5
「小紅か。そっちのお嬢さんは?」
「更紗っていうの。持ち物――時計を失くして、この市から出られなくなってる。このあたりで落としたかもしれないんだって。なにか知らない?」
店主は丸く小さな目を何度か瞬かせたのち、ゆっくりとかぶりを振って、
「失くし物か。そいつは難儀だな。済まないが、私は見た覚えがない」
「少し前、私がこの近くにいたのは覚えていますか?」
問うと、これにも彼女は首を振り、
「たまたま外に出ていたときだったんだろうな。あんたのほうも、私の面に覚えはないだろう? しかし――〈金魚辻〉で落とし物とはな。私がなにか力になれればいいが」
彼女は私を直視し、やがて無骨な手を差し出してきた。「挨拶が遅くなったな。小紅に聞いたかもしれんが、私は月乃という。面の職人だ。ここに並んでるのは全部、私の拵えた品だ」
私も改めて名乗りながら手を握り返した。「凄いお面ばかりですね。手作業で彫るんですか」
「一から彫ったものもあるし、化物の顔から剥ぎとった芯を加工したものもある。どの面にも魔力が宿っているんだ」
真実なのか冗談なのか判然としない。月乃さんは私から面へと視線を移し、しばらくのあいだ眺め渡していたが、不意に声をあげて、
「そうだ、いい案がある。探し物に役立ちそうな面を、あんたに貸そう。面の力を使いこなせれば、きっと上手くいくはずだ」
「え? それって――」
魔力が封じられているという面? 困惑する私を余所に、彼女は腕組みして、
「目、鼻、耳。どれを選ぶ?」
「質問の意味がよく。目か鼻か……耳?」
「耳がいいよ」と小紅が助け舟を出してくれた。「目で探すのは八重の霊獣たちがやる。鼻で探すのは白狼丸が得意だけど、あなたには向かない。だから耳がいい」
「お勧めどおり耳でいいか? 更紗」
わけも分からないまま頷いた。きっと間違いではないはずだと自分に言い聞かせる。困りごとは小紅に相談するよう、八重さんにも指示されたではないか。
「承知した。ならばそう――こいつが適任だ」
月乃さんが選び出したのは、他のものに比べるとたいそう小振りで地味な、白っぽい面だった。内側が鮮やかな朱色をした、長い耳が伸びている。見るからに恐ろしげな獅子や鬼でなかったので、少し安堵した。
「見てのとおり兎の面だ。使うといい」
「聴覚が鋭くなるんですか?」
「試したほうが早い。さあ、かぶってごらん」
促されるままに顔に近づけた途端、面のほうから強く吸い付いてくる感触があった。反射的に引き離そうとしたが、面は自らの意思を持っているかのように動いて、私の顔に貼りついた。思わず悲鳴をあげかけた。
「うう」ようやく息がつけた。小紅に向き直り、「ちゃんとかぶれた?」
大丈夫、という返答が耳に入るなり、驚愕した。幽かな震え方や響きに至るまで、手に取るように分かるのだ。声がどのあたりから発生し、どのくらいの速度で咽や鼻を抜け、中空のどのあたりに放たれるのか。それにどういった感情が込められているのか。これまで知り得なかった情報が一息に流れ込んできて、私の意識は混濁した。ふらつき、眩暈さえ覚えた。
「やっぱり最初はそうか」と月乃さんが笑う。「じきに慣れる。もとの聞こえ方と自在に使い分けることもできる。ちなみにだが、変わったのは聴力だけじゃないぞ」
指摘され、私はようやっと自らの体の変化を意識した。頭頂部に怖々と触れ、想像したとおりのものが伸びているのを悟る。長々とした兎の両耳。
「なかなか似合ってるぞ」
月乃さんが店の奥から鏡を出してきた。かぶっているはずの面は、一見するとどこにも存在しない。兎の耳を生やした私の顔が、ただ映りこんでいるばかりだ。
「面が象っているものに変身し、特別な力を身に宿すことができる。それが私の拵える品の売りでな。世界広しとはいえ、滅多に手に入るもんじゃない。しばらく貸すから、使ってみて気に入ったら買ってくれ」
頭を下げて礼を言い、お面屋を離れた。あたりをゆっくりと歩きまわりながら、兎の耳の感覚が馴染んでくるのを待つ。
なるほど月乃さんの言葉どおり、ちょっとした意識で聞こえ方を切り替えられるようである。濁流のごとく入り込んでくる音から必要な部分だけを選別し、集中して聞くすべも分かってきた。確かにこれは便利だ。
「そろそろ探しにかかる?」
小さく頷き、目を瞑って兎の耳を欹てた。感覚が及ぶ範囲を少しずつ押し広げていく。
かち、という小さく機械的な音を、不意に捉えた。波紋が広がるように伝ってきて、頭の奥が震える。かち、こち、かち、こち……。
これだ。規則的に持続している。
「掴まえた」かしらを巡らせ、方向を定めた。「こっち。行こう」
人波の隙間を擦り抜けるようにして駆けた。自分が普段よりずっと小さく、身軽な生き物になったかに思えた。いや、本当に足が速くなっている?
「兎の脚力で走らないで。逸れちゃうよ」
ふと足取りを緩めると、追い縋ってきた小紅が私に告げた。息を荒げているでも、汗をかいているでもなかったが、余計な体力を使わせてしまったには違いない。
「ごめん。今の私、脚も兎なんだね」
「体じゅう兎。普通の人間とは比べ物にならないくらい、飛んだり跳ねたりできるはずだよ。だから気を付けて」
耳の先がひとりでに折れ曲がった。小紅は楽しげに口許を覆って、
「いいよ、もう分かったから。それで、落とし物の手掛かりは?」
「追えてる。少しずつ大きくなってるから、方角は合ってると思う」
今度は手を繋ぎ合わせて歩いた。幼い時分に蓮花さんがそうしてくれたことが思い出されて懐かしかったが、多少なり気恥ずかしくもあった。また耳が勝手に動いてしまいそうで、どうにも気が抜けない。
ひときわ背の高い、楼閣めいた建築物が目に入った。天辺近くに巨大な歯車が集積したような、丸く複雑な機巧が備え付けてある。単なる飾りにしてはあまりに大掛かりだから、なにかしらの目的があるには違いない。
「音、まだ聞こえてる?」と小紅。
「うん。まっすぐ前」
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