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「〈祭火隧道〉?」と小紅が問う。「みんな、〈朱鼠〉のところに行ったの?」
「そうらしい。私もそんな場所があるって知らなかったんだけど――ともかく今は安全が第一だからね、そこへ助けを求めることにした。あんたたち、よく知ってたね」
「実際に行ってきたから。〈祭火隧道〉の通路を上ってきたら、この時計塔の中に繋がってたんだ」
八重さんは額に掌を当て、「自分が主を務める市の真下に、そんな堂々と穴を掘られて気付かずにいるなんて――私は大莫迦者だ」
「独りで全部に目を光らせるのは無理だよ、八重。地下の事情を知ってて黙ってる、巴の一族が悪い」
八重さんは薄く笑った。鬼水母を見上げてから、「それでだ、あいつをどうにかする方法を考えた。戦えないことはないと思うが、やはり白唇の雪那に頼もうと思う」
夏の〈金魚辻〉に対して冬の〈細雪〉――その主だ。八重さんよりも強く厳格な神。
「雪那ってよく知らないけど、雪と氷の精霊でしょう? 真夏に出てこられるの?」
「かんかんに怒るだろうね。でも仕方ない。ここでやり合ったら、どうしたって被害が出ちまう。あいつに頭を下げて、氷漬けにしたうえで山に封じてもらったほうがいい」
その途端、ずっと穏やかに控えていた〈宵金魚〉たちが騒ぎはじめた。いっせいに八重さんのもとへ飛んでいき、彼女の体を突いたり、目の前で鰭をぶるぶると震わせてみせたりする。彼女は困惑した様子で、
「なんだ、どうした、お前たち。雪那を来させるのは反対か? でも他にはどうしようも――」
私は大騒ぎを続ける〈宵金魚〉たちを注視した。なにか厭がっている、あるいは抗議しようとしている? 聡明な彼らのこと、理由なく八重さんに歯向かうはずはない。なにか重要なことを知らせようとしているのだ――ザシキボッコと戦った、あのときのように。
はっとした。なぜ今の今まで気付かなかったのか。
「八重さん」と私は呼びかけた。「作戦を決めました。一度だけで構いません。私と小紅にやらせてください。あの子を傷つけずに解決できるかもしれないんです」
「あの子? 鬼水母のことか?」
「はい。私にはあの子の正体が分かりました。だから八重さん、私たちにチャンスをください」
彼女は腕組みし、それから宙を眺めた。なにか遠い出来事を思い返しているかのように見えた。やがて短く頷き、「一回きりだよ」
「ありがとうございます、八重さん。私たちを信じてくださって」
私はすぐさま小紅を振り返った。私の推測、そして決行すべき作戦を耳打ちする。話を聞き終えた彼女は笑顔を覗かせて、
「分かった。一緒にやろう」
私たちは視線を交わし、頷き合った。すぐに準備を開始する。リュックサックに手を突っ込み、必要なものを取り出す。
「〈薄林檎チップス〉。まだ残っててよかった」
好物の気配を察してか、十一匹の〈宵金魚〉たちが先を争うように泳ぎ寄ってきた。小紅が彼らを巧みに捌きながら、
「全部終わったら食べていい。今は少し我慢。食べないで欠片を咥えたまま飛ぶの。できる?」
〈蒐集家〉の屋敷で偵察を担当した一番隊の二匹と小紅の隊に振りかけられていた五匹、計七匹が指示どおり〈薄林檎チップス〉を運んでいった。残りの四匹が私のもとに集まる。出目金のアカ、鰭の見事な琉金のシロ、頭部のごつごつとした蘭鋳のラン、体の大きい和金のドン。
「あいつ、食いつくかな」
「絶対。〈薄林檎チップス〉、あの子も大好きだもん」
鬼水母が反応を見せた。胴体とも頭部ともよく分からない帽子のような部位が動いて、〈薄林檎チップス〉を咥えた金魚たちを追いはじめる。
