39
誰かがゆっくりと、そして温かく手を打ち鳴らしはじめた。それがやがて、客席全体へと伝播する。口笛が、指笛が、歓声が、私たちを包み込む。
やり遂げたのだと理解するのに、少し時間がかかった。私はようやく小紅と顔を見合わせ、それから肩を抱き合った。ふたりで正面の聴衆へと向き直り、深く頭を下げる。
「お疲れさまでした。お二方」客席のどこからか、男性の声があがった。「おかげさまで、地上に素晴らしい手柄を持ち帰れそうです」
私の斜め前あたりに立っていた男性が不意に崩れ落ちた――そう見えた。気が付いたときには彼の姿はもうなく、ただ上着だけがそこに残されているのみだった。
何事かと目を瞠ったその次の瞬間、上着がばさりと盛り上がり、空中へと跳ね上げられた。するすると凄まじい勢いで、なにか長細いものが上昇していく。
「同じ地中に生きる存在としては見過ごせない事態のようですね、〈朱鼠〉の皆さん」
突如として現れたのは、巨大な蛇の鎌首だった。鱗の色は薄青く透き通って、瞳もまた銀色に近い。それを除けば、外観は巴さんにそっくりである。
私は呆けたようにそれを見上げていたが、やがて声の主に思い至って、
「九曜――さん?」
「覚えていてくださいましたか。光栄だ。いかにも僕は蛇の一族の三十三番目の息子、九曜です。あなた方には驚かされましたよ。さすが父を負かしたおふたりです」
「あんた、なにも手伝わないって言わなかった?」と小紅が問う。「自分の役割は私たちを送り届けるだけだって」
九曜さんは飄然と、「ですから仕事を終え、久しぶりに地下を散策していたんです。祭りとあらば覗いてみたくなるのが道理。我々はたまたまここに居合わせたにすぎないんですよ」
ずるずると引きずるような音、そしてくぐもった悲鳴が聞こえてきた。別の大蛇の尾に胴体を縛り上げられた〈男爵閣下〉がこちらに引っ立てられてくる。完全に怯え切っているらしく、顔色は蒼白を通り越して真っ白に近づいていた。さすがに気の毒に思えてくる有様だった。
「弟たちに、関係者を丁重にお連れするよう指示してあります。僕ら兄弟だけで判断するわけにはいかないのでね。勝手な真似をすれば、僕らのほうが父にお仕置きをされてしまう」
ああ恐ろしい、とわざとらしく洩らしたのち、九曜さんは頭部を高く差し上げ、
「〈牡丹燦乱〉は権力を濫用し、〈隧道祭〉にふさわしからぬ振る舞いをした。よって我ら蛇の一族は、同じ地に生きるものとして、その解散を提案する。いかがかな」
集まった〈朱鼠〉たちがいっせいに拍手を始めた。彼らもやはり、〈牡丹燦乱〉に憤っていたのだと知れた。
「結構。それからもうひとつ。〈牡丹燦乱〉の協力者だった女、聖の処置についてだ。これに関しては〈朱紋様〉側で決めてもらいたい。我らはそれに従おう」
九曜さん、そしていつの間にか周囲に集まっていた彼の弟たちが、するするとその場から退いた。観客たちもそれに合わせて下がってくれた。ぽっかりと開いた空間に、左右からコウさんと蘭さんに腕を掴まれた状態の聖さんが歩み出てくる。
特別な表情は見て取れなかった。ただ唇を引き結んでいるばかりの彼女に、蘭さんが業を煮やしたように、
「なんかないの? 栄に、更紗に、小紅に、コウに、〈朱紋様〉のみんなに、なんか言うことはないの?」
聖さんはようやく薄い笑みを浮かべて、「あたしみたいな女に関わって、不運だったと思ってください。それで、できるだけ早く忘れてください。もうお会いすることもないでしょうから」
私たちは舞台を下り、彼女のもとへ歩み寄っていった。一瞬、栄さんがその頬を張るのではないかという不安に駆られたが、彼女はそうしなかった。ただ静かに、
「あたしは〈朱紋様〉をずっと続けるつもりだ。コウが、蘭が、他のみんなが、ここにいたいと思ってくれる限り、あたしは店を守りつづける。あんたがやったことは間違いだが、なにひとつ間違わない奴なんて誰もいやしない」
聖さんは唇を開いて栄さんを見返していたが、やがて絞り出すように、「――馬鹿じゃないんですか、女将」
「あたしの描いた偽物を持って行ったような間抜けに言われたくないよ。あの絵には、びた一文の価値もないんだ。でもそんなに欲しかったんなら、あの絵をあんたにやるよ。あんたはなにも盗んじゃいない。貰った絵を持って行っただけだ」
ふ、ふ、と聖さんは吐息を洩らし、それから掌で顔を覆った。一瞬だけ俯いたかと思うと、すぐさま顔をあげ、
「九曜。あたしも蛇の一族の裁きを受けようと思う。一緒に連れて行ってほしい」
「それでいいのか?」と九曜さんが問う。「父のお仕置きは恐ろしいぞ」
「いいさ。どんなに恐ろしい罰だったとしても、受けなければ後悔するだろうから」
承知した、と九曜さんは応じ、再びかしらを持ち上げて、
「では我らは地上に戻り、蛇の一族の代表、巴に〈牡丹燦乱〉および聖の処遇を仰ぐ。今年の〈隧道祭〉の始末は、君たち自身で付けてもらいたい。だがひとつ、このたびの更紗と小紅の健闘が充分に報われる形になるよう、私からはお願いする」
聖さんがコウさんと蘭さんの腕を振りほどいて、〈男爵閣下〉を拘束している蛇のもとへと近づいた。蛇たちとともに、ゆっくりと〈隧道祭〉の会場から歩み去っていく。
「聖」遠ざかっていく背中に向け、コウさんが叫んだ。「戻ってくるまで、耳を舐める練習を欠かさないように。教育係として、どれだけ上達したか直々に確かめるからね」
聖さんが笑い出した。ずいぶんと長いこと笑いつづけていたが、やがて私たちを振り返って、「いつかね」
それはずっと物憂げだった彼女が初めて見せた、心底愉快そうな表情だった。
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