにも分けてあげていいよね」
頷いた。小紅が私の隣に腰掛け、袋を広げる。「はい。熱いから気を付けて」
差し出されたのはごく普通の蛸焼だった。それこそ公民館祭の屋台で売っているものと変わらない。かえって驚いた。
「もっと珍しいものが出てくると思った?」
「正直なところ――うん」
「挑戦してみたければ、珍味はいくらでもあるよ。でも今は食べやすいものがいいかなって。人間のお祭りで見たことあるのにしたの」
「そっか。ありがとう」
削り節が熱で踊っているところや、爪楊枝が刺さっているところまで、私の知る蛸焼そのままである。そっと口に運んだ。神と精霊の市の品だというのに、真新しい要素はなにひとつなかった。ただ懐かしい味だった。涙が溢れかけた。
小紅の頭上を行き来していた〈宵金魚〉たちが、ゆっくりと下降してきた。私たちの手許を覗き込みながら、口をぱくぱくと開閉させている。
「あげるよ。冷ますからちょっと待ってね」
どう分配したものかと考えていると、一匹がするりと群れを抜け出し、私のリュックサックに近づいて鼻先で突きはじめた。妙に熱心というか執拗で、面白半分の動作でもなさそうだ。
「なにか入ってるの?」
「着替えとか洗面用具とか――あ、あと〈薄林檎チップス〉」
小紅は小首を傾げ、「なあに、それ」
「お菓子。ちょっと出してみるね。美味しいんだよ」
鞄の蓋を開けた。三箱ある。蓮花さんへのお土産には違いないのだが私の好物でもあり、一緒に食べようと余分に用意しておいたのである。
いつの間にか、他の〈宵金魚〉たちも私のリュックサックの周囲に集まっていた。気になって仕方がないという風情だ。
一枚を細かく砕き、掌に乗せて出してみた。途端にどっと金魚たちが押し寄せてきて、先を争うように食べはじめる。よほど好みなのだろう、あっという間に平らげてしまった。
「蛸焼よりそっちがいいみたいだね。〈宵金魚〉がこんなに興奮してるところ、初めて見た」
私と小紅と金魚たちとで分け合い、一箱ぶんを食べた。蛸焼のあとの甘味として、〈薄林檎チップス〉はちょうどよかった。金魚たちが大はしゃぎだったことに加え、小紅も味を称賛してくれたので、私はすっかり素敵な気分になった。持ってきてよかったと思った。
「更紗、見て」
〈宵金魚〉たちの膨らんだ腹部が、再び発光しはじめていた。それまでゆったりと旋回していた彼らが、申し合わせたかのように方向を変える。明滅を繰り返しながら、いっせいに泳ぎ出した。
「どこかに案内するつもりなのかも」と小紅。「ついていってみようよ」
伸べられた手を握り返した。自分の耳の先端が、再び空を指していることに気付いた。
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