「よし」と小紅は握り拳を作り、「協力してこっちにおびき寄せて。高さは今のまま。なるべくゆっくり」
少しずつ、少しずつ、鬼水母がこの時計塔に向けて迫ってくる。私は小紅に向かい、
「これを投げる役を願いしたいの」
蛇の一族に貰った瓢箪である。詰まっているのは最上の薬液だ。彼らの言葉を信じるならば、これを飲ませさえすれば、たちどころに効果が現れる――。
「分かった。あいつの口に放り込めばいいんだよね」
私は頷き、「ぎりぎりまで引きつけて、一発で決めてほしいなんて、無理なお願いだって思うけど――」
小紅はあっさりと、「楽勝。私、こう見えて鞠投げの達人として鳴らしたんだよ」
「凄いな。なんでもできるね」
彼女は微笑し、
「更紗が信じてくれるなら、なんだって」
小紅が配置に付き、瓢箪を構えた。私は後方に下がり、丹念に脚を曲げ伸ばしして筋肉をほぐした。跳躍に関しては〈兎面〉がどうにかしてくれる。実証済みだ。なにも怖がることはない。
「来た。合図で投げるから、思い切って飛んで」
金魚たちを追う鬼水母は触手を放射状に広げ、その大きく開いた口を覗かせている。同時に色味が変じ、全身がほぼ半透明にまで薄まった。体内、おそらくは胃袋なのであろう箇所に、小さな固形物が光っているのを私は見た。〈らふらん〉の腕時計。
「三、二……」
小紅が腕を振りかぶる。私は駆け出す。〈兎面〉の力が脚へと漲り、あっという間に速度が上がっていく。右足で踏み切り、思い切り体を跳ね上げる。
宙を舞った刹那、視界の片隅に映りこんだ小紅の姿が、幽かに揺らいだ。それはほんの一瞬のことだったけれど、決して見間違いではありえなかった。まるで陽炎のようにぼやけ、立ち消えそうになる――。
「小紅」
寸分の狂いなく飛翔した瓢箪が、鬼水母の口に収まった。〈宵金魚〉たちが四方八方に散る。薬液を飲み込んだ鬼水母が前進を停止し、その場でびくびくと震えはじめる。ここまではすべて、私たちの計画どおりだった。
それでも空中の私は、体の制御を失っていた。踏み切りの瞬間の光景。ほんの僅かな躊躇いが、〈兎面〉の能力を損なわせたのだ。
届かない。ここまで来たのに。
なすすべなく落下していこうとしたとき、私は上方に不思議な影を見た。光に紛れてはっきりとは視認できなかったが、人間の子供を思わせる輪郭を有している。それが魔法のようにするすると近づいてきて、私の手を掴み、引っ張った。ふわり、体が持ち上がる。
あはははは――という無邪気な少女の笑い声が、耳元で響いた。
「ザシキボッコ?」
気が付いたときにはもう影は失せ、私は鬼水母の頭頂部に立っていた。はたとして足許に視線を落とす。あった。屈みこみ、囁くように呼びかける。
「びっくりしたね。でももう大丈夫。元に戻れるよ――クロ」
私は一息に、鬼水母の頭部に張りついていた面――〈宵金魚〉を鬼水母たらしめていた魔法の源を引き剥がした。途端に光が溢れ、私の目を射る。それでもその向こう側で、鬼水母の巨体が収縮し、本来の姿へと返っていくのが分かった。
出目金のクロ――ともにザシキボッコと戦った〈宵金魚〉が、ぽこんとその口から時計を吐き出した。落とさぬようにベルトの部分を咥えたまま、私の胸元に寄り添ってくる。
「ありがとう、クロ」
足場が失われると同時に、泳ぎ寄ってきた十一匹の〈宵金魚〉たちが私の袖やら裾やらを咥えて、ぐっと引き上げてくれた。空中で支えられた姿勢で、少しずつ地面に向けて下っていく。
「更紗、よくやった」降り立った私を、八重さんのほっそりとした腕が抱き留める。「みんなを地下から呼び戻すよ。話してやってくれないか、どうやって鬼水母の正体を突き止めたのかを」
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